──それは、あたしが、紫影の果てへ行った後のこと。 ──それは、あたしが、たったひとつを忘れていた頃のこと。 がたん、ごとん。 地下鉄が走っていく。 地下鉄って言うのに、変なんだ。だって、もう、地下を走ってない。 ずっと前には、ニューヨークっていう街の地下を走っていたんだってさ。 今は、地下を走ってないんだよ。 空を1輛だけの地下鉄が走ってる。 いまは── うん。部屋だよ。 あたしにはわからないことばかり。 夜中になると、おっきくて分厚い百科事典を広げて、Aはあたしに地上のことを教えてくれる。灰色雲の向こうにある、地上。地下世界を抜ける時にだけ、ほんの少しだけ見たけど、それからはちっとも見る機会のない場所。 教えてくれるんだけど。 昼間にもっと本読んでくれればいいのに。 夢のことははっきり覚えていても、読んでくれた本の内容は忘れてるってことも、よくある。ある。あるよね。ある気がする。うん。 夢── あたし、最近、眠るとよく夢を見る。 何か、変。違和感のようなものがあって。 夢の中、白いきらきらの結晶でできた不思議な場所で。白い服を着た“誰か”に渡された卵のようなものを地下鉄(ここ)に持ち帰っていたり。 夢の中からものを持って帰るだなんて聞いたことない。 卵のようなものも、グラスも、今は鏡台の上に置いてある。 うー……。 あたしはベッドに横たわって話を聞いていた。鏡台の上にあるものが真横に見えるのは、あたし自身が横になっているから。 ──頭、横にしたら思い出せるかな。
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──きみに囁く。 「なんだい。リリィ」 「あたし、まだ、思い出せないよ」 「きみは既に だから。きみには必要のないものなのかも知れない」 「そんなの嘘だよ。あたしは なんかじゃないもん」 「すぐに思い出せる」 「そう、かな……」 夢を見始めるようになってから── 忘れることはしないと、決めた。 何もかもを憶えていよう、そう決めたよ。 目にした世界、紫色の空。 寂しさ。 すべて。 忘れることはないと、決めた。そう決めた、はず、だったのに。 名前、思い出せない。 あたしのかたちに影を投げ掛けたひと。 名前── 「夢の中で、思い出したり、できないのかな」 あのひとの── 「姿、顔かたちだってわかんないのに」 あたしと一緒に、黒い神さまに立ち向かったひとの── 「名前までわかんなくなっちゃったら、なんか、嫌だ」 名前── 「夢の中にでてきてくれないかな」 「あり得ないことではないね。 碩学。難しい本を、いつもの分厚い百科事典とは違う本を広げたAの口から出た言葉、それ、あたし少し苦手。碩学さまの話をされるのは苦手だよ。 でもAはおかまいなしで。 いつもと同じ手袋つけたまま。 「神秘的、霊的な啓示であると語る者もいた。 ──魔術? 「夢歩き、という表現をした賢者もいる」 ──夢歩き。なんだそれ? 「文字のまま。夢を通じて夢を歩き、 ──すごいんだ。 「ここのところのきみの語る、きみの見たという夢。 ──うん? 「きみは夢を歩いたのかも知れない。 ──あたし、そんなに凄いことはできないよ。 「きみは だから。 ──Aが、なに? 「いや。何でもないよ。
──あたしの、求める、なに?
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