──寒さのきついシトカの海辺。
 ──カナダ連邦と緯度はさして変わらないのに、やけに、冷え込んで。

 携帯秘書装置の中の情報庫へ残されていたのは、幾つかの位置情報だった。
 特に何か付記されている訳でもない。
 ただ、バラノフ島のあちこちを指定する緯度と経度の数値だけ。指定された場所は大抵がベンチや公衆電信で、それぞれ。人目に付かないところにひとつずつ何かしらの物品が隠されていた。
 ダクトテープで貼り付けられて。

 まるで、間諜(スパイ)の真似事でもしているかのように思えてくる。
 ええ、いいえ。
 実際、似たようなものなのでしょうね。

 私がこのアラスカのバラノフに、シトカ・シティにいる理由。
 どういう意図で何をしろと明確に告げられている訳ではないけれど、わかる。
 大叔父さまは、きっと、私の願いを聞き入れてくれたのだということ。
 そのためにはこういったことが必要なのだということ。

 事態を悟るのは容易だった。
 私は、私が思うよりも窮地にいたのかも知れない。
 大叔父さまが残して下さったと思しき物品の数々からは、私が何者かに追われているという前提が読み取れた。
 トーテム・ホテルの一室にあったカナダ連邦市民カードだけではなくて、クレセント湾沿いの公衆電信ボックスの裏に貼り付けてあった封筒の中にあった旅券もそう。私の知らない誰かの名前。顔写真だけは私のもの。旅券の中に挟んであった大陸間横断鉄道の切符は更にわかりやすかった。

 私は、これから、別の名前で、別の人間として。
 極東を経由してオリエント域へと抜けなければいけない──

 私は、エリシア・ウェントワースは。
 エリシア・ウェントワースであることを、やめる。捨てる?

 一時的なものなのか。
 恒久的なものなのか。
 それは、今は、何もわからない。

 たとえば、ずっと、ずっと、私が私でないままだったのだとしても、
 それでも絶望はしない。
 いいえ、絶望はすまい。

 私は、大切な彼らのことを大叔父さまに頼んだ。
 私は覚悟をしてウェストバンクーバーへと赴いたのだから。
 何も、絶望することはない。
 ない。
 ないのよ、エリシア。
 もう、きっと、エリシアと呼ばれることはない、私。

 大丈夫。私は失っていないわ。
 ね、そうでしょう。

 ──私には大切な友人たちがいて。
 ──この胸の中には、今も、あのひとのくれた大切なものがある。

 ね。エリシア。
 大丈夫。

 寂しいと思う。会えないことを。
 離れる悲しみを私は忘れられないし、自分の愚かさと選択の可能性を考えて、後悔して、不甲斐ない自分自信に怒りを感じることだってあると思う。
 それでも、私は忘れない。
 友人たちと過ごした楽しい日々。
 喜びを思うこの心。
 あのひとのくれた、暖かな気持ち。
 あの子の旅を通じて取り戻した、私のすべて。
 すべて。
 すべて。
 ほら、私の胸の中にある。

 合衆国籍の社会保障カードがカナダ連邦の市民カードになったって平気。
 そんなものどうでもいい。
 私には、もう、決して失うことのないものが、ある。

 ──だから、泣かないわ。
 ──ちゃんと声を出すこともできる。

 鉄道切符の裏に走り書きしてあった数字、正確には暗号。換字式の多重ヴィジュネル暗号だった。大学で勉強するようなものではないけれど、以前、あのひとに教えて貰ったから、すぐにわかった。
 携帯秘書装置は小さな演算装置でもあるから、数式を入力すれば、すぐに。
 暗号が解読されて。
 私は、合衆国内のものらしき通話用の電信番号を手に入れて。
 シトカの海が見える公衆電信ボックスから、掛ける。

 ええ、ちゃんと声を出して。
 涙。流さずに。

『……エリシア? エリシアなのね!?』

 


 




 

 

 

「ええ。私。ごめんなさいね、長く、連絡できずに」

 果たして、電信に出たのはヴィヴィだった。
 受話器の向こうにセルヴァンもいるのがすぐにわかった。声が聞こえる。

 話によると、詳しくは言えないが安全な場所にいるとのこと。ぽろりと大叔父さまの家のひとのことを口にしてしまいそうになるセルヴァンを叱るヴィヴィが、あまりにいつもと同じ調子なものだから、私はもう、それがあまりに嬉しくて、嬉しくて、大きな安堵とも重なって、立ちくらみを起こしそうになってしまう。
 良かった。
 ふたりが無事で。

 ふと大叔父さまのことを思う。
 あの方は、やはり、私の願いを聞き入れてくれた──

『半年後にはまあ出られるっていうからさ。
 ま、それまではこのログハウスでヴィヴィといちゃいちゃするぜ』

『あんたログハウスとか言うなって言われたでしょうが』

『あ』

『あーあ。もう。莫迦。まーた場所移動よこれから絶対。
 あ、エリィ。大丈夫だからね。この莫迦が莫迦するからちょくちょく移動するけど、それだけだから。心配しないで。大叔父さま、よくして下さってるから』

「ごめんね。ヴィヴィ」

『だから。いいのよ。エリィ。
 どうせ長めの休学でもして旅行でもしようかって思ってたんだから』

「ヴィヴィ……」涙。流さずに。

『またちゃんと会って、ちゃんと話そうね。
 ちょっと会ってない間に沢山話すことができちゃったんだから』

「うん。うん」涙。堪えて。

『エリィ。大切な可愛いエリシア。
 どこにいるかわからないけど、あなたの旅の無事を願ってる』

「私も、あなたたちのこと、好きよ。
 どうか仲良くしてね」

『ふふ。なあに、それ。もうー、エリィ、話繋がってないよ?』

「そう、かな」

『そうそう。こいつなんてどうでもいいんだから』

『半年後、エリシアもイェールに戻って来れるんだろ?
 酒飲もうぜ、酒。前に先輩からクラフトビアのいい店教えて貰ってさ』

『お酒の話なんてどーでもいいの!
 あたしは親友との会話で忙しいの、あんたは向こう行ってなさい』

『えぇー』

「ふふ」

『あ。エリィ、今、笑った!』

 大切な──

 大切な友人たちとの会話。
 微笑みさえ浮かべて。
 脳裏の片隅で、私は大叔父さまの言葉を思い出していた。

 最後の慈悲。
 これは、正真正銘のそれであるのかも知れない。
 ありがとう。大叔父さま。

 矢継ぎ早に心配の言葉をくれるふたりへ、私は涙を堪えて、別れと、いつかの再会を約束する言葉を告げる。
 きっとまたいつか。
 ええ。できれば、すぐに。ね。

「ええ。すぐに──」

 私に与えられたものの中に帰りの切符はない。
 オリエント域への片道切符。

 でも。
 でも。
 きっと、また会おう。
 強く強く、再びふたりに会いたいと私は思う。

 

 ──二度と会えない悲しさは、もう、私の胸にいっぱいだから。