──それは、廃墟都市の果てであのひとの声を聞いた後のこと。
 ──それは、わたしが彼女の声を聞く前のこと。

 雑踏の響きはどの都市でも似たようなものだと言われるけれど。
 わたしには、この街のそれは、幾らか穏やかなものに聞こえていた。
 合衆国の機関都市のどれよりも、落ち着いて、柔らかく聞こえる。そんな風に思えてしまうのは何故だろう。
 いいえ、考えるまでもない。
 たとえ空の灰色は変わらなかったとしても。
 ここ、カナダには、未だ自然の木々が残ることをわたしは知っているから。

 西暦1908年。
 某月。某日。
 カナダ連邦首都メトロバンクーバー。
 わたしは、エリシア・ウェントワースは、その雑踏の中にいた。

 永遠の曇り空は何処の都市とも変わらない。
 なのに、行き交う雑踏の人々の足取りはどこかゆったりとして耳に響く。
 前世紀の半ばより、蒸気機関のもたらす排煙や廃液は自然に対して、ひいてはわたしたち人間に対して有害であるという一部碩学たちの発表を重視したカナダ連邦政府は、機関汚染に対して先進各国に比べて幾らか厳しい基準を設けていた。
 結果として、この国には、未だ汚染の少ない木々や森林地帯が残っている。

 だからこその……。
 先入観、なのでしょうね。これは。

 連邦の人々は自然の維持を誇りとしている、と物の本には記されている。
 たとえ蒸気機関による恩恵、繁栄が、他国に比べて劣っているのだとしても。
 たとえ現政権が機関の積極的使用と増産を決めて、象徴たるハーバーセンターからは排煙が立ち上り、メトロバンクーバーの空を灰色に染めていたとしても。

 未だ残る、都市と人々の独特の穏やかさ。
 それはある種の懐かしさでもあって。

 わたしには心地良く感じられてならない。
 吐く息も、どこか優しく。

 だって、思うの。
 在りし日のニューヨークも、こんな風だったのかしら、と。
 規模も風土も、時間も、何もかもが違うとわかっていても。

 わたしは、そう、感じてしまう。
 こうして、大通りに設けられたベンチに腰掛けている最中も。

 行き交う人。言葉交わす人。交わり続ける、人々の生きる証。
 人の生み出す音。
 形成される街。

 人。街。賑やかさ、雑踏。繁栄と、それのもたらす夢の類。輝ける明日が来ることを決して疑うことのない、疑う必要のない、命の気配。
 子供の声だって、ええ、聞こえてくるのよ。

「……人のいる都市」

 ぽつり。と──
 呟いてしまう。

 ひとりごとは、昨年末の旅からの癖。
 もうジョンは傍らにいないのに。

 多脚式歩行鞄。ジョン。
 廃墟都市となった旧NYを旅した際に、わたしを助けてくれたわたしの友達。
 変ね。そんな風に思うのは。
 でも、ただの機械なのだとしても、わたしに寄り添い助けてくれた。
 だから、友達。友人。
 あの方からの指示で、今、連れ歩くことはできなくても。

 先ほどチェックインしたホテルの部屋の中で、ばらばらのパーツになってジョンは眠っている。組み上げてしまうとジョンの体躯は目立ってしまうから、ばらばらに。だから、現在の私は大小幾つもの鞄と共に移動する一般的な享楽的旅行者、という体になる。飛行場やホテルの荷物移送サービスを、最大限、活用して。

 旅行。ええ……。
 勿論、ただのそれであれば良かったのでしょうね。

 わたしは僅かに息を吐きながら思う。
 ジョンのことを考える余裕が出て来たのは、きっと、良いことのはず。と。
 黒革の手帳、取り出しながら──

「ゆっくりするのは久しぶり。ね。
 こうして、手帳、取り出すことも……」


 



 

 煤よけの帽子を被ったままだから、少し、手元が暗い。
 それでも文字ははっきりと読める。
 手帳。わたしの、黒革の手帳。

 手帳を取って記入することも久しぶり。
 ジョンと共に旅を行っていたあの時には、何度も手帳にメモを取っていた。
 わたしの旅の記録。
 そして、あの子、少女の旅の記録。

 この手帳にはすべてが記されている。
 わたしのことも。
 あの子のことも。
 そして、アラン、あのひとのことも。

 ──わたしが廃墟都市を旅した証。
 ──あの子が地下世界を旅した証。
 ──わたしの宝物。

 こうして、合衆国を出て、エリシア・ウェントワースではない名前と旅券を用いてカナダ連邦へと至っても。ホテルのチェックインの名前もエリシアでなくなっても、わたしがNYを旅したわたしであるということはこの手帳が証明してくれる。
 もっとも、名前は、記入していないから、他の誰が読んだとしても、そうは思ってはくれないのでしょうね。
 でも。
 でも。

 でも、これには、わたしの想いが込められているのだから。
 そう、これには、あの子の想いも込められているのだから。

「誰かに、読んで貰える機会」

 ──あると、嬉しい。そう思う。
 ──そんな機会がいつかあってくれれば良いのに。

 また。小さく呟く。
 声、音は穏やかな雑踏の中に消えていく。

 手帳に記した旅の足跡を保存、保管したいと申し出てくれた人たちがいた。
 少し、ええ、ほんの少しだけ迷ったけれど。
 わたしはそれを承知した。
 わたしの宝物。わたしの、あの子の想い。
 きっと、他の誰かに伝えることにこそ意味があるのだと思ったから。

 わたしの旅のことを?
 いいえ。
 いいえ。

 あの街に、確かに、人々が生きていたということを。
 あの子が、確かに、紫の世界を旅したということも。

 連絡を受けて、わたしは、手続きの通りに複写したものを送付した。
 複写を電信文に変えて、その受け取り先を私書箱に指定して、それから、ある財団へと私書箱の鍵が届くように手配して。似たような手続きを三度、別々の場所でわたしは行うことになった。
 ええ。そうね。
 奇妙なほどに持って回った手続き。
 不可解、不思議に思うことはあった。

 でも、仕方のないこと。
 わたしは合衆国の法を合計12以上も侵して旧NYへ入ったのだから。
 正規の手段で移送することが困難であるのは、当然。
 たとえ、多くの人々が、かつて東海岸に重機関都市があったということを口にせず、いつかのヘンリー・フォード氏の演説のように、忘れるべき痛ましい出来事として考えていたのだとしても。

 法を侵したという事実は変わらない。
 わたしは、きっと、正しい“愛国者”ではないのでしょうね。

「ヴィヴィ」

 わたしは呟く。

「セルヴァン」

 ──小さく呟く。
 ──大好きな友人たちの名前を。

 わたしの旅に協力してくれたふたりの友人たち。親友。
 ヴィヴィもセルヴァンも、わたしがNY侵入という違法行為を選んだことを、怒ることはあっても止めることはなかった。力まで。貸してくれて。
 手を尽くしてくれた。

 セルヴァンは、南部連合の丈夫なブーツや外套、食糧を調えてくれた。
 陸軍基地のNY近郊監視の予定時刻が記載された機密文書まで手に入れてくれて。

 ヴィヴィは、旅に際してのあらゆる事態を考えてくれた。
 無計画にNYへ乗り込もうとしたわたしへ、旅の手順や、幾つもの心構え(マインド・セット)を教えてくれて。
 ジョンに積載する旅の道具は、殆ど、彼女が考えて、用意してくれた。

 ね。ヴィヴィ。一緒に幾晩も考えたわね。
 どうやって都市へ入って、どうやってトレヴァー・タワーを目指すのか。
 セルヴァンが来てくれた夜もあった。

 わたしは──

 わたしは、そんなふたりにまた迷惑を掛けている。
 既に、NYへのことだけで、反逆罪に問われてもおかしくない程なのに。
 また、ふたりは力を尽くしてくれた。
 あの方が隠匿しているこのカナダ連邦へとわたしが至るために、それこそ、法に触れる行為をも厭わずにわたしの新しい旅を助けてくれた。

 わたしは、沢山、沢山、貰ってばかり。
 何も返せていない。
 何もできていない。
 なのに、また、こうして、わたしは旅をして。

 ──あの方からの言葉。短い電信文だった。
 ──合衆国を出ろ。と。

 手段は問わない。
 援助はしない。
 ただ、今すぐに合衆国を出ろ、と連絡があったのは年明けてすぐのこと。

 旅を終えて、わたしは“あること”のためにあの方との接触を望んだ。
 再び、直接会ってお話がしたい、と。
 そうする必要が、わたしにはあったから。
 そうする義務が、わたしにはあったから。

 その返答が電信文だった。合衆国を出ろ、と。
 すなわち、隠遁されているあの方のいる場所へ来い、ということ。

 そして……。
 わたしは、結果的に……。

「ごめん」

 ここにいないヴィヴィへ、わたしは呟く。
 ごめん。ごめんなさい。ヴィヴィ。

 合衆国を発つ前に、わたしはヴィヴィにすべてを話した。
 この手帳、最初に見せたのはヴィヴィ、あなただものね。

 ヴィヴィは、何度も、何度も、頷いてくれた。
 わたしの言葉を疑いもしなかった。
 ただ、わたしのために、アランのために、泣いてくれて。
 それから、また会えなくなるなんて嫌だと泣いてくれた。

「ごめんね。
 ヴィヴィ。ヴィヴィアン」

 届かない言葉を、また、呟く。
 声。少し震える。

 ごめん。ヴィヴィ。
 西海岸の機関都市ロスアンジェルスの飛行場から飛び立つ1907年型ツェッペリン大型飛行船の廊下の窓から、飛行場の端に小さく小さく見える蒸気自動車(ガーニー)の脇に立っていたあなたとセルヴァンの姿を見つめた時も。この言葉。あなたに、伝えられなかったね。

 今すぐにでも電信を掛けたい。
 あなたと、セルヴァンに、わたしは幾万の謝罪をしても足りない。
 けれど──

 けれど。
 けれど、わたしは、言葉交わすことができない。

 あの方からきつく戒められていた。
 合衆国を発って後は一切の外部との通信は禁ずる。と。
 あの方。
 わたしのNYへの旅を助けてくれた、もうひとり。
 わたしに新たな旅をするよう告げた、あの方。

「……大叔父さま」

 そう。あの方。
 祖母の兄という、ただひとりの大叔父さま──

 秘匿された旧NYに関する公文書を入手してくれたひと。
 抹消されつつあったNY地図なども手配してくれたひと。
 セルヴァンの話では、わたしが機関公文書館にひとりで訪れた際の記録が消えていた、とか。きっと、それも、あの方がしてくれたこと。
 わたしの旅を助けてくれた、3人目のひと。

 あの方の指示でわたしはここにいる。
 カナダ連邦首都、メトロバンクーバー。
 ハーバーセンターに近しい3番大通りの、北側からふたつめのベンチ。
 時刻。午後1時。

 わたしは国を離れて。
 ひとり、ここで──

 大叔父さまからの“使い”を待っている──