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 ──1908年某月某日。
 ──ロスアンジェルス市内某所。

 この数日間でまったく予想することのなかった言葉を聞いて、調査探偵モニカ・ヌーヴェルバーグがまずしたことは自分の正気を疑うこと、次にこれが夢であって自分は本当は夜のベッドですやすやと眠っていると想像すること、更にはこれが白昼夢であるかも知れないと予想までしてみたが。現実だった。
 あり得ないことだった。

 婦人Eが命を落とすことはおよそ間違いないはずだった。
 CIGの指令。女性ひとり。暗殺教団。
 およそ生存を期待する要素などあるようには思えなかったし、何よりも、彼女の命が奪われたとしても万が一にも助かることがあったとしても、それらの情報が自分に届くことなどないとモニカは考えていた。

 CIGの動向や力の配分を注意深く探ることである程度の予測は立てられるやも知れないものの、もはや外部の《血塗られた舌》に依頼を行った時点でCIGそのものは婦人Eに関する行動を止めている。わかり得るものは多くない。
 だというのに──

 情報が届いた。
 それも、別段、我らがP探偵社の優れた諜報能力が発揮された故ではない。
 向こうのほうから飛び込んできたのだ。
 情報が。

 すなわち──

『教団《血塗られた舌》の潰走』

『この2日間で各国の教団拠点が襲撃され、壊滅』

『拠点の教団員たちは重症を負い、
 各国警察組織によって逮捕・拘禁されている』

『目撃情報』

『教団施設付近で目撃された襲撃者は、必ず、1名』

『必ず1名が目撃されている。
 長身。夜闇に目立つ、白色の服装』

 電撃的な行動。
 恐れを感じるほどに激しい破壊行為。
 建築物を圧壊させ、悪辣な犯罪者たちを捕らえる。
 忘れるはずがないこの目立ちすぎる手口。

 《白い男》だった。

 先進国家の諜報・情報組織が行方を追い続ける重要人物。と、されている。
 伝説の人物だった。
 おとぎ話に過ぎない、と肩を竦める者も多い。
 なにせ、指名手配が成されていない。名前が知られていないからだ。直接遭遇したと自称する人間は名乗られたとも証言しているらしいが、どうにも、名乗ったのは過去の歴史上の人物のもの、偽名であるらしく。まさか歴史上の人物名をそのまま指名手配できる訳もなく、その存在の希薄さからか、ただ、こう呼ばれ続ける。
 各組織の正式な登録名とは別に。
 《白い男》と。

 彼が、6年の沈黙を経て世界への帰還を果たしたのか──

「そんな訳ないじゃない」

「で、でも」

「ない」

 ぴしゃり。とセルマは言ってのけた。
 不機嫌な表情をしているのは、右頬に貼り付けたタトゥー・シールを可愛いねとモニカが褒めなかったことだけが理由ではなかった。

 モニカがまた我を失っているからだった。
 そもそも。

「そもそも!
 2日で世界の表と裏を行き来できる人間なんかいるかっての!」

「でも、でも《白い男》ならできるかも知れない」

「できない!」

「じゃあ複数犯で……」

「だったら《白い男》なんていないのよ。
 そういう組織があるだけ。いつまでもおとぎ話なんか信じない、モニカ」

「でも」

「でも、じゃなーい!」

 でも。
 でも。

 伝説が帰ってきたのかも知れない。
 そう考えることを、モニカは止めることができなかった。モニカが調査探偵として働くようになったのは合衆国のためではなくて、いや、決してスパイということではないのだけれど、もっとモニカなりの大きな視野に立ってのことだった。人のために、誰かのために、顔の知らない誰かのためにできることをしたいと思ってこの仕事を選んだ。

 理由は幾つかある。
 なぜ、顔を知らない相手でないといけないのか。
 顔見知りは助けたくないのか。等々。
 それらに回答できるだけの理由がモニカにはあるのだった。
 けれど、今ここで語ることではないだろう。

 兎も角も、そんなモニカにとって《白い男》は偶像だった。
 崇拝に近いと言ってもいいだろう。

 実在しているかもわからない相手を、なぜ、モニカは想うのか。
 理由は簡単。
 モニカがこの仕事を選んだ数多の理由、そのひとつでもある。

 つまり。

 ──モニカは、かつて、命を救われたのだ。
 ──伝説の《白い男》に。

 

            ◆           ◆           ◆

 

「ね。A」

「何だい、リリィ」

「スイミンガクシュウって、何?」

「昨日、説明した通りだよ」

「あれじゃよくわかんない。説明して」

「睡眠学習。きみが眠っている間も本の内容を読み上げ、無意識状態のきみの頭脳へ、情報を刷り込むということだよ。意識せずとも学習を行わせる、という、一部のメスメル碩学の間で試験的に取り扱われている学説であり、未だ実証されたものとは言い難いが」

「怒るよ?」

「……」

「あたし、怒ってるよ?」

「困ったな」

「困るなら困った顔で言って。
 あと、昨日とそっくり同じことなんて言わないで」

「すまない」

「うん。つまり、どういうことなの?」

「つまり」

「簡単に言ってね」

「ああ」

「かみくだいてね。あたしがわかるくらいに」

「……注意しよう」

「うん。お願い。はい、どうぞ」

「きみが夢だと思ったものは、
 実際には、単に僕が読み上げた本の情報を──リリィ。何を」

「つづけて」

「リリィ」

「つ づ け て」

「きみは、オカルティストの語る“夢歩き”を行ったのではなく、
 単に僕の読み上げた情報を自分の頭脳の中で組み上げ直したに過ぎない」

「……」

「リリィ」

「……」

「リリィ?」

「……嫌い! 嫌い! 大ッ嫌い!」

 

 ──そして。
 ──雷電と呼ぶにはあまりにささやかな、光。ひとつ弾けて。

 

    紫影のソナーニル・ノベルブック『ヒュプノスの魔眼』へつづく


















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