「ん……」

 何か、輝くものを目にしたような気がして。
 瞼を開ける。
 暗がりに閉ざされていた視界を認識できたのは、ほんの一瞬だけのことだったろう。私は眠っていたから。覚醒していく意識と共に瞼を開けるわたしの視覚は、すぐに、瞼閉じた暗がりから、朝の気配で明るくなりつつある部屋の様子を捉える。

 どこだろう。ここは。この部屋は、私の知らない部屋。
 すぐには状況が把握できない。
 ただ、ひとつだけ明確にわかることもある。

 私は──
 エリシア・ウェントワースである私は、まだ、生きているということ。

 ──覚えている。引き金を絞る音。
 ──覚えている。続けて、耳をつんざく銃声。

 胸元へ手を当てる。
 穴が開いていはいないようだった。
 私、まだ生きている

 生きているのね。
 エリシア。

「大叔父さま」

 ぽつりと、呟く。声が擦れていた。
 頭の奥に重い感覚がある。喉、声と頭。気付けば、四肢に力が入りにくい。脱力しているのとは違うと思う。ずっと動かしていなかったので重い、あの感じ。経験がある私にはすぐわかった。
 1903年のある時、殆ど部屋から動かなかった私は経験したことがある。
 数日ぶりに体を動かす時の、あの感覚。

 時間が過ぎている。
 大叔父さまのお屋敷で意識が途切れてから、今までの時間。
 どのくらい、かしら。

 何かの薬物を使われた?
 頭の奥にこびり付いた重さはきっとそのせいだと思う。なら、あの時の私が銃声と共に受けたのは銃弾ではなくて、麻酔針か、それに類する何か、だったのだろうか。でも、どうして。なぜ。
 頭を押さえながら私は起き上がる。ええ、そう。起き上がるの。私は、この見知らぬ部屋の大きなベッドに横たわっていたから。オリエンタル風の刺繍が施されたナイト・ガウンのようなものを着て。勿論、私が着たような覚えはない。例えば、大叔父さまの家の人が着替えさせてくれた?

 そもそも、ここは大叔父さまのお屋敷なのか、どうか。
 妙な確信があった。違う、と。
 お屋敷の客間というものをそれほど見知っている訳ではないけれど、わかる。ここは客間の類ではないし、誰か個人の家屋の寝室ということでもない。ベッドはあるけれど。ここは、きっと……。

「ホテルの、部屋……」

 まだ声が擦れている。ひどく、喉が渇いていた。
 ここがホテルの部屋であるなら、質の良いそれであるはず。部屋は広く、ベッドは大きくて調度品の類も悪いものではないように見えるもの。これくらいの質のホテルの一室であるなら、あれがあるはず。小型の冷蔵機関。
 頭を押さえながら、私は、ベッドの脇にあった冷蔵機関を開く。
 力を込めて、重い金庫にも似た金属の扉を開くと、ラベルに刻印されたキリル文字。輸入ものらしきロシア製のアルコール類の瓶が幾つかと、やはりこれもロシア製の瓶入り炭酸水があった。

「炭酸水」

 背の高い、あのひとに似た彼を思い出す。
 あの子が愛した彼。車掌さん。

 口元に微笑みが浮かんでいた。
 あのふたりのことは私の中で普段は漠然と記憶されていて、普段はあまり細かい部分までは思い出さないのだけれど、そう意識したり、何かのきっかけがあれば、こうしてはっきりと思い出せる。
 口元に、ほんのり笑顔らしきものが浮かんで。
 私の中に力が湧いてくる。

 大丈夫。
 数日ぶりだとしても立ち上がれるわ、私。

 なぜ、大叔父さまが私を撃ったのか。
 なぜ、私は見知らぬホテルらしき一室にいるのか。
 なぜ、数日が過ぎている風であるのか。

「なぜ」

 炭酸水の瓶を持ったまま、私は立ち上がる。
 窓へ。英国製の最新型ジャカード織機のものであるらしいレース編みのカーテンで覆われた窓辺へ近付こうとした私は、手前にあった机の上に置いてある小さな機械に目を留める。見慣れない機関機械(エンジン・マシン)だった。

 小型の機械というものは総じて碩学機械である、という常識がある。
 けれども一部のものに関しては一般化、普及化が進んでいて、例えば、世界最大級の機関都市である大英帝国首都ロンドンに於いては、携帯型の電信通信機(エンジン・フォン)を今や子供でさえもが持ち歩いているとか。
 そして、私の目の前にある小さなクローム製の機械は、その電信通信機であるのだろうかと、ふと、思いかけたものの。違った。
 合衆国でも、些か遅れて携帯電信通信機の普及は始まりつつある。
 けれども違う。
 これは、違う。

 ──最新式の機械。
 ──英国製の携帯秘書装置(ポケット・セクレタリ)。

 気晶式画像表示版(エア・モニター)を用いた最新機械。通信のみならず、さまざまな機能が備わった、まさしく“小さな秘書”とも呼ぶべき機械装置。高価なもの。とても、とても高価なものだったと思う。大企業の人間でもなければ、こんなものを手にする人間は多くないはず。
 超国家規模の計画によって世界各地の大都市で試験的に導入されつつあるという巨大情報網“システム・ウォレス”と接続することで、公称される機能以上の働きを見せる、と、大学の研究室で教授たちが話しているのを偶然耳にした、かしら。

 なぜ、こんなものが、私の眠っている部屋に?
 どうして?

 私は、水滴を表面に浮かばせる炭酸水の瓶を机に置くと、代わりに携帯秘書装置を手に取った。起動スイッチを押す。あらゆる小型機械の動力源である統一規格の圧縮蒸気カプセルのものらしき開放音が微かに聞こえて、黒一色だった気晶画面に白い文字が浮かび上がってくる。
 白と黒で構成される画像が気晶画面の特徴。
 大学では、機関工学部の扱う実験用の機械を何度か見た、かしら。

 こんなに間近で見るのは初めて。
 私は、浮かび上がる誘導(ナビゲート)の文字に従って、気晶画面に触れる。
 起動部以外は、気晶画面そのものが感圧式のスイッチになっているから、少し強めに触れることで私の“入力”は成される。

『現在時刻を表示しますか?』

 気晶画面に質問が浮かび上がる。
 私は“はい”と入力する。

『ネットワークに接続が可能です。
 接続し、現在位置を提示しますか?』

 私は“はい”と入力する。

 携帯秘書装置が稼動している。
 やはり数日が過ぎていた。
 私は、現在日時と、自分の居場所を知ることができた。

「……輸入品じゃ、ない、のね」

 炭酸水の瓶。
 キリル文字。

 ──西暦1908年、某月某日。
 ──新大陸北西端アラスカ域ロシア領バラノフ島、シトカ・シティ。

 

           ◆            ◆            ◆

 

 ──知らない街。
 ──知らない場所。

 合衆国でもカナダ連邦でもない、ロシアの領土。
 新大陸の一部ではあるけれど。

 私は、知らない街にいて。
 私は、私であって、でも、私の知らない私になっていた。

 バラノフ島中央西部、シトカ・トーテム・ホテルの3階の一室で目覚めた私に与えられたと思しきものは、幾つか。幾つかあって。
 けれども、私の名前が記されたものはひとつもなかった。
 廃棄されたのだろうと思う。
 誰が、と考えるまでもない。

 エリシア・ウェントワースであるはずの、この私。
 私に、残されたものは──

 ひとつめ。
 知らない名前のカナダ連邦市民カード。
 でも、貼り付けられた顔写真は私のもので。

 ふたつめ。
 旅行道具。
 着替えや日用品などが幾つか。

 みっつめ。
 ジョン。
 多脚式歩行式鞄。多少設えを変えられてはいるけれど。

 それから。
 NYの旅で得た幾つものメモリーの欠片たち。
 名前は書いていないものね。

 あと、手帳。ええ。あの手帳。
 とても大切なもの。
 意図して名前を記していなくて本当に良かった思う。
 私の、あの子の、あの都市の、旅の記憶。

 そして──

 

 ──この胸の中に、今も。
 ──アラン。あなたのくれたものが、変わらずに。