──それは、空を覆う白色の仮面の訪れよりもずっと前のこと。
 ──それは、砂漠の物語。

 カダスと呼ばれる世界がある。
 巨大な機関(エンジン)の帝国を擁する世界であって、英国や合衆国を初めとする各国からは、自らと同じく灰色の世界であると認識されている。その認識は正しい。ただし、帝国、すなわち既知の文明領域から遠く離れた“断絶された果て”にこそ、排煙なき空、灰色に覆われぬ空を有することは、帝国の人々にさえ知られていない事実であった。

 カダスの未知領域。
 時に大辺境とも呼ばれる青空の領域。
 その彼方には、灼熱の砂漠大陸があり、その中央部には、とある都市が存在した。

 永きに渡る歴史を持つ都市だ。
 永きに渡り巨大な天蓋で空を隠してきた都市だ。
 砂漠都市と呼ぶ者もいる。
 ヴァルーシア、と呼ばれることもある。

 そして、これは、ヴァルーシアが天蓋で空を隠す直前の物語。
 それはかつての寓話。
 それは今はなき昔話。

 忘れられたヴァルーシアの物語。
 あまりに、あまりにささやかすぎて。

 ひとりの男の物語。
 ひとりの、アデプトと呼ばれる戦士の物語。
 未だ、砂漠都市が、開かれていた頃の物語。

 あるところに、いいえ、砂漠に、並ぶものなき勇壮なアデプトがいた。
 誰よりも明るい男だった。
 彼は、自分の守る人々が大好きで。
 彼は、自分の住む都市が大好きで。

 砂漠の地下迷宮での戦いも苦にはせずに。
 腕消えて、脚消えても、義肢へと置き換えながら戦い続けて。

 発掘機関と呼ばれる迷宮の遺物を砂漠都市へ持ち帰って。
 補修することで再び稼動するそれは、都市に、ささやかを潤いをもたらす。灼熱の砂漠という過酷な環境にあっても、都市が存続し得るのは、男のようなアデプトたちが、恐るべき黒影の蠢く地下迷宮から貴重な遺物機械を持ち帰るが故であった。

 けれども──

 地下迷宮の最奥にて。
 男は、ひとりの何者かに出会う。

 それは歯車と鋼鉄でできた“人間”だった。
 それは嘲笑と狂気でできた“人間”だった。

 現在でいうところの機関人間(エンジン・ヒューマン)?
 インガノック・テクノロジーと呼ばれる異形の先端技術によって、肉体に機関機械を埋込み強化を果たしたり、全身を機械と置き換えたのかのような、鋼鉄の兵士のこと?
 いいえ、違う。
 いいえ、違う。

 それは狂気司るもの。
 それは時間司るもの。
 やがて、世界に歪みをもたらすもの。

 チャールズ・バベッジの望んだ世界を、ああ、歪めてしまったものだった。
 もっとも──

 アデプトの男がそれと出会ったのは、バベッジが世界を蒸気機関と排煙で変えてしまうよりも、およそ千数百年も前のことであったけれど。
 時間など、それにとっては大したことではないのだから。
 前後など、それにとっては大したことではないのだから。

 狂気のものは《時間人間(チクタクマン)》と名乗り、
 そして、男を、導いた。

 狂気へ。
 恐怖へ。
 空、やがて黒に埋め尽くされる未来を説いて。

 地下迷宮に蠢く黒影たちの“嘆き”の何たるかを報せて。
 ひとの進むであろう未来を見せて。

 遠き未来の日、数式の秘儀修めた碩学へそうしたように。
 遠き明日の先、異邦の積層都市の太守へそうしたように。

 囁いて。
 囁いて。
 男を、狂気の渦へと陥れて。

『ふるきものよ』

『ひとよ』

『私は』

 男は泣いた。
 男は叫んだ。
 男は苦悶に呻き、のたうち、涙と悲鳴を地下迷宮のすべてへと響かせた。

 男は発狂した。
 けれど、最後の理性は、何故か、僅かに、残った。

 そして、男は決断する。
 そして、男は、三代太守たる自身に備わる王の権能を行使して。

 砂漠都市の空を閉ざしてしまった。
 愛する人々からすべての空を奪い、押し込めて。

 それが、人々を嘆きの果てから救うと信じて。
 それが、呪いだと気付かずに。
 それが、狂気だと気付かずに。
 想いと、願いを、すべて、失って。

 そして男は、ああ、美しき空を失って。
 笑顔さえをも失ってしまった。

 ──その貌は、既に、白き死の仮面に覆われていたのだから。

 

             ◆            ◆            ◆

 

 ──誰かが、泣いている。
 ──誰かが、叫んでる。

 暗い暗い、どこより暗い場所だった。
 あたしが見てきたどこよりも暗くて、翳って、夜の地下世界の暗がりよりも暗く感じるような場所。本当はどうかわからないけど、あたしが思うのは、ひどいくらいの暗さ。
 ここ、好きになれそうにない。

 暗すぎて息が詰まりそうなんだ。
 でも、さっきの場所みたいに煤が空気に混ざってるのと、違う。

 わかるかな……。
 暗いっていうのは、光がないって、ことだよね。
 でも、ここのそれは、そういうのとも違って、暗いっていうこと、それそのものが、まるでかたちを持ったみたいに、詰まってる。充満してる。
 それが、呼吸するたびに胸の中に入り込むみたい。

 暗い。苦しいよ。
 ここは、嫌な場所だってあたしは思う。

 だからなのかな。
 誰かが、泣いてるのは。
 誰かが、叫んでるのは。

 ゆったりとした服を着た誰かだった。
 男のひと。
 顔は、わからない。

 顔は、白い仮面にすっぽり覆われていて、どんなかたちかわからない。
 どんなひとなんだろう。
 白い仮面をかぶって、苦しいみたいに、呻いて、泣きながら、叫びながら、仮面を付けているのが苦しい、そんな風に顔を……仮面を、掻きむしって。

 感じるのは、怒り。
 感じるのは、悲しみ。

 紫色の世界であたしが感じたもの、そのうちの、幾つか。
 男のひとから感じるもの。

「ニャ……!」

 あたしは叫んだけど、ニャ、としか出なかった。
 あたしは“ここ”でも猫だった。

 男のひとはあたしに気が付かない。
 足下をうろうろして、仮面が苦しいなら、取ってあげなきゃ、って飛びつこうとするあたしに気付かずに、呻いて、泣いて、叫んで。

「なぜだ」

 なに?

「なぜ、私の前にあらわれた」

 あたしのこと……?

 違う。
 違う。
 違う!

 違った。
 あたしのことじゃない。
 あたしの後ろに何かがいる、ううん、この暗がりのすべてに、何かがいる。

 ──何かが充満してる!
 ──この感じを、あたしは、きっと知ってる。

『白き死の仮面。着け心地はどうだい』

 この声。
 わかるよ。

『ひとならぬ息吹を得たものよ。
 ふるきものの力を得たものよ。
 それは、既に、この世にあってはならぬものだ』

 赫い瞳の気配がある。
 ううん、Aと似ていても、ぜんぜん違うもの。

『故に。私は祝福しよう』

 紫色の果てで、あたしを見つめた誰かの声。
 地下の果てで、あたしたちのすべてを嘲笑った、彼の。

 神さまの声がしていた。
 残酷な神さまの声。

『それなるは白き死の仮面。
 清廉なる黄昏の天使の仮面を、きみに』

「やめろ」

 仮面をつけた男のひとが叫ぶ。
 叫ぶ。
 叫ぶ。

 仮面の下の瞳から涙がこぼれ落ちていく。
 何かが壊れる音がした。

 男のひとの頭の骨が砕ける音。違う。
 男のひとの心臓が破裂する音。違う。

 こころが砕けていく音。
 こころが引き裂けていく音。

 あたしは……。

「ニャア……ッ!」

 あたしは、叫んだのだと思う。
 爪、仔猫の爪だけど、飛び掛かって、仮面にとびついて。

 あたしは仮面に爪を立てた。
 男のひとが何かを言った。
 聞こえない。
 何て言ったの。
 聞こえないよ。

 あたしの爪が仮面に食い込む。
 白い、硬い、なんとなく、ひとの顔を模したみたいな仮面に、ほんの少しだけ傷が付いた。付いてなかったかも知れない。でも、傷、付いたと思う。

 だから、見えた。
 仮面の傷、仮面の隙間から、男のひとの目が。

 ほとんど同時に声がした。
 仮面の奥から。
 男のひとの声、それまで叫んでいたのに、静かな、溜息のような言葉。

「バステト──」

 なに?
 何かの、名前?

 男のひとの目。瞳は、あたしを確かに見つめた、と、思う。
 瞳の奥でゆらめいて、今にも壊れてしまいそうなものは、もしかしたら、男のひとのこころだったのかな。

 壊れかけて。
 それでも、必死に、何かを耐えて──

「ウルタールの……。
 バステト、が、私を……」

 なに?

「ならば、私は……」

 なに……?

「心、引き裂かれたと、しても」

 

 ──男のひとの瞳が何かを告げる。
 ──でも、あたしは、それが何か、わからないままで。