「フランクリンさまのお屋敷?
 それなら、この道をともかく真っ直ぐで間違いねえでさ」

「ありがとうございます」

 言葉を交わしたのはこのくらいのもの。
 考えてみれば、初めての連邦に足を踏み入れてから今日まで、カナダ訛りというものを実際に目の当たりにした覚えはなくて、でも、この時の農夫の男性の言葉が所謂カナダ訛りであるのか、それとも他の訛りであるのか、わたしは、エリシア・ウェントワースははっきりと認識できなかった。

 ただ、うっすらと、遠い懐かしさがある。
 祖母の家のまわりの人たちもこんな話し方をしていた。

 ウェストバンクーバー郊外。
 白の印象が強い灰色の空の下、農道のただ中にわたしはいた。

 綺麗な空だった。ええ。そうね。
 大型の機関都市を覆う空は暗く、黒い。
 それに比べて、ここの空は白く、どこか明るさも感じられる。

 でも──

 本当の空を見せて貰ったわたしには、もう、今までのように黒ずみの比較的少ない雲に覆い尽くされた空を指して「晴れている」と言うことはできない。
 白い空。
 薄い雲。
 あの空が開いてくれれば、雲に隙間が生まれてくれて、それが際限なく広がっていくとしたら、どんなに良いかしら。
 アランがくれた魔法の光景を、わたしは今も覚えている。
 忘れない。
 絶対に。

 わたしの瞳には見えてしまう。
 黄金色へと変わったまま今も戻ることのない左瞳に、うっすらと。
 それは現実を映すものではなくて、わたしの、きっと夢想の類なのでしょうね。
 ええ。
 それでも。

 ウェストバンクーバーの雄大な自然。
 未だ枯れきってしまってはいない針葉樹が無数に突き立つ森、灰色に薄く煌めく銀嶺、暗い色ではあっても汚染臭は殆どない湖の水面。
 それらを覆う永遠の灰色雲が、今にも、あの日に見た空へ──

 ──透き通る青空へと変わっていく光景が。
 ──左瞳に、見えてしまう。

「──」

 わたしは胸を押さえていた。
 自覚はなかった。
 今なお育っていく、過去のわたしから変わっていく体、胸、不意に触れて。

「……アラン」

 あなたの名前を呟いていた。
 アラン。わたしの、アラン・エイクリィ。

 ──アラン。わたし、あなたのことを想って。
 ──アラン。わたし、あなたの約束を想って。

 涙は流さなかった。
 わたしは、きっと、その時、涙を流すための表情はしていなかったと思うから。

 だって、ほら。見て。
 あなたが見せてくれた青空を、わたしは、今もこうして思い出せる。
 あなたがわたしにくれた、これは、魔法。
 どこへ行っても。
 幾年月経っても。
 わたしは、この青空を連れて行ける。どこにでも。いつでも。

 さあ。歩こう。
 あなたがくれた青空を背に、わたしは行くの。

 大叔父さまの屋敷まで。
 あと少し。

 

◆             ◆             ◆

 ──とても、不思議な感覚だった。
 ──見覚えのない土地に見覚えのある屋敷がある。

 それは、合衆国の某州にある大叔父さまのお屋敷と同じ形をしていた。
 微細に記憶している訳ではないけれど、殆ど同じ。
 大叔父さまの“使者”と会ったわたしは“道順”を教わり、合衆国では旧式とされる第2世代型の蒸気機関車に乗ってメトロバンクーバーを離れ、未だ自然の多く残るウェストバンクーバー郊外へと赴き、ひとつの邸宅へと辿り着いていた。大叔父さまの屋敷と、本当に、何もかもが同じに見えるお屋敷。

 奇妙な光景だったけれど、不思議と違和感の類はなかった。
 ああ。そうか、とさえ思う。

 世界中を埋め尽くす機関群。
 すべての空を覆った灰色雲。
 それらの影響を受けて、それでもなお、未だ雄大さを残すウェストバンクーバーの山々と木々は、古い英国風建築方式の大叔父のお屋敷と奇妙なほどによく似合って見えた。

 ほら。こうして目にする、窓向こうに大きく見える湖。
 使用人の方に通して貰った待合室には大きな硝子窓があって、そこからは、農道を歩いた時にも見えた湖の姿を望むことができた。
 スタンリー湖、と言ったかしら。

 先刻もそう思えたけれど、やはり、湖の水も比較的汚染度が低いように思える。
 水の色は深く暗いものの、独特の粘性を感じることがない。
 泡立ちもない。

「……水」

 ふと、思う。
 あの子はこんなに多くの水を見たことがあったかしら。
 わたしの知る限りの紫色の世界には、湖……。そう、たとえば、地底湖の類であるとか、そういったものはないように思えた。
 ヴェラザノ海峡橋は確かに存在していたけれど、でも?

 はっきりと思い出そうとすると、奇妙なことに気付いてしまう。
 橋の周囲は海ではなかったかも知れない。と。

 暗くたゆたうものを記憶している。
 わたしの左瞳。

 でも、あれは、海ではなかったように思えてならない。
 そう、あれは、もっと昏くもっと深淵じみていたもの。

「ね。リリィ」

 わたしは囁く──

「あなたは、本物の海を見たら何て言うのでしょうね。
 驚くかな。喜ぶかしら。
 いいえ、きっと、その両方ね」

 ──たとえば、すぐ近くにいる誰かへ。
 ──耳元で告げるように。

 あの子とわたしの不思議な“繋がり”は、今や、断たれてしまっていて。
 少なくともわたしの傍らにいないことは、わかる。わかってる。
 それでも。わたし、こうしてしまう。
 あの子に何かを伝えたいと思う時。
 あの子と何かを感じたいと思う時。
 こうして、年離れた妹をあやす姉のように、子供を抱いた母が告げるように、囁いてしまう。口元に、ほんの少し、微笑みが浮かぶのを感じながら。

 ねえ。リリィ。大好きなあなた。
 あなたは、今日も、わたしの知らない空を旅しているのでしょうね。
 あなたは、明日も、知らなかったものを、沢山、知っていくの。

 何の根拠もないけれど。
 わたしには、ある種の確信があって。

 そして、その確信はわたしに勇気をくれる。
 わたしは挫けない。
 わたしには、大好きと言える人々がいて。
 わたしには、愛するひとのくれた空があって、言葉があって。
 わたしには、あなたがいる。リリィ。

 どこかで旅するあなたを想うたびに、わたしは勇気を貰う。
 あの時と、同じね。
 永遠にも感じられた螺旋階段を昇り続けた時。
 わたしよりもずっと傷付いてしまったあなたは、わたしよりも強い足取りで、空の果てを目指した。あなたの強さをわたしは想う。勇気を貰う。

 リリィ。
 わたしと旅したあなた。

「どうか、あなたの旅に、素敵な青空を」

 囁いて──
 わたしは、窓辺から少し離れる。

 その少し後だった。
 紳士然とした使用人の方がドアを開けて、わたしは待合室から書斎へと案内されることになった。小一時間は待っていたと思うものの、お忙しい大叔父さまのことだから、それ自体は気になるものでもない。そう。気にならない。
 通された書斎に、暗がりが多かったことも。

 書斎。きっとわざと照明を半ば落とした、暗い部屋。そこに、あの方はいらした。背の高い男性。矍鑠とした、という表現が正しいのかどうか迷ってしまうのは以前の時、すなわち、初めてお会いした時と同じだった。
 変わり者と言われる大叔父さま。
 農場を経営して、機関工場も所有しているお金持ちの大叔父さま。
 合衆国にいたかと思えば、カナダ連邦にいらっしゃる。
 祖母からよく話を聞いていた。

 ──大叔父さま。
 ──祖母のお兄さまという話だけれど。風貌は、似ていない。

 柔らかな印象の祖母とは違って。
 厳めしく、ぴしりとした印象の男性。

 以前の時にもそうだった。
 不思議と照明を落としがちのせいか、そのお顔ははっきりと見えない。
 自ら進んで暗がりにいるような、そんなことを思ってしまう。

 大叔父さま──

「大叔父さま」

「言うな。エリシア」

 彼は、言葉を遮って──

 


 




 

 


「何も言う必要はない」

 銃口が。向けられていた。

「如何なる判断かは知らぬ。
 如何なる目的かは知らぬ。
 ただ、お前が、国外を選んだのは懸命な判断だ」

 ──現実感が。
 ──殆ど、なかった。

 たとえば、待合室から眺める風景は穏やかなものであると感じられた。
 幼い頃に何度も会った祖母のように。
 現実感の薄いもの。
 遠い過去のように。

 そして、およそ1年ぶりにお会いした大叔父さまから投げ掛けられる視線は、これまでの人生でわたしが見てきた“人の視線”の中で、最も険しい部類だった。
 たとえば、あの景色と同じように。
 現実感がなかった。
 遠い出来事のよう。

「エリシア」

 彼が静かに告げる。
 落ち着いた、以前と同じままの声。
 祖母とは似ていない、厳めしい声。

「助力は一度きり。以降、お前は俺の親族ではない。
 もしも合衆国の兵隊連中に捕まることになっても俺の名は出すな。
 そう言ったのを覚えているな」

 鈍い鋼色の銃口がわたしに向いている。
 引き金を絞れば、わたしは、きっと、死ぬのでしょうね。

 ──何故?
 ──大叔父さまは、わたしを殺す?

 現実感がない。
 ただ、わたしには、やるべきこと、言うべきことだけがあって。

 だから。
 胸の奥で、激しく、早く、なろうとする鼓動に我慢を強いて。
 震えそうになる唇にも。舌にも。

 さあ。言葉を述べて。
 そのために、ここに来たんでしょう。ね。エリシア・ウェントワース。

「はい」

「そうか」

 助力は一度きり、と彼は先年に告げていた。
 それはわたしも記憶している。

 それでも。わたしは、ここにいる。
 それでも。わたしは、再び大叔父さまとお会いすることを望んだ。選んだ。

 そうすべきだと、わたしは、考えたから。
 約束を破ることになっても──

「であるのに、何故、俺に会おうと決めた?」

「直接、お願いしたいことがあります」

「勘違いするな。エリシア。
 一度助けたのは姉さんへの義理があったからだ。そして俺は、姉さんには
 一切の恩を返すことが出来なかった。せめてもの罪滅ぼしという奴だった」

「感謝を──」

「お前の感謝など必要ない。
 いいか。俺の、姉さんへの罪滅ぼしはもう既に終わっている。
 ならば、お前は、更なる願いに何を引き替えるつもりがある。
 例えば、そうさな。随分と麗しく育ったその体、俺に差し出してみせるか?」

「お望み、でしたら」

「黙れ」

「お返しになるなら、わたしは」

「喋るな」

 ──喋るなと、言われても。
 ──わたしは言葉を紡ぐことでしか彼に伝えられない。

 ──もしも、ここで殺されるのだとしたら。
 ──あの銃口が火を放つなら。

 ──それより前に伝えよう。
 ──わたしの願い。

 ──だから、アラン。どうか、わたしが選ぶ言葉を守って。
 ──だから、リリィ。どうか、声を言葉にする勇気を、頂戴。

「ふたり、の……」

「黙れ」

「ふたりの、友人が、います。
 わたしの旅を助けてくれた、大切なひとたちです。
 お願いです、どうか、彼らが、罪に問われないように」

「何?」

 銃口が、僅かに揺れる。

「わたしは、多くの法律に違反しています。
 無事で済まされるものとは思いません。
 でも、どうか、そのために、友人たちが傷付くことのないように」

「なるほど」

 彼は、大叔父さまは静かに頷いた。
 そして──

「ならば、これは、俺からの最後の慈悲だ」

 

 ──引き金を絞る音。
 ──続けて、耳をつんざく銃声。


 

                               〜第二回へ続く