──あたしは空を見上げる。
 ──じくじくと疼く痛みに耐えながら。



















 第2層のコンドミニアムのあたしの部屋から見上げるインガノックの空は、10年前の記憶とどこか違う気がしてならない。はっきり口に出すことができないのは、はっきり相違点が浮かんでこないのは、やはり、あたしの頭がどこかおかしいせいなんじゃないかと思う。
  だって、今日もこんなに頭が痛いもの。

 あたしはアティ。
  アティ・クストス。

 2級市民クストス家の長女。機関工場勤めの計算手。それがあたしのはずだったのに。ふと目が覚めたら、10年後のインガノックに佇んでいた。頭の中にはその間の記憶はなくて、体も10歳の年齢を重ねた訳でもなくて。あたしの記憶と体にしてみたら、突然、10年後の時間へ移動してしまったみたいなもの。

 実感は湧かなかったけれど。
  毎日、新聞を読んで、近場の第2層商業区画へ食材の買い出しに歩いていれば、嫌でも10年の時間の流れを感じてしまう。知らない街、知らない機関機械、そして想像できるはずもない“異形”となってしまったという人々の姿。

 このインガノックで、異形都市となったインガノックで、あたしはどうやって生きてきたんだろう?
  両親は亡くなって、知己の消息もわからない。
  そんな都市でどうやって。

 どうやって、誰と──

 ──だめ。だめ。痛い。頭が痛い。
 ──思い出そうとすると、頭の奥で疼く痛みが強くなる。

「痛むのか」

「……ええ。少しだけです。ご心配は要りません」

 尋ねる声へとあたしは応えて、作り笑顔を向ける。
  声の主は、リビングの新品のソファに座って何かの書類や新聞を広げている黒ずくめのコート姿の男性。名前は確か、西亨語の表音文字のひとつ、そう、M。

 彼は、第7層28区域のA−3アパルトメント跡で出会った西亨人の彼は、どういう理由かあたしの“10年間”のことを調べてくれるという。わざわざ西亨から王侯連合領の端まで来るだなんて大変な長旅なのだし、彼には彼で大事な用もあるようだから、あたしは丁重に断ったのだけれど……。

 彼の要件とあたしの過去は関わりがあるらしくて。
  ううん、正しくは違う。

『単純な、可能性の問題だ。手掛かりは少ない』

『可能性……?』

『そうだ』

『そう、ですか……可能性……』

 正しくはこういう会話があった。
  可能性の問題らしいけれど、よく、わからない。

 彼の言葉の多くの意味はわからないけれど、気付けば、彼は、2日に1度はこうしてコンドミニアムに顔を出してくれていた。情報空間と呼ばれる有機的インフォメーション・ネットワーク(意味はよくわからない)からサルベージ(引き上げるという意味の西亨語だと思う)したという、情報蓄積機関の残骸であるとか、書類のようなものや、10年間に出された安っぽい新聞もどきのような紙束を持ってきて、何か説明をしてくれる。

 言っていることの半分もあたしはわからない。
  緑の石がどう、とか。
  情報蓄積機関の何がどう、とか。
  トートがどう、とか……。

 あたしが反応するのはひとつだけ。
  すっぽりと抜け落ちた10年間のあたしに関わる誰か、第7層28区域のA−3アパルトメントからハッカーに指示を出してあたしの情報を改竄した“誰か”のこと。
  その“誰か”についての話を聞くと、あたしは反応する。
  反応して、失われてしまった時間について思い出そうとしてしまう。それはあたしにとってはひどく自然な出来事で、息を止めれば窒息するのと同じように、当然のこと。

 ──この10年間について思い出そうとすれば。
 ──痛む。疼いてしまう。頭の奥が。

 耐えられないほどではないけれど、でも、痛い。
  思わず右目のまぶたを閉じてしまうほどに。

 いつからだろう。
  こんな風になったのは、多分、あの第7層28区域へ降りてからだ。あそこへ行くまで、一度もこんなことはなかったのに。どうして。急に、痛むようになって。

「頭の痛みは未だ止まらないようだな、アティ・クストス」

「お目障りで……」すみません、とあたしは言おうと。

「いや。別段、構わん」

「……はい」

 こうしてあたしが痛みに耐えて右目を閉じるたび、彼は興味深そうな顔をする。西亨の紳士というのは、頭痛で悶える女を見る趣味があるものなのかと最初はちらりと思ったけれど、暫くするとそうも思わなくなった。
  彼は、Mというひとは、興味があるかないかでしか物事を計っていないのではないかしらと、あたしは思って。

 変わったひと。
  名前もそう、西亨からわざわざ来るところも、お節介なのか不親切なのかわからないところも。黒ずくめの風貌もそうだけれどインガノックの人々に混ざればあまり、目立たないかな。

 そういえば、先日。
  きっちりと2日に1度は必ずここへ来る彼が、なぜか来ないことがあった。その時のことを、あたしは聞いただろうか。聞いていない気がする。
  痛む頭で、あたしはそう考えて──

「……訊いても構いませんか、ミスター・M」

「何だ」

「先週か、先々週に、あなたは……何日も、ここに来なかったですよね。何を調べていらしたんですか」

 ──別段、興味があった訳ではなくて。
 ──ただ、あたしの唇が、自然と尋ねていただけ。

「廃棄区画へ行っていた。
  俺の目的は多少果たせたが、お前の件とは無関係だ」

「……そうですか」

「ああ」

 彼はあまり喋らない。
  初めて出会った時には、励ましの言葉をくれたような気がしたけれど、それは気のせいだったんじゃないだろうかと思うほどに、彼の言葉は短く簡潔で、伝達に特化されていて。

「そういえば」

 こんな風に、話が逸れたりすることは少ない。
  ──あれ?

「そういえば、変わった人間がいたな。
  廃棄区画で俺に手を差し伸べた人間が、ふたり」

「……?」

「機関人間の女がひとりと、車椅子の男。
  ああいう人間と言葉を交わすのは久方ぶりだった」

 ──機関人間の女──

 ──それは──

 彼が言葉を口にした瞬間、何かが脳裏に浮かんだ。あたしの。あたしの頭の中で確かに、今、誰かの姿が思い浮かんだのだと思う。誰。今の、誰。誰。

 鋭い痛みだった。
  疼くような痛みだったのに、あたしの頭、ずきずきと。

 ──耐えていた痛みが増してしまう。
 ──痛い。痛い。痛い。

「あ、ぅ……」

「アティ・クストス。その右瞳は」

 彼が興味深そうに(決して心配げにではない)あたしの目を覗き込む。右目を。どうして、右目だけ。ひどい痛みが渦巻く頭であたしは、霞みそうになる意識の中でなんとか手を動かす。右目に、何か、あるの?

 ソファテーブルの上に置いた手鏡を取って。
  覗き込む。

 え……?

 なに……これ……?

 薄い灰色の瞳であるはずの、あたしの瞳の色が、別の色に変わっていた。気のせいか、少しだけ左瞳より大きくなっているような、そうでもないような。

「黄金瞳か」

 ──彼が何かを呟いたけれど。
 ──あたしの耳には、何も、届いていなかった。







[sekien no inganock -what a beautiful people-] Liar-soft 21th by Hikaru Sakurai / Ryuko Oishi.
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