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 ──それは、あたしが、紫影の果てへ行った後のこと。
 ──それは、あたしが、夢を見るようになってからしばらくのこと。

 ──それは、あたしが、たったひとつを忘れていた頃のこと。

 がたん、ごとん。
 がたん、ごとん。
 たたん、たたん。

 地下鉄が走っていく。
 聞き慣れた音をあたしの耳へ響かせながら。

 地下鉄って言うのに、変なんだ。だって、もう、地下を走ってない。
 あたしのために動く、あたしの──
 リリィ・ザ・ストレンジャーの1輛だけの地下鉄。

 ずっと前には、ニューヨークっていう街の地下を走っていたんだってさ。
 あたしはその頃の街の姿を知らない。あたしが知ってるニューヨークは、地下にあって、紫色の中にあって、鉄と茸の世界だったから。

 今は、地下を走ってないんだよ。
 今は、空を走ってる。
 地下鉄っていうぐらいだから地下を走らないと変だよね。変だ。
 でも、仕方ないよ。空を走ってるのは、本当だから。

 空を1輛だけの地下鉄が走ってる。
 厚い厚い灰色雲に覆われて、地上の姿はちっとも見えてくれないけど、かわりに、素敵なものがたくさん見える。
 空いっぱいの青色、とか。
 見ているだけで吸い込まれそうな、綺麗な青一色。
 空埋め尽くす星々、とか。
 地下世界と全然違う、輝きそのもの、みたいな星たち。

 いまは──
 うん、いまは、夜だから暗い空だ。きらめく星の中を地下鉄が走ってく。
 1輛だけの鋼鉄の箱。あたしの部屋。

 うん。部屋だよ。
 あたしの部屋。
 あたしのために用意されたあたしの“部屋”。
 地下鉄って、普通はそうじゃないんだってAは言ってたけど、あたしはこの地下鉄しか見たことないから、他がどうかっていうのが、よく、わかんない。

 あたしにはわからないことばかり。
 記憶。ないから。
 だから、色々教えてもらうの。
 紫色の、地下世界でも、たくさんのひとにたくさん教えてもらったよ。
 いまはAに。

 夜中になると、おっきくて分厚い百科事典を広げて、Aはあたしに地上のことを教えてくれる。灰色雲の向こうにある、地上。地下世界を抜ける時にだけ、ほんの少しだけ見たけど、それからはちっとも見る機会のない場所。
 あたしの知らない世界。
 あたしの世界にない、ぼんやりとして掴み所のない、でも、たくさんのものがあるはずの場所。地上。Aが、毎晩、教えてくれる。

 教えてくれるんだけど。
 すぐ、眠くなっちゃうんだよ。

 昼間にもっと本読んでくれればいいのに。
 いっつも夜だから、いっつもあたしは眠くなっちゃうんだ。
 だから、きちんと頭に入ってるか不安でさ。

 夢のことははっきり覚えていても、読んでくれた本の内容は忘れてるってことも、よくある。ある。あるよね。ある気がする。うん。
 夢、か……。

 夢──

 あたし、最近、眠るとよく夢を見る。
 見たことのない、知らない場所へ行ってる夢。
 ただの夢だよ蓄積情報の整理に過ぎないよとか、そういう風にAが言うからには、嘘なんて言いっこない彼がそう言うんだから、きっとその通りなんだろうけど。

 何か、変。違和感のようなものがあって。
 ただの夢?
 ううん。違うような気がする。

 夢の中、白いきらきらの結晶でできた不思議な場所で。白い服を着た“誰か”に渡された卵のようなものを地下鉄(ここ)に持ち帰っていたり。
 夢の中、薄暗いバー……様子を話したら「バーだね」ってAが言ってたから、バーだと思う……そこで渡されたグラスをひとつ、やっぱり持って帰っていたりして。

 夢の中からものを持って帰るだなんて聞いたことない。
 聞いたことのあることのほうが少ないけどさ、でも、なんか変だと思う。

 卵のようなものも、グラスも、今は鏡台の上に置いてある。
 夜の地下鉄の“部屋”の中。
 カーテンを閉めた薄暗い車内で、本を読むための橙色の灯りだけが点いた室内で、あたしは、いまも、ぼんやりしかけた眠い目で、真横になった“卵のようなもの”と”グラス”を見つめてる。
 耳には、彼の声が聞こえてくる。
 「聞かせて」とあたしが少し前に訊いたことを話すAの声。

 うー……。
 眠い。やっぱり眠いや。
 ふわふわの枕が心地良くて、もうすぐにも眠っちゃいそう。

 あたしはベッドに横たわって話を聞いていた。鏡台の上にあるものが真横に見えるのは、あたし自身が横になっているから。

 ──頭、横にしたら思い出せるかな。

 


 



 


「ね。A」

 ──きみに囁く。
 ──A。背の高い、あたしの車掌さん。

「なんだい。リリィ」

「あたし、まだ、思い出せないよ」

「きみは既に   だから。きみには必要のないものなのかも知れない」

「そんなの嘘だよ。あたしは   なんかじゃないもん」

「すぐに思い出せる」

「そう、かな……」

 夢を見始めるようになってから──
 あたしは、あたしは何かを“ひとつ”忘れていた。

 忘れることはしないと、決めた。
 そのはずなのに。

 何もかもを憶えていよう、そう決めたよ。
 出会って、触れて、言葉交わしたたくさんの人々。

 目にした世界、紫色の空。

 寂しさ。
 楽しさ。
 喜び。
 悲しみ。
 怒り。
 恋。
 涙。

 すべて。

 忘れることはないと、決めた。そう決めた、はず、だったのに。
 忘れることなんてできない。
 なのに──

 名前、思い出せない。
 地下世界の神さまが言っていた、あのひとの名前。

 あたしのかたちに影を投げ掛けたひと。
 あたしを生んでくれたひと。
 きっと、お母さんとか、お姉さんとか、そういう風に呼んでもいいはずのひと。

 名前──

「夢の中で、思い出したり、できないのかな」

 あのひとの──

「姿、顔かたちだってわかんないのに」

 あたしと一緒に、黒い神さまに立ち向かったひとの──

「名前までわかんなくなっちゃったら、なんか、嫌だ」

 名前──

「夢の中にでてきてくれないかな」

「あり得ないことではないね。
 夢というものを解釈しようとした人間は、碩学時代の以前にもいた」

 碩学。難しい本を、いつもの分厚い百科事典とは違う本を広げたAの口から出た言葉、それ、あたし少し苦手。碩学さまの話をされるのは苦手だよ。
 だって、難しい。機関(エンジン)がどうとかジャカールさんがどうこうとか、よく、わかんないんだ。難しくて難しくて、頭がぐるぐるして、すぐ眠くなっちゃう。

 でもAはおかまいなしで。
 いつもと同じ。
 いまも、ほら、いつもと同じ静かな声で。

 いつもと同じ手袋つけたまま。
 あたしに触れる時にだって外さない、あの手袋。つけたまま。

「神秘的、霊的な啓示であると語る者もいた。
 たとえば科学と共に姿を消した魔術の徒であるとか。
 ある種の宗教者であるとか。どちらも現代では概ね否定されているけれど」

 ──魔術?

「夢歩き、という表現をした賢者もいる」

 ──夢歩き。なんだそれ?

「文字のまま。夢を通じて夢を歩き、
 あり得る場所、あり得ざる場所をも旅する魔術の奥義だとか。
 人の夢見る物語を旅すると表現する者もある。
 すなわちそれは、幾万、幾億、幾星霜のの世界への旅だ」

 ──すごいんだ。

「ここのところのきみの語る、きみの見たという夢。
 ロマンチシズムに溢れた回答をするなら、そうだね。たとえば」

 ──うん?

「きみは夢を歩いたのかも知れない。
 いにしえの賢者のように」

 ──あたし、そんなに凄いことはできないよ。

「きみは   だから。
 そして、きっと、きみの夢歩きが、僕にも」

 ──Aが、なに?

「いや。何でもないよ。
 けれど、もしかしたら、きみの求める回答が──」

 

 ──あたしの、求める、なに?