「顔をお上げになって。ミス・クストス。あなたをここへ呼びつけてしまったのはあたしなのですから、あなたが畏まることではありません」






















「……はい、レディ」

「言われるほどの淑女ではありません。
  どうか、お気を楽にして」

 でも、あたしは恐縮してしまう。
  緊張して声が震えそうになるのが自分でもわかる。

 何が起きて、何がどうなってこんなことになってしまったのだろう。都市頂上部に位置する上層、綺麗に磨き抜かれて輝くかのような石畳が敷き詰められた広い広い通りに豪奢なお城のような邸宅が立ち並ぶところ。あたしは、その中でも1番か2番目に大きなお屋敷の、あたしのコンドミニアムがまるごと入りそうなほど広い応接間に通されて、貴族の女性のお言葉を賜っていた。

 貴族紋(ノーブルタトゥ)も鮮やかな、若い女性。
  大公爵さまのご不在にあたり、支配貴族となって、都市管理部と共に現在の都市を運営しているとTIMESなどは伝えている、センケンネル家のお嬢さま。

 ──サラ・センケンネル。
 ──凛として、レディに相応しく強い意志を秘めた瞳。

 あたしは緊張してしまう。
  何も後ろめたいことなんてないはずなのに、口の中が乾く。失っていた記憶の最中に何かの不敬をしでかしていたのではないかと考えてしまって、最悪の想像をしてしまいそうになる。

 貴族さまを見るのも初めてなら、話すのも初めて。
  新聞の、それこそTIMESの篆刻写真で見たことはあるけれど、貴族年鑑ほど大きな写真ではないし、何より篆刻写真は白黒で、こんなに色鮮やかだなんて。こんなに美しいだなんて。

 あたしは戸惑ってしまう。
  道理はわかる。わかっていたって、2級市民が貴族の、しかも上級の爵位を持つ偉いひとの娘さんと話すだなんて。こんな風に、まさか上層への召喚状をいただいて、直接お会いするだなんて想像するはずないもの。

 この右瞳だ。
  それがすべての理由なのだとは、わかる。

 先日、あたしを診てくれた壮年の数式使いのお医者さま(クラッキング・ドク)が述べていた言葉を私は思い出す。うん、そう。思い出す。最近のことなら、思い出しても痛みはないから。

『過日、上層貴族センケンネル家の支援で、変異に伴う苦しむ人々を救済するための医療財団が設立されました。私も所属しています。数式医複数名の診断によって、より専門的な治療と詳細な原因調査が可能です。私より上質な診断数式(アナライズ・クラック)を扱う者もいますから』

『はい……』

 センケンネル家のお嬢さまが、慈善事業を行っているとは知っていたけれど。まさか、ただのあたしなんかのためにわざわざお会いになるだなんて、かけらも思うはずがなくて。
  自然と、俯いてしまう。
  なんだか申し訳がなくて。
  貴族さまの注目を受けているというだけでも、もう、肩身が狭くて、消えてしまいそう。

 あのお医者さまの紹介を受けて、貴族家お抱えのお医者さまが何人も、あたしを診てくれた。右目に顕れてしまった黄金色の瞳が何であるのか、なぜ、ぽっかりと空いた10年のことを思い出そうとすると痛みを感じてしまうのか。
  お医者さま方の目の前に浮かびあがる数式から放たれるクラッキング光を見るたびに、あらしは、また、痛くなってしまって。

 痛むたびに、少し泣いた。
  痛みが我慢できない訳じゃないけれど。

 ただ、涙はこぼれて。
  そこから少し、前後の記憶がぼやけてしまって。

 訳もわからず──
  ただ、涙だけ──

「その後、お体の調子はいかがですか。ミス・クストス」

「はい、少し、慣れました。
  思い出そうとしなければ、痛みませんから……」

「思い出そうとすると、まだ頭が痛むのですね」

「……はい」

「謝罪します、ミス・クストス。私の財団の数式医では、その右瞳を解析することはできませんでした。最後にあなたを診断された方は、かの連合皇帝閣下の保護下にあるエイダ研究機関の碩学ですが、彼もまたあなたの右瞳の変異と、頭の疼痛の正体を明らかにすることはできませんでした」

 そう言うと、レディ・センケンネルは席を立って。
  近づいて。

 あろうことか、あたしの両手を握りしめた。そんな、とあたしは思わず手を引こうとするけれど、レディは手にぎゅっと力を込めていて、逃げられない。
  上層貴族は変異することを恐れ、下層の人間とは同じ空気を吸うことすら拒むのだと、都市が解放されて異形化が沈静化してもなおその態度は変わらないのだと、あたしはそう、聞いていたのに。

 慈善財団を作るぐらいのひとだもの、凄いひとなのだとは思っていたけれど。まさか、触れるだなんて、思うはずもないから。
  あたしは、たじろいで。

 レディ・サラ・センケンネルの瞳を見る。
  強い意志、ああ、本当に、揺るぐことなくまっすぐな瞳で、あたしを見つめて──

「きっと元に戻るはずです。ミス・クストス。
  研究は進んでいます。記録の断片も幾つか発見され始めているのです。10年前のものならいざ知らず、解放された今は、現象数式実験の与える人体への影響は取り除くことができるはずだから」

「……は、い……」

 ──現象数式実験?
 ──なんだろう、それは。

 知らない言葉を聞いて、少し、あたしは震えた。レディの意志に何か恐ろしいものなどありはしないと、この瞳と手の温かさがそう信じさせてくれるけれど、あたしは。
  あたしは不安を抑えきれない。

 この自分に、この右目に、一体何があるっていうの。

 もう思い出さないよう、
  痛みに襲われないよう、
  毎日、毎日、痛みがいつ来るのかとびくついているうちにあたしはいつの間にか怯えるようになってしまったのかも知れない。だから、少し、あたしは震える。

 なぜ、あたしが──

『簡単な理由だ』

『え……』

『わかるだろう。
  その右瞳だ。それが、解放された都市で唯一顕現した変異であるというのがその理由だ。非常に珍しい研究対象であることは間違いないだろう、お前と、お前の右瞳は』

『研究、対象……ですか……』

『二度言わせるな』

 Mと名乗った彼は、今朝、召喚状に応えて上層へ赴こうと外出の準備をするあたしに向かってそう言った。いつものように呼び鈴も鳴らさずに玄関のドアを開けて、取り忘れていた新聞を足下に投げ捨てながら。

 研究対象。
  そう言われて、ひどいことを言うひとだなと思うのと同時に、そうなら少し気が楽かしら、と確かに思った。理由もなく特別扱いされていると思うほうが、なんだか怖い。

 ──あたしはレディ・センケンネルを見つめる。
 ──現在の都市で、いちばん偉いひとの、ひとりを。

 強い意志の輝きを湛えたその瞳に、思わずまばゆさを感じて目を細めてしまいそうになるのを、抑えながら。貴族さまの考えなんてあたしには何もわからないけれど、西亨から伝わった幾つかの言葉を頭の片隅で思い浮かべながら。
  あたしはふと気がついた。

 このひとに、あたしは、何を願えばいいのだろう。
  あたしは怯えている。痛みに。では、あたしは、何を望んでいるのだろう。

 ──右瞳を元に戻して欲しい?

 ──頭の痛みを取り除いて欲しい?

 ──10年の記憶を取り戻したい?

 ──それとも。
 ──それとも。

 







[sekien no inganock -what a beautiful people-] Liar-soft 21th by Hikaru Sakurai / Ryuko Oishi.
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