──それは、紫影の果てへと少女が至る前のこと。
──それは、機械仕掛けの神が都市へ残酷な裁断を下すよりも前のこと。
シュトレゴイカバール鉄塔と呼ばれるものがある。
欧州、ハンガリー奥地に人知れずひっそりと佇む塔だった。黒色の金属然とした不可解な物質で形成されたそれは、如何なる手段でも傷付くことのないそれは、便宜上鉄塔と呼ばれてはいたが、由来も正式な名称も知られてはいなかった。黒の碑と呼ばれたこともあったと言うが、一部の口伝にあるのみで、記録には一切残されていない。そもそも、シュトレゴイカバールの名さえ、塔に最も近い山岳地帯の寒村の名を借り受けたものに過ぎない。博物学を修めた碩学でさえ、その不可思議な金属塔の存在を知る者は多くない。
人知れず在ることにこそ意味がある。
そう言わんばかりの、奇妙、奇怪な塔だった。
塔の最上には、今、ふたつの人影があった。
少なくともひとりは明確な敵意を抱きながらそこに立っていた。
吹き荒ぶ風のただ中で。
夜の帳降りた山中、天高く突き立つ鉄塔の最上に。
時に、1902年。
時に、12月23日のこと。
時に、重機関都市ニューヨークが地下へと墜ちる冷酷な運命の2日前。
ひとりは黒い姿をしていた。
背の高い、仕立ての良い白色のスーツに身を包んだ男。
全身を白の服装で固めているというのに、印象は、ただ、黒。
男の膚は黒かった。
けれども、アフリカ系の人種が有する膚の色とは異なるように見える。
それは深淵の黒だろうか。
髪は白い。白髪。
そして、瞳は赫い。昏く、澱んだ、けれども夜闇の中で浮かび上がる輝きの赫。
ひとりは白い姿をしていた。
白色の服装は何処かの小国の軍服のようにも見受けられる。
男だ。人間。
彼の瞳には揺るぎない意思があった。
頸部に巻き付けられた長い長い黒布は夜の風に煽られ、はためいている。
時折、黒布の周囲に光が疾る。
それは、夜闇のただ中でひときわ強く瞬く雷光の輝きに似ていた。
──黒い男は笑みを顔に貼り付けていた。
──白い男は怒りを瞳に宿らせていた。
黒い男には感情の類がない。
およそ彼は人間ではなく、祝福された者であると讃える人々もあるという。だが、それが致命的な誤りであることを白い男は知っていた。祝福。神の祝福。何とも笑える話だ。そういった言葉が最も似つかわしくない、どころか、皮肉にすらならないことを白い男は知っていた。かの黒い男、ロードたる彼に対して、神などと!
感情などある筈がない。
表情などある筈がない。
時計仕掛けの機械がチク・タクと鳴り響くさまに、心など見出すものか。
白い男には怒りがあった。
数十年に渡り抱き続けてきた巨大な感情だった。怒り。憤怒。その身の裡に渦巻く激しいそれは男の心をある時は凍らせ、そして、今はこうして炎となって胸の裡を熱く熱く焦がしている。男は過去のさまざまな事柄をその心に刻み、その背に負っていた。故にこそ、今、眼前に在る黒い男を許す訳にはいかなかった。
右手に力を込めろ。
左手に力を込めろ。
この両手は、この瞬間のためにこそあったのだ。
『実に残念だ』
偽物の微笑を貼り付けたまま、黒い男が言った。
怯える子供をあやすよう、牙を剥いて唸る獣をなだめるよう、静かに。穏やかに。
まるで“機械仕掛けであるかのような”奇妙な声だった。
チク・タク。
チク・タク。
『きみは遂に理解の領域へ辿り着けなかった。
何、恥じ入る必要などない。多くの人間にとってはそうだろうとも』
「理解か」
白い男が言葉を返す。
僅かに震えるその声に込められた感情は、ただひとつ。怒り。
「貴様を理解できる人間はいないだろう。
だが、ある点でのみ理解しているとも。
私は漸く貴様を追い詰めた。
昏きもの、世界の果てより顕れて、人を嘲笑う残酷なものよ。
シュトレゴイカバールの黒碑を失うのは惜しいか」
『私が惜しいと思うのはきみの存在だよ』
「笑止」
『ならば返答を貰うとしよう。
きみは、私からの深い“友情”に満ちた提案を何とする?
此より私は重機関都市NYにて現象数式実験を行う。
来るべき12月25日。
かつて尊き聖人が生誕したという日だ。そう、なればこそ私は提案する』
言葉を切って。
黒い男は表情を削ぎ落とした。
およそ人ならぬ、冷酷にして冷徹な表情だけを残して。
『脆き者。人間よ。
きみには、私の傍らで共に
是非とも実験の経緯及び結果を観測して貰いたいのだが──』
「返答はひとつだ」
『ふむ』
「今こそ覚悟せよ。機械仕掛けの神」
幾万の怒りを込めて。
幾万の憤怒を負って。
白い男の纏う長襟巻(マフラー)が、風にたなびき、激しく帯電する。
それは、雷電の輝きだ。
それは、憤怒の輝きだ。
白い男は雷そのものと化していた。
シュトレゴイカバール鉄塔の最上部には、今や、夜空の暗雲から無数の雷が降り注ぐばかり。男の怒りに呼応するかの如く、それは光放つ雷の《剣》となって彼の周囲に突き立つ。此処には星の輝きはなく、シリウスの剣はなく、だからこそ、白い男が手にするのは勇壮なるペルクナスの剣そのものか。
雷電を力とするフランクリン機械帯、男の体に装着されたベルトが輝く。
黒塔の金属に雷が迸る。
如何なる手段でも傷のひとつも受けることのない黒の金属体に罅が走る。
男に最も近い場所、すなわち足元の黒色金属は、既に泡立ち始めていた。
地上における万物一切を砕く雷の剣。
雷の光が──
白い男の右手に、集まって──
「幾百万の人々を貴様の戯れの餌食にさせてたまるものか。
禍々しきもの、冷酷なるアルヴァ=アヴァン・エジソン。
その息吹、脈動、命、貴様にまつわるあらゆる活動を、今、ここで」
『ほう。今、ここで?』
「断つ」
──右手を、前へ。
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