──上層階段公園の麓に到着した昇降機。
 ──自動鉄柵が開く。






















 あたしは、逃げるみたいに出てきたのだと思う。頭を押さえながら、頭を振りながら、耳に届く旋律を振り払って、疼く痛みに耐えて。
  あたしは逃げる。
  痛みから。
  不安から。

『恐れているね』

 聞こえやしない。
  何も聞こえてなんかいない。あたしは大丈夫。ただ、頭が痛いだけ。ただ、遠くで誰かが奏でた曲が聞こえただけ。

『きみは』

 あたしは、両手で、こめかみと一緒に両耳を覆う形で押さえて、走る。帰ろう。帰ってしまおう。コンドミニアムに着いたら、普段より熱めのシャワーを浴びて、余計なことを考えないくらいに熱いシャワーを浴びて、体を拭いたらすぐに眠ろう。
  歩いて、歩いて、歩いて、見えた。行き交う人のない無人駅の券売機関(チケット・エンジン)にシリングを幾らか詰めて2層行きの切符を買って、耳と頭を押さえたままの姿勢でモノレールが来るのを待つ。

 長い長い10分だった。
  ひとりきりであたしはホームで待ち続けた。

 ようやく来てくれた終点折返しのモノレールに飛び乗ると、ようやく痛みは和らいでくれて、あたしは両手を頭から離した。車輌の様子がわかる。あたしひとり。がたん、がたん、と時折揺れるモノレールの車輌の窓硝子から外を見ると、赫色に染まる上層階段公園の姿がちらりと見えた。まるで炎のよう。都市の中で、ううん、広大な王侯連合全土の中で唯一、この上層階段公園にだけ訪れる空の色のひとつ。

 ──ああ。
 ──車輌の中も、一緒に、赫色に染まる。

「きれい……」

 あたしは呟いていた。
  自分の黒い影が長く長く車内で伸びていくのを見ながら。

 誰もいないモノレールの中で。
  あたしひとり。
  がたん、がたん、と車輌が揺れる。機関機械は正確だ。昇りの時と同じタイミングで揺れている。

「……あは」

 なんだかおかしくなって、あたしは笑った。
  馬鹿みたい。
  こんなに怯えて、取り乱して。

 何人ものお医者さまは親切にしてくれるし、貴族さままでが助けようとしてくれる。シリングを取られることもなければ、何より、少なくとも今は命に関わることもない。

 ──なのに、あたしは、こんなにも追いつめられて。
 ──階段公園で散歩をする余裕もない。

「誰が、追いつめるわけでも、ないのにね」

 呟くと、モノレール車輌が大きく揺れた。昇りの時は感じなかったもの。自然と肩がびくりと震える。何、今の。
  恐る恐る外を見ると、もう階段公園の姿は遠くに消えていて、赫色も消えていた。第1層の高層建築群のもたらす摩天楼の灯りが、大きな影が幾つも通り過ぎていくのを映す。

 大きな影。車輌?
  そう、工事用の機関車輌(エンジン・ガーニー)が何台も何台も緊急灯を回して。モノレールの沿道を走っていく。

「あ……」

 昼でも夜でも無数の街灯で明るい都市摩天楼の高層建築の足下へと吸い込まれるようにして姿を消していく機関車輌を見つめながら、あたしは、ようやく本当の現実感を取り戻す。頭を振って、自分の頬を叩く。
  少し強めに。跡が残るくらいに。

 工事用の機関車輌。
  緊急灯。

 どこかで事故があったんだ。それも大きな。あたしがひとりで怯えて、馬鹿みたいに悲壮ぶっている間に、事故があったんだ。誰かが傷ついたかもしれない。もしかしたら、死んだのかも知れない。

 あたしは生きてる。
  傷ついてもいない。

「しっかりしなさい、アティ・クストス」

 ──あたしは、もう一度、ぱしんと頬を叩いて。
 ──過ぎ去っていく機関車輌の背中を、じっと見つめた。







[sekien no inganock -what a beautiful people-] Liar-soft 21th by Hikaru Sakurai / Ryuko Oishi.
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