「ハイ、モニカ。なにさ暗い顔して」

「やあ、セルマ。悪いけど僕のこの顔は生まれつきだよ」

 ロスアンジェルス市内。
 今世紀に入ってからの合衆国内で人気のシアトル・スタイル・カフェはこの上り調子の都市の中心街にもあって、当然、持ち帰り(テイクアウト)式の店頭こそが名物であり多忙な都市人への正しい対応の形であり、機関式販売計算機械(レジスタ・エンジン)の奥にひっそりと存在するカウンター席などが使用されることはあまりない。
  だから、モニカが“相棒”とデートするのは専らこの場所だった。
 金融や通信の企業が建ち並ぶ立地条件からすれば、年若い少年少女のデート・スポットとして機能するには些かの不安はあるものの。ふたりきりの空間ではある。

 映画のポスターが壁に貼ってあるのが特徴的。
 丁度、表通りからは見えない位置に。絶妙に。
 ちなみに表通りには我らがP探偵社の第1支部ビルも存在している。

 貼られているのは、ハリウッド映画のポスターだ。
 比較的“新しい”娯楽である映画文化の中心地はかつてこそ旧NYやシカゴ・シティであったものの、現在では、ハリウッドがその華やぎの中心へと変わりつつある。
 たとえば、このポスターに描かれるような空想映画はシカゴでは撮られない。
 いわゆる空想科学(サイエンス・フィクション)を扱った映画。

 モニカは小難しくてよくわからないという感想を述べたものの、相棒であるところの少女、モニカと真逆に男性名を付けられて育ったハンス・セルマ・D・ヘンドリクスにとっては大いに気に入るところであったらしい。
 曰く「あの傑作がわからないなんて。だって、機械の人形(ロボット)が人間の女の子を攫っちゃうのよ。嫉妬して。ああもう、モニカには男の浪漫がわかんないのよ」とか。

 その浪漫は何かが違う。
 その場合のそれは女の子の浪漫でもいいのでは?

 そう思ったものの、言うだけ無駄なので言わなかった。
 状況を端的に説明すれば確かに浪漫はあるような気がしないでもないものの、昨年のセラニアンで見てしまった異形の機械の姿が未だ脳裏に刻みつけられているモニカにとって、機械の人形が浪漫の対象になることはあり得ないのだった。

 概ねセルマが笑顔を浮かべていて。
 概ねモニカは、何か不平を呟いている──

 それが、この実質的な特等席でのふたりの普段の姿だった。
 今日も。そうだ。

「生まれつきのかわいい顔が台無し、って言ってんの。何その顔。
 暗い暗い! もっと明るくしてないとかわいさが活きてこないじゃない」

「かわいいって言われてもさ」

「褒めてんのにょ」

 語尾がごにょごにょしたのは、フランス式のエスプレッソ機関で作られたアイス・エスプレッソをストローで呑み込んだせい。第3ブルボン王朝フランスから直輸入したという触れ込みのエスプレッソ機関はこのカフェの目玉で、ハンス・セルマは大層お気に入りの様子だった。
 モニカはアイス・カフェオレ。
 コーヒーの味は苦いばかりでよくわからない。

「で、なに。噂のレディの案件を下ろされてふててんの?」ひひひと笑って。

「そんなのじゃないよ」頬を膨らませて。

「あ。そうなんだ。そういうんだ」笑みをぴたりと止めて。

「何?」やや不審げに。

「あてずっぽで言っただけだったんだけどさ。
 あんた、本当に下ろされてたんだ。じゃあ、噂は本当かな」少し上を向いて。

「なんだい、それ」声に戸惑いが混じる。

「朝聞いたばっかりの噂なんだけど」

 ハンス・セルマが向き直る。
 行儀悪く肘を突いて、パンツ・ルックがよく似合う長い脚をぶらぶらさせる、彼女特有のリラックス・スタイルをぴたりと止めて。体ごとモニカへ向いて、顔と顔、瞳と瞳をぴたりと正面に合わせて。
 冗談ではない話をする時の彼女の癖。
 調査探偵ハンス・セルマ・D・ヘンドリクスの、癖のひとつ。
 だから、続く言葉がどれだけ変わっていても嘘ではないとわかる。

 それでも。
 告げられた言葉は嘘であって欲しかった。
 モニカには、研ぎ澄まされたナイフのような言葉に思えた。
 なぜなら──

「《血塗られた舌》が動いてるって噂。ヤバイんだよ。もう」

「さ、殺人教団!?」

「声大きい」

「だ、だって、そんな」

「うん。それ。国外にレディが逃亡したって話をCIGも掴んでて、
 合衆国の外ならあのキチガイ教団を雇ってもいいだろって踏んだみたい」

「そんな」

 絶句するしかなかった。
 恐るべき殺人教団の話はモニカも知っている。知らないはずがない。
 暗闘と陰謀を是とする情報組織同士の抗争に於いて、そんなものを露とも気にすることのない自滅的、刹那的な組織。世の中には正気を疑う例外的存在や規格外と呼べる驚嘆すべきものが常に幾つかあって、何処の国家のものとも知れない、アフリカ大陸の秘境だとか古代のエジプトだとか如何にも妖しげな出自を謳う殺人教団《血塗られた舌》の存在はまさしくそのひとつだった。
 邪悪な神性を報ずる狂信的な宗教組織であるという噂さえある。
 この碩学時代たる繁栄の20世紀に!
 宗教的殺人教団!

 彼らは、それでも実在する。
 そして、容赦をしない。加減もしない。

 目的を果たすためなら直接的被害も副次的被害も省みない。
 かの巨大結社《西インド会社》との抗争さえ、躊躇わないという。
 故にこそ、教団の規模は決して拡大し得ないと言うが──

「正真正銘の狂人連中じゃないか!
 そんな奴らに、話なんて、通じる訳が」

「なんでもいいから始末を付けたいんでしょ。
 でも、CIGの痕跡を万一にでも残したくないってこと」

「国外脱出したことが関係してる……のか」

「イエス。マイ・リトル・ガール」

「小さくないし女の子でもないよ!
 CIGが遠慮するってことは、レディ、婦人Eは、同盟国の何処かにいる?
 大英帝国か、フランスか。でも、欧州圏に干渉なんてできるとは思えない」

「カナダかもね」

「カナダは困る!」

 思わず声を出してしまう。
 でも、そう、カナダは困る。困るのだ。

 カナダ連邦は寛容の精神を国是としている。
 その所為という訳でもないだろうが、入国の審査や国境の警備、情報組織の練度も合衆国や英国に比べるとひどく緩い。カダス北央の人間が目にしたら、そのあまりの穏やかさに正気を失う者もいるだろう。
 機関技術の流入と発展が先進各国に比して乏しい連邦は国力も小さい。
 現代に於いては、数少ない、汚染度の低い自然が残る“要保存国”でもある。
 各国から良くも悪くも記念物扱いされ、合衆国や英国の保護下にあると言っても過言ではないカナダ連邦は、ある種の人間たちにとっては非常に“やりやすい”土地なのだ。

 たとえば。そう。
 国家間を渡り暗闘する類の組織の人間にとっては。

 ──国家権力による障害も少なく。
 ──暴力的な目的を、概ね、容易に遂げることができる。

「もしも、そうなら……。
 本当に見殺しにするつもり、なのかな。本部の人たちは」

「どうかしら」

「もしも……そう、なら……」

「どうするの。もしもそうだとしたら。モニカ。
 あんたひとりで、何か、できることがあるとでも思うの?」

「僕ひとりじゃ駄目だ。でも」

「でも、何さ」

「ほ、ほら!
 何年か前に本部でも噂になった《白い男》とか!」

「おとぎ話を鵜呑みにしない!」

「でも……」

 でも。
 でも。

 でも、仕方ない、と諦めることはしたくなかった。
 モニカ・ヌーベルヴァーグはいつの日にか目にしたプラチナブロンドの少女のことを思い出す。婦人Eことレディと同じ、片方の瞳が黄金色に変わっていた、あの少女。あれから何かを調べることはなかったし、もしも本社や他支部の調査探偵が調べていたのだとしてもモニカが何かを知ることはなかった。それでも。
 それでも、モニカは思うのだ。
 こんな時。

 何もかもが良くない方向へ転んでいる、そんな時。
 何もかもが取り返しの付かないことになりそうな、瞬間。

 もしも、あの子だったら。
 どうするだろう?

 ──秘匿都市セラニアンを駆け抜けていったあの少女なら。
 ──もしかしたら、諦めないのかも知れない。
 ──それなら。自分だって。どんなことでも、諦めることはしたくない。

 

 ──何の根拠もないのに。
 ──誇らしさと共に、モニカは、そう思ってしまう。今も。