──それは、彼が未だ黄金の螺旋階段を昇る前のこと。
 ──それは、都市の物語。

 インガノック歴10年。
 永遠無限の断絶の渦中にある異形都市には猫の姿がない。

 猫に似た耳や手足を発現させる異形人種《猫虎》を揶揄して猫と呼ぶことはあっても、それはやはり猫ではない。人の異形だ。
 本物の猫ではない。

 猫の姿がなかった。
 この、異形都市インガノックには。

 現在の暦の始まりである《復活》の日にすべての個体がクリッターに弑されたのだと言う者もいるし、バーゲストなりグリフィンなりの肉食の幻想生物に補食され続けて遂に姿を消したと言う者もいるし、混乱期の人々にとっての貴重な栄養源のひとつとして消費され尽くしたのだと言う者もいる。

 最も信憑性の高いのは、そう、猫もまた異形化したというものだ。
 キュマイラ(これは個体ごとに異なる生態を有することさえある異形の幻想生物の総称で、さまざまなものが存在する。多くは肉食で凶暴)へと変異したというのがなるほど現実的ではあって、ネコ科の大型肉食獣を素体としたかに見える幻想生物がそれだとされていた。西享の知識ある者はそれが獅子や虎といった未開地の野獣を強く思わせることを主張したが、特に言説を左右するほどのこともなかった。

 実のところ、事実というものは明らかになっていなかったし、人々は自らの命さえ危うい混乱期に於いて小動物に意識を払う余裕などなかったし、小動物を家族の一員として心の拠り所とした慣習さえ心と精神を蝕む異形都市の過酷な現実の前には脆いものであったのか。
 猫は消えた。
 異形が都市には蔓延っている。
 ただ、それだけが現実だった。

 復興期を経て死亡率こそ《復活》前と比べて跳ね上がってはいるものの一定の安寧を得ることに成功した人々の一部には、ペット、というものを再認識する動きがあった。
 猫はどこへ行ったのか。
 犬はどこへ行ったのか。

 これは姿を消した猫や犬を再生しようという動きへと繋がった。
 特にペットへ執着を見せた富裕層、第1層や第2層の富裕市民たちを市場と見込んだ都市摩天楼の企業群、特に生化学の碩学や碩学機関を有する企業がこれを興した。

『あなたの生活に潤いを』

『動物を愛する心を再び』

 街頭を飾る機関パネルの宣伝文句(キャッチフレーズ)は富裕層の心を掴んだ。
 時に、インガノック歴7年のことである。
 結果として、数秘機関や現象数式の力を素としたインガノックにおける異形の生化学技術は失われた猫や犬、ペットとして認識され得る小型動物の再生に成功し、一部の人々は再び心の潤いを取り戻すことに成功した──

 成功した。かに、見えたのだったが。
 残された猫の情報子(遺伝子とも呼ばれる)によって精製された複製動物たちには何らかの欠陥があり、飼い主たる富裕市民たちに牙を剥いた。およそ1000名の富裕市民とその子女が命を落としたとされている。動物精製に成功した企業に潜む都市テロリストの仕業とも、上層の陰謀とも、クリッターの邪悪な関与とも、情報子として用いたのはまっとうな動物のものではなくて“比較的元の動物に近い外見をしたキュマイラ”の情報子であったとも、さまざまな原因が推測されたがどれも証明されなかった。
 即座に複製動物の精製と飼育は違法となった。
 件の企業は上層によって厳重注意処分となり、犠牲となった市民遺族へ多額の賠償金を支払うこととなった。

 実際には賠償金は支払われず、上層による富裕市民の財産没収と富裕勢力の拡散に繋がった、すべては人心を弄び市民を圧する上層の陰謀に過ぎなかったのだとするタブロイドもあったが、異形都市の常として噂は常に流れて消えてく。インガノック歴10年の現在に於いては誰も囁く者はいない。

 その後。
 異形都市には偽物の猫がちらほらと姿を見せ始めた。

 件の複製動物の成れの果てである。
 都市の陰に潜み、人の目に付かぬようにひっそりと棲息する小さな獣たち。
 大通りを歩く人々の目には触れず、路地裏にあっても陰に潜む獣たちは、時折、迷い込んだ酔漢や子供を襲う程度で、さして人々からは常に注目されなかった。
 荒事屋(ランナー)たちが、同じく都市の陰に潜む際に顔を合わす程度。

『猫(プセール)の邪魔をする偽物の猫(フェイク・キャット)』

 そんな慣用句が生まれる程度には、それらは偽物の小動物として扱われた。
 確かに、定期的に情報子の調整を受けなければ自然と異形化していく小動物は、六本脚であったり、ふたつの頭があったり、ふたつの尾があったりと、およそ猫と呼ぶには違和感のあるもので、よほど《猫虎》の女のほうが猫らしくはあった。

 そして──
 インガノック歴10年。某月。

 都市摩天楼の一角。都市の陰にて。
 黒猫と称される荒事屋の女が、1匹の猫と出くわした。

「あれ。猫?」

 脚は4本。
 頭は1個。
 尾は1本。

「本物っぽい猫なんて、何年ぶりかな」

 ──正真正銘。
 ──本物の、猫の姿をした、仔猫、だった。

 

              ◆            ◆            ◆

 

 ──あたしは、また、ちっちゃかった。
 ──仔猫みたいに。

 どこかを落ちて、落ちて。
 誰かと何かを話して。

 それから、どこかにくるりと着地した。
 うん。着地。
 さっきまで、古びた祭壇にいたと思ったんだけど……。

 違う場所にあたしはいた。
 暗い場所。

 暗いけど、地下世界みたいな暗さと違う。翳った暗さ。
 大きな、大きな、背の高い建物の投げ掛ける影の中にあたしはいたよ。

 背の高い建物は、たくさん。たくさん。
 あたしはウォール街を思い出す。
 摩天楼、だっけ。高層建築が数え切れないくらい建ち並ぶ、あの感じ。

 さっきまで感じていた土っぽい埃もない。
 大きな石っぽさはあるけど、あの、祭壇のような場所とは違うんだ。
 別の場所。
 違う場所。

 ちょっと空気が濁ってる。ちょっと?
 ううん、ちょっとじゃないよ。これ。こんなの初めて!
 空気、ものすごく変な匂いがする。かな。
 ちょっと吸い込むだけで、けほ、ってなっちゃいそうなくらいに濃い濁り。煤けてるんだってことに、あたしは、なかなか気付けなかった。

「ニャッ。ニャッ」

 声が出ちゃう。
 ああ、やっぱり、猫みたいな声!

「……なに。咳なんかして。変な仔猫さね」

「ニャ?」

 女のひとの声がした。
 暗くてよくわからなかったけど、影の中にはあたしだけじゃなくて、ちっちゃくなってるような気がする“あたし”だけじゃなくて、もうひとり。女のひと。
 黒い格好をした女のひと。
 きれいな女のひと。

 ──ミリアみたいだ。
 ──格好いいな。

 なぜかあたしはそう思う。
 脚とか、肩とか、白い肌を剥き出しにしていて、どきっとする。
 どきっとするよ。大胆な格好、だよね。でも、格好いい。
 やっぱり、体がきれいだと、脚とか肩とか、胸とか、お尻とか、こんなふうに形がいいと、大胆な服装って格好いいんだ。
 うん。確信。

 あたしも着てみたいけど……。
 もうちょっと……。
 背とか、うん、背とか、うん。
 胸とか、お尻とか、形がよく……その、つまり……。

 大きくならないと……。

「ニャァ〜」

「んー? どしたの」

 あたしの頭を撫でる、手。
 手。肉球があって、ふさふさな、大きな手。
 猫みたいな手?

 うん。
 このひと、猫みたいだよ。
 ネコビトみたい。
 きれいな、黒い毛並みのネコビトさん。
 マオよりも人間っぽく見えるけど、頭の上に見えてるのは“耳”だよね。
 それに、手も。猫みたい。

 地下世界じゃないと思う場所なのにネコビトがいるの?
 そうなの?

「ニャア」

「はは。なにさ、じゃれついてんの?」

「ニャア、ニャア」

「よしよし」

 あたしの喉とか頭とか背中とかを撫でてくる。
 右目がきらきらしたひと。

 きらきらの瞳!
 黄金色で、輝くみたいに、あたしには影の中でもはっきり見える。
 他のひとにはどうだろう?

 他のひとには、きっと、このきらきらは見えない、ってなぜか思う。
 直感。確信?
 なぜだろう。
 なぜ?

「ニャア〜」

「きみはどこの仔かな。
 仕事前に見掛けるなんて、あたし、ツイてる?
 こんなに形のいい複製動物なんて、久々に見た」

「ニャ?」

「金持ちにはいまだに飼ってる奴がいるって聞いたけど、
 複製動物なんて、定期調整に金も時間もかかるってのに」

「ニャア」

「きみの飼い主は物好きさね」

「ニャー」

 飼い主なんていないよ。
 だって、あたしは猫じゃないもの。

 でも、あたしは、女のひとにひょいって抱えられてる。
 猫みたい。仔猫みたいに。

 それに、あたしの声はニャアしか出てくれないんだ。
 もしかして。
 あたし、今、猫なのかな。

 どこかを落ちて、夢を歩いて、夢を渡って、猫になっちゃったの?
 小さいし。ニャアって言うし。
 そういえば、自分の体を見下ろそうとしても地面しか見えないよ。ちゃんと舗装された道。やっぱり、ウォール街の摩天楼にちょっと似てる。

「ニャ……」

「暴れないの。よしよし」

「ニャ♪」

 喉をくすぐられて気持ちがいい。
 機嫌のいい、みたいな鳴き声が出ちゃってさ。

 ええと。
 うん。
 やっぱり、そうだ。
 そうなんだ。

 あたし、仔猫になっちゃったんだ。
 ニャアって鳴くし小さいし。

 不思議と、不安に思う気持ちはなくて、ああ、そっか、と思うだけ。
 夢だからかな。
 元に戻るかな。

 戻らなかったら……。
 Aは、どんな顔、する、かな。

「ニャァ……」

「あれ。はしゃいだと思ったら、今度はしょんぼりして。
 はは。可愛い仔だね。きみ、うちの仔になる?
 つっても、あたしはセーフハウスぐらいしかないから、彼のとこの仔かな」

「ニャ?」

 彼?
 恋人さん?
 旦那さん?

「馴染みの医者(ドク)がいてね。
 最近、女の子拾ってたから。仔猫だって問題ないさね」

「ニャ」

「……顔出す口実にもなるかな」

「ニャ??」

「あはは」

 女のひとは軽く笑って。
 肩を竦めて、それから、ひどく落ち着いた色を瞳に浮かべて。

 まるで獣みたいな鋭さで、言葉を。
 まるで刃みたいな鋭さで、言葉を。

「なんでもないさ。
 朝になってもあたしが生きてたら、ね」

 

 ──少し、怖くて。寂しくて。
 ──あたしは、ニャアと、応えて小さく鳴いた。