「M。あなた──」
「黙っていろ。舌を噛むぞ」
目前の“M”へ、あなたへ一言だけを告げるつもりだったのに。その暇はなくて。
先刻の“声”が、何であるのかを知っているか質問したいのに。その暇はなくて。
確かに言葉の通り、水面を疾走する艘はことあるごとに上下に揺れて、危うく舌を噛みそうになってしまうから。なんとか腰を落としながら艘の縁に掴まって、振り落とされないようするのにあたしは、メアリ・クラリッサ・クリスティは精一杯で。
セラニアンを網羅するかのように敷き詰められた水路を艘は進んでいく。
黒の少女に操られながら。
そう。少女。
艘にいたのはあなただけではなかった。
連れ合いらしき黒の少女。誰、なのだろう。レースの装飾も美しい黒の服に身を包んだその少女のことを、あたしは、なぜか、知っている気がして。いいえ違う、あたしの知っているはずの“誰か”に似ている気がして。
似ている。やはり、そう思えてしまう。
ようやく再会したあなたに一言を告げるはずだったのに、あたしは、少女の横顔から目を離すことができなかった。物言わぬ静かな横顔。誰。誰? 名前は何というの──
尋ねる暇は結局のところ僅かもなくて。
一言をあなたへ告げることもできずに、あたしは俯いて。
追跡者たちから逃げるために全力で走ったせいで荒くなった息が、気持ち、治まってきたかしらと思うよりも前に艘は停まり、あたしは『拠点C』とあなたが呼ぶ4階建ての小さなアパルトメントの一室へと連れて行かれていた。階段を昇った2階。人の気配は感じられない。きっと、この建物全体が空き家なのだろうとあたしは思う。
あまりの手際の良さに違和感ひとつ。
知っていたんだ。ああ、もう、ロンドンの時ときっと同じ。
黒色の彼は、現在の事態が起こり、こうなることをわかっていたに違いない。
「こちらの部屋へどうぞ。メアリ・クラリッサ・クリスティ」
「あなた、あたしの名前……」
「立ち止まるな。仔猫」
「……ええ。ええ、そうでしょうとも」
少女に促されるままに、部屋へと入る。
ホテル・リッツの最上階スィートのことを、どうしても思い出してしまう。あの時はいつも自分で扉を開けて、そう、あたしの視界に入ってくるのは赤と黒の軍服に身を包んだあのひとの、背の高い姿だった──
豪奢な部屋に初めは息を呑んで、二度目以降もやっぱり緊張していた。
けれど、今は。視界に入る部屋の様子はあまりに違っていて。
殆ど何もない部屋だった。
あの、背の高いあのひとの姿も在りはしない。
転(コロ)付きの重い旅行鞄を、物の一切置いていない机の脇に立てかけて。
あたしは自然と、黒の少女の顔を見つめていた。瞳を見つめていた。色。あのひとと同じ瞳の色。それはつまるところあなたと同じ瞳の色で。ああ、そうかとあたしはひとつの考えに辿り着く。少女を目にして、見知らぬひとを見た気になれなかった訳に。一体、あたしの知る誰に似ているか、ということに。
ようやく息も治まって、混乱する思考が落ち着きかけてくれている。
そう。そうね、この少女は──
──きちんと思考すればすぐに思い当たることができる。
──あのひとに、似ているのね。
思い出す。あの日、あの瞬間のこと。
闇に閉ざされたロンドンの、昏く深い回廊の果てで消えてしまった、あのひと。
あたしは、何かの言葉を述べようとしたあたしは、けれど、唇を開きかけたままで固まってしまう。簡単に口にしてしまってはいけない気がして、あたしの時間が凍る。
その間にも少女とあなたは何かのやり取りをしていた。殆ど何もない部屋の片隅に置いてある小さな旅行鞄をひとつ取ると、黒の少女へと手渡してあなたは告げる。
「セバス。仔猫を連れて行け。拠点Aだ」
「はい。了解」
「急げ」
「了解。遂行します」
(セバス……?)
その名に違和感をあたしは覚えてしまう。違う。違う、きっとその名は違う。
違和感。違和感。
それでも未だに言葉は出てくれなくて、唇は動かなくて、あたしはあなたを見上げるしかなくて。一言を告げる。それもできない。それだけを考えてこの都市セラニアンへ来たはずなのに、言えない。どうして。わからない。
黒の少女のことが気になるから?
それとも──
だめ。だめ、混乱しそうになる。
あたしの視線を受け止めて小さく頷くあなたへ、言葉を……。
「ドイツ結社どもの追跡は継続中だ。今にもここへ押し寄せる。
お前はセバスと共に先行しろ」
「でも」
「セバス。警戒を怠るな」
「了解」
掠れる声で異議を口にする。奇妙な焦り。ここで言葉を告げないと、もしくは、ここでこの少女のことを尋ねないと、とあたしの意識が緊急を告げるけれど。言葉が出ない。告げると決めていた一言、回廊の闇に消えたあのひとの横顔、ここに在る少女の顔、ここに在るあなたの姿、幾つもの像が脳裏を駆け巡って。
あたしは言葉を告げようと務める。でも。
何れを、何を言うべきか迷ってしまって。
唇が動かなかった。
ただ、ふたりの姿を見つめるだけで──
「行け」
あなたがはっきりとそう言うのが聞こえて。
半年以上ぶりに再会することへの感慨も、言葉も、挨拶も何もなく。
あたしが飛行船の旅のさなかにそう予想していたのとまったく同じに、以前と変わることのない、《怪異》たちの餌として夜のロンドンを駆けていた頃と変わらない風に、あなたは、短くそう告げて──
◆ ◆ ◆
──黒の少女と共にメアリが部屋を出た後。
──Mは、小さく呟いた。
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