──見覚え、だと思う。
 ──あたしはこの層のことをきっと知っていた。






















 あたしは痛みに強いほうじゃない、そういう自覚はある。怪我をしたらすぐ泣く子だったから。でも、あたしは、歯を食いしばって、頭の奥の痛みと胸の奥の嫌な塊に耐えながら、ひとりきりの車輌で我慢をして。
  都市モノレールで第7層へと降りて、あたしの知る2層よりもよほど猥雑な喧噪に満ちた人混みへと降りたって。

 初めて、ううん、以前来た時と同じ妙な感覚を味わって。

 はっきりとした見覚えはない。やっぱり、ない。行き交う異形の人々を見つめても心あたりは何もない、沸き上がる記憶も、ああそうかという実感も何ひとつないというのに。

 あたしはきっと知っていた。
  この音、この匂い。

 無限雑踏街の中を歩く。あの時と違って、地図情報のプリントアウトはないけれど、道はわかるから。
  覚えてる。

 以前、来たから?
  そう。そうだと思う、そうでなければ──

「……第7層、28区域」

 小さく、小さく呟いて。

 呟きながらあたしは歩いていく。まただ。最寄りのモノレール駅で降りずにこんな人混みの中へと降りてしまったことには途中で気付いたけれど、どうしようもない。あの時とほとんど同じ。
  自然と降りていたし、自然と歩いていた。
  あたしの情報改竄を依頼したという謎の人物のいる街。あたしが見たことのない第7層、無数の異形の人々の声、ほのかに聞こえてくるロマの人々の楽器の音、まだ昼間だというのに酒場からは賑やかな声が響いてくるし、路地の隙間からは叫び声のようなものまで聞こえてくる。

 恐いだなんて思わない。
  昨夜、あんなにもひとりで怯えて取り乱していたのに。

 あたしは。
  この層のことを、知っていたのだと思うから。

 ──思い出せなくても。
 ──今にも嘔吐しそうなくらい、胸が詰まっていても。

 胸が高鳴っている。
  同じ。あの時と同じ。初めてここへ降りた時と同じだ。緊張、恐怖、警戒心、ううん、違うわ。不安。そうかも知れない。でも、そうだという確信は湧いてこない。確かにあたしの心臓はひどく早く脈打って、28区域のあすこへ急げと叫んでいる。

 頭が痛い。
  頭が痛い。
  でも、あたしは立ち止まっていられない。歩く。

 ──歩く。
 ──歩く。
 ──歩く。

 そして、あたしは辿り着く。第7層28区域のA−3アパルトメント跡。そう、跡。

 瓦礫の山があるだけの。
  誰もいない場所。

 かろうじて建物の形を保って人の生活の気配があるのはその周囲で、肝心のA−3アパルトメントは、うん、やっぱり、影も形もない。瓦礫の山が積み上げられているだけ。

「……まだ、残ってた……」

 あたしは声を漏らす。
  無人の工事用車輌がすぐ脇に駐車してある。でも、まだ、ここの瓦礫は退かされていなかった。まだ、あった。

 あたしは安堵する。
  なぜかなんてわからないしわかりっこない。

 前はここで立ち止まった。
  でも、今日は。

 最後だから。工事用の機関車輌が動いてしまえば、ここには何もなくなってしまうから。瓦礫さえも消えてしまうから。だからあたしは、瓦礫の中へと、進む。

 転びそうになりながら。
  バランスの悪い瓦礫の山をよじ登る。

 危ない、と思った時にはもう転んでいた。ヒールのある靴なんか履いているのがいけないんだ。あたしは靴を脱ぎ捨てると、また、よじ登る。

 なぜそうするのか、自分でもわからない。
  中に入りたい。
  ここへ。

 そう思うから。
  だって、もう、これが最後なのだから、と。

 自然と──

「ここが、玄関で」

 唇から──

「ここが、リビング」

 声が──

「ここ、キッチンね」

 漏れる──

「ここは……」

「そこは、彼の寝室だったね」

 あたし以外の誰かの声。あたしは、その時、もう殆ど何も考えられていなかったと思う。走って、歩いて、よじ登って、もう体は疲れ果てていて、頭もぼんやりとしていて。うわごとに近いあたしの呟きが何であるのかとか、誰かが聞いているとか、そういうことは一切考えていなくて。

 だから。
  あたしは、ぼんやりと顔を上げて。

 声をかけてきた“誰か”を見るの。
  あなた、誰。

「覚えているの、アティ」

 きれいな声。聞き覚えのない声。誰、あなた。
  頭の奥がひときわ強く痛くなるのは、思い出したから。あたしに声をかけているのは、子供だった。

 ──男の子か女の子かわからない。
 ──黒髪のあの子。

 覚えている。
  名前は、そう、ポルシオンと呼ばれていた。

「あなた……」

 自然と、あたしは手を差し伸べていた。
  ポルシオンと呼ばれた子の、柔らかな頬に触れる。

「アティ」

 その子はあたしの名を呼んだ。
  そして、言った。

「あなたは」

 あたしと同じように瓦礫の中に立ち尽くして。
  頬に触れたあたしの手を取って。

「何を願うの」

 ──あたしが、何を、願う?

「あたしは……あたし、は……」

 ──あたしは。

 ──痛み。

 ──空白。

 ──そして、胸が張り裂けそうなほどの不安。

「あたしは……」

 ──あたしを、アティ・クストスを苛むものすべて。
 ──すべて、消え去ってしまばいいと。

「……あたし、は……」

「何を願うの」

「……あたし、の……願い、は……」

 あたしは告げる。
  それは、言葉になったかどうか定かではないけれど。

 

 

「………………」

 

 

 あたしは瞼を閉じる。
  この頬を伝って流れて落ちるものがあった。暖かな。

 そして。

 ポルシオンと呼ばれた子は手を差し伸べる。
  右手を、あたしの頬へ。

 ──その時。
 ──確かに聞こえたの。

 ──あたしには。
 ──“あの子”の声が、確かに、聞こえて。

 







[sekien no inganock -what a beautiful people-] Liar-soft 21th by Hikaru Sakurai / Ryuko Oishi.
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