『イインデスカオ休ミ中ニオ邪魔シチャッテ』

「構わん」

『イイノカナア。イイノカナア』






















 ──瞼を開ける前に聞こえてきた。
 ──淹れたての合成コーヒーの独特の香りがして。

 瞼を開ける。視界に入ってくるのは、向かいのソファでいつものように各社の新聞を広げている男性の姿。ミスター・M。いつもと同じ険しい目つきで、睨むように新聞の字を読み取って。
  あの小さな機関精霊の姿もあった。

 朝の気配がする。
  変異した小鳥と、変異せずに《復活の終わり》の日よりも後に生まれた小鳥たちの囀りがわかる。ああ、うん、朝。あたし、リビングのソファで眠っていたんだ。

 体を起こすと、毛布が落ちた。
  何これ……。

「……あの、おはようございます、ミスター……」

「服を着ろ」

「え……」

「二度は言わん」

「……え、と……」

 首を傾げる。ミスター・Mは何を言ってるんだろう。
  あたしは自分の体を見下ろして──

 毛布を手繰り寄せて体を隠すと、あたしは寝室へと転がるように駆け込んだ。慌ててしまってドアノブを押したり引いたりしたけれど、なんとか回して寝室へ。クロゼットの戸を乱暴に開いて、選ぶなんてことはせずに手に触れた服を引っ張り出す。急いで着る。今更急いで何の意味があるのかなんて考える余裕はなくて、急いで。急いで着る。

 馬鹿みたい。
  本当、馬鹿みたい。

 コンドミニアムに着いて、普段より熱めのシャワーを浴びて、余計なことを考えないくらいに熱いシャワーを浴びて、体を拭いたらすぐに眠ったんだ。そう、そうだ。眠った。考えていた通りに。

 ソファで眠ってしまった。
  寝室のベッドでなくて、リビングのソファで。

 毛布はミスター・Mが掛けてくれたのだろうか。
  ううん、あたしは考えないようにする。

 ──馬鹿みたい。
 ──あたし。

 本当、あたし、馬鹿みたい。ううん、馬鹿なんだ。情けなくて涙が出そう。昨日といい、今といい。あたしは。

 服を着終えてリビングへ戻る。
  ミスター・Mはさっきと少しも変わらない様子で、足を組んだ姿勢でソファへと座ったまま、新聞を広げていた。横に積み上げられた紙の束。今日はやけに経済誌が多いような気がするのは、気のせいだろうか。

「アティ・クストス」

「はい」

「ここでの仕事は済んだ。
  お前の諸処に関する個人的調査は打ち切る」

 ──え?

「場所を借りたことには礼を言おう。
  謝礼はそこに置いた」

『ソコノ封筒デス。ミス・アティ、オ納メ下サイ、オ納メクダサイ。ミスターカラノオ礼デス』

 確かに、ソファテーブルに何かが置かれているけれど。
  封筒。謝礼?
  お礼だなんて言われても、あたし、何もしていない。

「そう……ですか。お仕事、うまくいったんですね。
  おめでとうございます」

「仕事。
  そうだな、確かに、仕事だ」

「いつ、インガノックを発たれるんですか」

「これから」

 これから。今日。急な話だな、とぼんやり思う。
  あまり現実感が湧かない。財産相続(とは言えそれは正しくは両親の財産ではなかったのだけれど)の手続きをしてくれた女性や、お医者さまを除けば、この都市であたしと関わりを持ってくれたのは彼──ミスター・Mくらいのもの。

 そう。
  そうね。

 彼は、インガノックの訪客だもの
  去ってしまうのは当然。

 特別な感情を抱いていた訳でもないし、何かをふたりで話したり、どこかへ行ったようなこともない。そもそも、感情を抱く以前に、彼がどんな人間かさえよく知らない。
  こうして顔を合わせることは多かったけれど。

 食事をたまに作ったぐらい。
  感想も、特に、言われたことはない。

 それだけ。
  それだけ。

 本当、急な話。
  何もかもが無機質な彼らしいと思う。

 でも。どうしてだろう。

 ──また、誰かに、置いていかれる。
 ──そんな風に思いかけてしまうのは、どうして。

「覚えているか。アティ・クストス」

 ──何を?

「第7層28区域のアパルトメント跡」

「……はい」

 ──忘れる訳がない。

「7層全域で再開発を行うそうだ。
  放ったままの瓦礫の区域をすべて更地にするらしい」

 再開発?
  放ったままの瓦礫の区域を、すべて、更地に。

 頭の中で反芻する。それって、どういうこと。あそこ、ハッカーのDヘッドから聞き出したあのアパルトメントのことをあたしは思い出してしまう。同時に、頭の奥がずきりと痛む。でも、そんなものに浸っている余裕はなかった。

 再開発。
  更地。

 なくなってしまう。
  あの瓦礫、あのアパルトメント跡。

『アティ』

 ──だめ。

『なぜ?』

 ──だめ!

 あたしは外に出ていた。玄関を開ける直前、足下で、機関精霊が「ワァ」と言って避けたのがわかる。あたしは大通りへと出る。歩いて、ううん、半ば、走って。

 頭が痛い。
  頭が痛い。
  胸の奥から湧き上がる不安感は、かたちがあるみたいにはっきりと大きくなっていって、あたしの喉を通って口から出てきてしまいそうなほど。
  疼く頭の痛みと混ざり合って、気持ちが悪い。

 でも、あたしは構わずに。
  あたしは進む。

『きみは』

 ──うるさい。

『恐れているね』

 ──うるさい、黙れ!

 自然と。
  自然と。
  足は都市モノレールの最寄り駅へと向かっていて。体も同じく、上着の胸ポケットに偶然入っていたシリング貨を探り当てて第7層行きの切符を券売機関で買っていた。

 朝の都市モノレール。
  この第2層や第3層から1層企業へと向かう企業市民(さらりまん)たちでぎゅうぎゅうに詰まった満員の上りモノレールをやりすごして、下りへと飛び乗る。昨夜のことを思い出すのは、きっと、またあたし以外には車輌に誰もいなかったからだろう。

 ──モノレールが動き出す。
 ──あたしは、息を切らせながら窓の外を見つめる。







[sekien no inganock -what a beautiful people-] Liar-soft 21th by Hikaru Sakurai / Ryuko Oishi.
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