──それは、ひとりの王がその玉座から去った後のこと。
 ──それは、漆黒の物語。

 西暦1908年。
 大英帝国首都、機関都市ロンドン。
 都市東南域の機関区域ほどではないものの、機関の排煙が立ちこめる都市だ。濃い霧と混ざり合いながら立ちこめる煤混じりの排煙は、初めて訪れた者にとっては特殊な空気として認識されるだろうが、都市に暮らす者にとってはそうではない。
 煤混じりの排煙も霧も生活に密接に結びついたものだ。
 紳士は外套を纏い、淑女は装飾された傘で煤を避ける。

 傘。新たな用途が言われるようになったのはいつからだったろう?
 空覆う灰色の雲が割れることで生まれる“隙間”が観測されるようになって後であることは明らかだ。であれば、1904年末からか。空の隙間、雲の裂け目から降り注ぐ“陽差し”の眩しさから目を守る、言わば陽よけとして傘は有用であると、1908年現在のロンドンでは語られる。

 もっとも、昼間であればの話。
 夜に陽差しを思って傘を差す者はいない。

 ここに、テムズ河沿いの街路を歩く、白銀色の髪の少女がいる。
 勿論、彼女も夜に傘は差さない。
 夜に稼動する機関工場が少ないためだろう、夜には霧に混ざる排煙は薄く、すなわち煤の量も昼間に比べればごく僅か。夜、出歩く際に傘を持つ必要はない。
 そもそも──

 夜、出歩く女性は多くない。
 年若い少女であれば尚更だ。

 カダスにおける帝国から発祥したエイダ主義が流行しているここ機関都市ロンドンとは言えども、未だ、夜の、それも0時を過ぎた頃に歩き回る少女はいない。道っ子(ストリート・チルドレン)の類であれば別、だけれども、プラチナブロンドを長く伸ばした少女の物腰は淑女とは行かないまでも、育ちの良さが感じ取れる。
 連れている黒い仔犬に投げ掛ける言葉遣いからも明らかだった。

「何か、わかるかしら。仔犬君」

「……」

「ええと、クロ?」

 極東で“漆黒”を示す言葉を仔犬に名付けていることからも、ある程度の教育を受けていることが伺える。学生の類であるのだろうか。
 機関灯の明かりを受けて仄かに見える横顔。顔立ち。
 目を引くのは、瞳の色。

 左と右で異なる色合い。
 右の瞳は、黄金色──

「ミス・クラリス」

「はい」

「犬は、言葉でなく身振りで雄弁に語るものだ。
 ここでは確かに何かがあったらしい」

 ──少女へ、静かに言葉告げる男がいた。
 ──痩身長躯の男だった。

 彼の名を知る者は多い。
 彼の武勇伝は新聞や伝記的小説によって幅広く伝えられている。

 それは、外套を纏った男だ。
 知識の深淵ですべてを見通すという男だ。

 英国はおろか西欧諸国全土、果ては異境カダスの帝国にまで偉大な功績の知れ渡った、世界有数の諮問探偵がひとり。
 欧州全土の事件を解き明かすという、男。
 ディテクティブの王だと自ら称する、男。
 碩学ならぬ身で“天才”と呼ばれる、男。

 北央帝国から《知り得るもの》の大称号を賜った唯一の男。
 秀でた額は伝記的小説の書く通り。
 高い鼻も、また然り──

「文明華やかなりし現代に於いて幻想が存在を許されることはない。
 ただ、その仔犬の“鼻が利く”ことは、きみの言葉の通りであるようだ」

「……はい」

「黒犬とは、皮肉なものだが」

 男の名は、シャーロック・ホームズという。
 多忙極まる諮問探偵であった。

 

             ◆            ◆            ◆

 

 ──仔猫になったあたしの前に。
 ──何か、いる。

 黒い小さいもこもこ。
 もこもこ
 ふわふわ。
 もこもこで、ふわふわ。

 もこふわ?

「ウー」

「ニャ」

「ウー」

「ニャ……」

 な、なんだろ。
 あたし、きっと、こんな仔は見たことない。
 黒くて小さいもこもこ!

 前に、1輛だけの地下鉄の中に出てきたのは、もっと丸くて小さくて、目もひとつしかなかったから違うものだと思う。それに、いま、あたしの目にいる仔は、もっともっとかわいいものだと思うんだ。
 うん。思うんだよ。

 かわいい。

 あたしのすぐ目の前でしっぽを振ってる。
 四本脚で、小さくて、もこもこでふわふわ。
 もこふわ。
 もこふわ。

 あたしがちゃんと手のあるいつものあたしなら、撫でたりするのにな。
 あのネコビトみたいな女のひとが、あたしにしたみたいに、あたしもこの仔を撫でたりしたい。ふわふわ。感触。
 でも、あたしの“いま”は、ちいちゃくて、仔猫で……。
 手も前脚で、肉球で。うう。

「ニャ……」

「ウー」

「ニャ?」

「ウー」

 すごい、見られてる。
 澄んだ瞳があたしのことをじっと見てるよ。

 警戒してる?
 警戒されて、る?

 あたしと同じくらい、ううん、あたしより大きいのに、なんでだろう。
 それにほら、この仔は、猫より強い……。

 あ。出てきそう。
 出てきそう!

 言葉、名前。
 あたしは見たことがないけど、知っていたかも知れない。
 それともAの読み聞かせてくれた百科事典に書いてあったのかも?

 なんだっけ。
 ええと、そう、四本脚で、可愛くて、もこもこふわふわ──

「ニャ!」

 犬!

 そう、いぬ、だ!

 ああーすっきりした!
 そうそう。仔犬くん。黒くて、澄んだ瞳をした仔犬くん。
 たゆたう水からこぼれた雫みたいに、澄んだ瞳。
 どうしてかな。
 あたしは強く、この仔から“水”の気配を感じてるんだ。

 変なの。
 すぐ後ろにある黒い大きな河のほうがよっぽど水が沢山あるのにね。
 ちょっと、変な、きつい匂いはするけど。

 あたしは、街の中にいた。
 夜の街かな。
 暗いけど、影の中とは違う感じだもの。

 2番目にいた街とはまた違う、摩天楼の感じとは違う、もうちょっと、なんだろ、ひとが住んでいる感じのする街。建物も2階建てとか3階建てとか、高くても5階、6階ぐらい。かな?
 遠くには、背の高い高層建築も見える。
 橋? みたいな、もっと大きな大きなものが街を横切ってるのも見える。

 でも、あたしが“いま”いる場所は、ひとのいる感じの街。
 ちょっとほっとする。

 ヴェラザノみたい。
 ひとがいる場所、ひとのいる街。

 あたしが見てきた紫色の世界の中では、ヴェラザノが、街、だったから。
 あたしは思い出す。

「ニャ……」

「ウー」

「ニャ」

 ちょっと思い出してぼうっとしかけたら、仔犬君が。
 あたしにちょっと近付いてきた。

 な。なんだよう。
 そろそろ、低く唸るのやめてくれないかな。

 かわいいんだから、さ。
 ん?

 ……あ。

 犬って、猫、嫌いなんだっけ?
 どうだっけ。
 どうだっけ!

「ニャ、ニャニャ……」

「ウー!」

「ニャッ」

 あ、あぶないかも。
 尻尾立ててる!
 怒ってるの!?

「クロ、待って。そこに何かいるの?」

「ワウ」

「ニャァ……」

「仔猫?」

 仔犬君の向こうから、ひとり、女の子の姿が見えた。
 あたしと仔犬君を見ると、ぱっ、と仔犬君からかばうみたいにあたしに手を伸ばして、そのまま抱きかかえて、
 あたしの顔を覗き込んでくる。

 あ……。
 また、黄金色をした瞳……。

 きらきらの髪。
 素敵な服。ひらひら、可愛い。

「ニャ……」

「あなたに反応したのかしら。
 でも、あなた、ただの仔猫よね──」

「ニャーォゥ……」

「ええ。ええ。
 そう、よね。あなたが《幻異(ファントム)》であるはずもないし」

 きれい……。
 お人形みたい……。
 いいなあ……。

 仕草ひとつ取っても、なんだろう、あたしと全然違う感じ。
 ちゃんとしてるっていうのかな。
 なんて言えばいいのか、よく、わからない。

 こういう風じゃなきゃいけないんじゃないかな、って、思っちゃう。
 たとえば、たとえばの話だよ。あたしも、こんな風に、ちゃんとしていたら、Aもちゃんとあたしの言葉を聞いてくれるのかな。
 お風呂だってひとりでさせて貰えないのは、多分、うん、ちゃんとしてないから。

 ちゃんとしたい。
 あたしも、もっと、もっと。

「ミス・クラリス。その猫は」

「いいえ、ただの仔猫です。
 ミスタ・ホームズ。あなたの仰る《幻異》ではないと思います」

「ただの仔猫に反応するかね、その黒犬は」

「それは……」

 む。
 なんだろ、別のひと。背の高い、痩せた感じの男のひと。
 女の子の肩越しにあたしのことを見てる。

 な、なんか、変な感じだよ。
 ただ見られてるだけなのに、こう……。

 Aに見られてる時、みたいな……。
 観察されてる感じ……?

「ただの猫ではないのだろう。
 しかし、私の探すものとも異なるようだ。その仔はきみが抱いていたまえ」

「はい」

「放って《幻異》の餌になられても困る」

「え」

 え。

「ま、待ってください。ミスター。
 あなたは、《幻異》は危害を加えるようなものではないって」

「無論。冗談だとも、クラリス君。
 ウォレス情報網の敷設に前後して生する各地の幻異現象など、幻想の残滓」

「でも──」

「所詮、幻想が物質文明を凌駕することはあり得ないのだよ」

 

 ──冗談ってどっちが!?
 ──え、えと、あと、その《幻異》ってなに?