「受肉を終えた顕現体が“震撼”を始めたか」
『御意』
告げる声は酷く聞き取り難かったが、滑らかに周囲へ響き渡る。
静謐なる知識の間。ここでは、幼子の囁き声のひとつですら、確実に相手の聴覚へとすべり込むという。遥か極東の聖人が行ってみせた同時複数対話を可能とする、大いなる結社の知識のほんの一部の余技で形作られた暗がりの密室。祭壇とも呼べるか。
ここで誰かの語る知識は、すべて、偉大にして深淵なる結社総帥アルトタス=トート=ヘルメース師へと届くのだ。
──ひとりの男の姿があった。
──彼の名は、アダム・ヴァイスハウプトという。
西欧及びカダス北央大陸の闇に潜む巨大組織《結社》の最高幹部がひとり。
あらゆる犯罪を操る組織であると同時に、優秀な碩学の数多くを構成員として成立するこの《結社》にあって、偉大なる総帥から幹部権限を与えられた《三博士》最後のひとりとして君臨する男であった。
濃紺の衣服に身を包んだ彼は、今、まさに歓喜の渦の中にあった。
超長距離用電信通信機関を通じて送られる報告のひとつひとつへ、鷹揚に頷き、時に歓喜の笑みを漏らしながら。仮面に覆われたその顔を知る者は数少ないが、もしも素顔を見る者がいれば、人がおよそここまでの快楽を表情とすることができるものかと目を見開いただろう。
彼は、仮面の下で表情を歪ませていた。
如何なる薬物も、如何なる化学反応も、彼をここまで歓喜させることはない。
彼が感じているのは一体何か。
それは、通信機越しに報告する者にも理解できないだろう──
『目標Aの黄金瞳に認識されたことにより、ダゴンは顕現体へと変化しました。
既に目標Mの存在を感じ取り“震撼”を始めています』
「こちらでも計測できている。
北海の“門”を通じてなおこの数値とは、見事なものだ。コンスタンツォ」
『光栄至極。閣下』
通信機の向こう、都市セラニアンへと趣いた部下が恭しく頭を垂れるのがわかる。
バヴァリア啓明結社こと幻想教団《イルミナティ》の首魁たるコンスタンツォ侯爵。
ヴァイスハウプトの従順な手駒である。
ドイツ帝国の裏社会を掌握したとして西享各国から警戒される組織《イルミナティ》ですら、巨大な《結社》にとっては、無数の計画の構成要素のひとつに過ぎない。彼らの黒く長い手はどこまでも伸びて、あらゆるものを取り込む。
取り込まれたものの生殺与奪でさえも、思うがまま。
かの《イルミナティ》の切り札についても然り。それは、数十年前、エーゲ海の底で捕獲することに成功した一柱、かの暗がりの王と同時期に姿を消した儚き幻想。
存在しないはずのもの。否、存在などしないもの。
かつては人が目にした、否、夢見たであろうもの。
現実ならざるもの。
実在せざるもの。
鋼鉄と蒸気の文明にとって、人類にとっての、幼き時代に夢見た幻想。
──すなわち、神話の時代の残滓であるものか。
──およそ現実ならざる夢まぼろし。
「失ったはずの青空があれを狂わせる。
骨も肉もなき、虚ろのもの、夢まぼろし。哀れなるふるきものよ」
『拡大変容(パラディグム)は間近です。
旧太守公邸の“尖塔”の空間内で、既に拡大を始めています。
空間の許容する体積限界を破るのも間もなくかと思われます』
「素晴らしい」
『1時間後には拡大変容を終えましょう。
我々は自然型《回路》さえ手中とするのです、偉大なるヴァイスハウプト閣下』
教団《イルミナティ》の盟主たるコンスタンツォ侯爵の予想を遙かに超えて、それは拡大し、拡散し、静かに、大多数の人々には決して気付かれることなく、浸透していく。
ヴァイスハウプトに暗示を掛けられた哀れな侯爵は思い至ることもないだろう。
拡大変容なる現象の結果、都市セラニアンが、否、自分の身さえも──
──ヴァイスハウプトは歓喜する。
──この男も、都市も、いずれ時を待たずに消し飛ぶであろうことに。
受肉と“震撼”は果たされた。
シャルノスの王の怒りに触れた“それ”がもたらす原始の恐怖は、あらゆる“水”へと浸透する。恐怖はすべて。すべては恐怖。そして、ひとたび生み出された恐怖を操ることは《結社》の怪人たちが最も得意とするもののひとつ。
仮面の下で、彼は、歓喜に表情を極限まで歪ませる。
あまねく“水”を通じてカダス全土へと浸透する原始の恐怖の怒濤を想像し、彼は、性的快楽にも勝るであろうと彼自身が認識する極限の多幸感に脳髄と意識とを浸し、歯の根を鳴らす。がちがちと。がちがちと。残酷に。残酷に。
──邪悪なまでの。
──人生最高の笑顔を、仮面に隠して。
「ニューヨーク、そして、インガノックに続いて。
世界第3の現象数式実験が開始されるのだ……。素晴らしい、嗚呼、嗚呼!」
『御意』
「嗚呼、嗚呼!
アルトタス=トート=ヘルメース師に栄光あれ!」
〜後編へ続く
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