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 ──落ちていく。

 落ちていく。
 落ちていく。
 ふんわり、落ちていく。

 目を覚ますと……。
 うん、あたし、眠っていたんだ。

 夢の話をするAの声を聞きながら、眠いのを我慢して、我慢して、でも、やっぱり眠くてどうにもならなくて。
 もう、眠っちゃうのかなと思っていたら。

 Aが、不調、とか言い出してさ。
 そんなの嫌だよって思って、その時はぱっと眠気なんか吹き飛んだけど。
 よく聞いてみたら具合が悪いわけじゃなかった、A。
 新しい本を読み始めたせいで気もそぞろだった、A。

 ふんだ。
 って、あたしは思って……。

 瞼を閉じて。
 あたしは眠ったんだ。

 だからあたしは落ちていく。
 気付いたら、こんな風に落ちている最中だった。

 前に感じたものと、似てる。
 ちょっと違うかな。

 ここはどこ?
 これはなに?
 わからない、何もわからないのは同じ。

 ただ、ただ、落ちていくんだよ。
 どこまでも続く深い穴の中を落ちてさ。

 周囲を埋め尽くすのは何だろう。本?
 ううん、違うね。見えているのは、ざぶんと勢い良く流し込んだ水にできる泡みたいな、青い色をした光の粒、粒。粒。
 無数の輝きのかたち。
 なんだろう?

 これも、メモリー?
 なんだろう。ぷかぷかして、きらきらして、不思議。

 落ちる。
 ああ、あたし、どんどん、落ちていく。

 


 



 


 落下。
 重力。
 重力。そういう何かとは、別のもの。

 それでもあたしは落ちていく。
 消えたりはしないよ。
 どこかへ、流れて、落ちていくだけ。

 どこかへ、流れて、渡るだけ?
 何を渡るんだっけ──

「わたる……」

 あたしは言った。
 あたしの、あたしのかたちの声で。
 あたしにはちゃんとかたちがあった。ちょっと、ほっとする。

 あたし。落ちていくあたし。
 あたしは──

『──リリィ』

 誰かが耳元で囁く。
 Aの声。
 眠くて眠くてうつらうつらする時に、枕元で彼が囁くあの声とそっくり同じ。

 じゃあ、これはもしかして、眠る間に見る夢?
 あたしは夢を見てるのかな。

 夢を見てる。
 夢をわたる?

《──おや》

 あれ?

 また、声がする。
 誰の声だろう。Aの声じゃないよ。囁く声でもなかった。

 どこからか聞こえてくる声。
 落ちていくあたしの目には何も映らない。
 あたしに見えるのは、無数の、泡みたいな、青い、光の粒だけ。

《──おやおや。これは、可愛い仔猫とは》

 仔猫?
 あたし、猫じゃないよ。

《こんなところまで迷い込んで来てしまったのか。
 可愛らしい仔猫。名前はなんという?》

 リリィ。
 あたしはリリィ。
 リリィ・ザ・ストレンジャーって呼ぶひともいる。

《なるほど。ふふ。可愛い名だ。
 どうやら、きみは  であるらしい》

 あたしは   なんかじゃないよ。
 見えない誰か、聞こえる誰か、きみもそういう風に言うんだね。
 Aみたい。

 きみは誰?
 あたしに聞こえる、あたしに見えない、きみは誰?
 お爺さんみたいな、男の子みたいな、不思議な声。
 Aじゃない、誰か。
 きみは誰?

《私はトート・ヒュブリス・ロムという。
 黄金を瞳に戴く者だが、きみのように   たり得なかった》

 トート・ロム?
 誰だっけ。あたし、きみに、会ったことないと思う……。

 うん。ないと思う。
 きみは、ええと……。

《私のような者の前に顕れてしまうとは、きみは随分と優しい  であるらしい。
 それとも、自分が何者であるのかを定めかねているのかな。
 さりとてここはヒュプノスの領域にほど近い。そちらへ行ってはいけないよ》

 ヒュプノス?
 なに?

 あたしは首を傾げる。
 すると、くいっと体が傾いて、どこかへ吸い込まれるみたいな感じがした。
 名前を呼んだせいかな、ってあたしはなぜか思う。
 名前を呼ばれた誰かがあたしを引き寄せてる。
 そんな感じ。
 うん、そんな感じ。

《いや、そちらはいけない》

 え。なに?

《薄暗いバーがあるだろう。あすこに行ってはいけない。
 あすこにはひとならぬものどもが集う。
 イリジアのものたちがきみを見れば、きっと、何か思い違いをするだろう。
 黒の王の機嫌が悪ければ、ひとのみにされてしまう。
 もっとも、黒の王も近頃は変質したようだけれど》

 薄暗いバー。うん、知ってる。
 お酒を飲むところでしょ?

 そこには行ったことがある、と、思う。
 夢の中で、だけど。
 そこで、あたしは小さなグラスを貰ったの。白い姿をした誰かがくれた、甘い、甘い、黄金色をしたお酒の注がれたグラス。

 蜂蜜酒。だったっけ。

 うん。そうだったよ。
 ところで、イリジアって何?

 黒い王さまって何?

《いや、きみにはわからないことだったか》

 わからないことばっかりだよ、あたし。
 わからないこと、教えて欲しいな。
 じゃないと、あたし、いつまでたっても頭の中、からっぽだよ。

 だから、Aに毎晩、家庭教師してもらって……。

 ……。

 ……Aは、さ。
 どこからか出してくる本に夢中みたいで、あたしのことなんて、もしかしたら、どうでもいいのかな。好きな本、読んでるほうがいいのかな。

 ……。

 ふんだ。
 知らない。知らないもん、Aなんて。

《きみが行くべき場所は他にある。
 できれば、そこへ至って欲しいものだ》

 え。

 あたしの行くべき場所?
 どこ?

《きみに助けを求めている人物がいてね》

 ひと?

《そう、人間だ。
 きみに縁(エン)があるとも言えるし、そうでないとも言える。
 きみの母の、更なる父祖に関係があると言えばわかりやすいかな》

 あたしの……。
 ママ……?

 あれ。そんなの、変だ。
 あたしに、ママは、いないんだよ。

 ママで、お姉さん、みたいなひとなら、うん。いる。
 あたしにかたちをくれたひと。
 名前、思い出せないけど──

《いや。わかりにくい表現か。これは》

 うん。
 わかんない……。

《きみは選ぶことができる。
 きみは夢を歩き、夢を渡り、幾万、幾億、幾星霜の果て、物語られる世界を渡ることができるだろう。きみが  であるかどうかに関わらず》

 物語られる、なに??

《きみの祝福には、力があるんだよ。
 きみが幾千、幾万の瞳に、想いに祝福されたように。
 きみにも同じことができる

 物語を渡るがいい。
 世界を渡るがいい。

 さあ、きみにはすべてが許されている。
 何を成すのもきみ次第だ。

 たとえば、そう。
 空間を超えて。
 時間を超えて。
 ひとり、旅して魂の寄る辺へと戻ったジャガーと出会うこともできるだろう。
 ひとり、機関の都市で幻想の残滓を狩る《探偵》を見ることもできるだろう。
 ひとり、朽ちゆく雷を見ることもあるだろう。
 ひとり、嘆きの紅涙を見ることもあるだろう》

 なに?
 よく、わかんない。
 そんなに沢山言われても、あたし、わかんない……。

 ん……。

 あっ。

 待って。
 待って!

 あたしに助けを求めるひとがいると、きみは言うけど、そんなの変。
 だって、あたし、あたしたち、ずっと地下世界にいたんだから、用があるひとがいる訳なんてないんだと思う。
 あたし、外の世界に、知ってるひとなんて……。

 あのひと、しか……。

 でも、そのひとのことも、あたし、名前を知らない。
 思い出せない……。

《きみ次第だ》

 え……。

《きみが、何を望み、何を求めるのか。
 私には残念ながら知り得ないが──》

 あれ。聞こえなくなってきちゃった。
 待って……!

 ちょっと、待って。
 あたしは言おうとするけど、その時はじめて気が付いた。そう言えば、あたし、声だけのひととちゃんと話をしていない。
 あたし、声を出してない。

「待って」

 言い掛けたけど、もう、声は遠くに消えていて。
 あたしは落ちていく。

 落ちていく。
 落ちていく。
 あれ、まるで、どこかへ急ぐみたいに落ちていく。

「わ。わ。わ……」

 こんな風に、なんだろう、力?
 引力でいいのかな。ニュートン卿、そういう、あたしを引っ張る、何か、ちゃんとした力のようなものをあたしの体は感じていて。

 おかしいね。夢なのに、体の感覚あるんだ。
 それなら、本当に……。

 夢を歩いて、渡ることも、できる?

『──できるとも』

 囁く声。さっきの声の誰かじゃないね。
 あたしだけにそうする、赫い瞳の、背の高い彼の声。

 あたしだけの車掌さん。
 きみの声。

 声を返そうと思ったけど、でも、そういえば、あたし、きみに怒ってるんだ。
 思い出して、あたしは唇を閉ざす。

 その間も、どんどんあたしの体は引き寄せられていく。
 どこだろう。
 どこに?
 落ちる?

『きみは夢を渡る。夢を歩く。
 そうして、時間を超えて、空間を超えて、さまざまな世界を歩く』

 世界──

『そう。さまざまな物語を』

「物語」

 あたしは、小さく呟いて。
 そして、どこかの場所へとふわりと落ちる。

 

 ──はじめは、ジャガーの物語。
 ──そして。それから。別の、次の、物語。