──それは、ひとりの王がその玉座から去った後のこと。
──それは、無数に蠢く明日のひとつ。
それを正しく形容する言葉を持つ人間は、もはや“ここ”にはいない。
重機関都市。違う。機関の巣窟。違う。排煙の国。違う。
西欧はロンドンの東南地域でさえ“ここ”には遠く及ぶまい。空を覆う灰色雲を突き刺すが如く並ぶ機関塔、響き渡る機関音。立ち込め、湧き上がる排煙。一切の例外なく空を完膚巻きまでに埋め尽くす排煙、排煙、排煙。
世界、そう、人々の認識する生存園としての領域の中で最も発達した巨大都市。
カダス北央帝国首都(キャピタル)。
固有の名はない。首都もしくは帝都と呼称される。
ひときわ排煙の色濃い“ここ”は、その一角。都市の60%以上を占める大機関区の端にあたる場所である。
音がする。機関音の他に、ひどく高い音。
区画全体を制御する第38中央機関塔からもたらされる合成音声、警告か。
幾人もの作業服姿の男たちが、追い立てられるように走っていく。
避難を勧告する警告音。指定の場所へと即座に移動するよう告げる合成音声に導かれるままに、男たちは走る。大型機関の事故は悲惨だ。爆散する高熱蒸気に巻き込まれれば、まず、命はあるまい。男たちは走る。走る。さほど事態に慣れた風ではないが、非常時の対応が教育されているのか。
ロンドンの霧混じりのものとは異なる、純然たる機関排煙立ち込める街路。
その中央を、悠然と、走り去る男たちの雑然さとは裏腹に歩く男がいた。
ここに住む人間はいない。機関工場群のみで構成された区画においては、帝国法によって規定された時間内に作業員たちが労働するのみだ。住人はいない。
であるにも関わらず、その男は作業服を身につけていない。
──上質な帽子と外套。
──歩行補助のためではなく、紳士の嗜みとして携えられた拵えの良い杖。
背の高い男だった。
周囲を覆う影のために顔かたちはわからないが、男は笑っているようだった。
走っていく作業員たちとは逆方向に、警告音の鳴るほうへ歩きながら。悠然と。
作業員たちはその男を見た。
自分たちとは逆方向に歩いて行く、背の高い男。それは自然なことだった。
区画を担当する中央機関(セントラルエンジン)の指示は絶対だ。帝国法の下に臣民も外国人もすべては平等であって、国家の中枢を担う中央機関群の指示にひとつでも逆らおうものなら、あらゆる人間は処断される。有り体に言えば、殺される。例外はない。市民等級も機関カードの位(レベル)も一切の考慮対象にはならない。中央機関は絶対だ。
そこから放たれる合成音声は、皇帝陛下の玉音にも等しい。
であるのに、背の高い男は警告音声の指示とは異なる歩みを止めようとしない。
作業員たちはそれを目にする。逆方向。指示違反。死。それでも、作業員たちは男を見て驚くこともなく、止めようとすることもない。
彼らがこの男を目にするのは初めてであるはずだ。
見知らぬ人間であるはずだ。
しかし。
しかし。
しかし、彼らは男を見送った。
驚くことも、恐れることも、戸惑うこともなく。
──何故か?
──簡単なこと。それが自然であるからだ。
背の高いあの男。
一度も顔を見たことがなくとも、わかるのだ。わかってしまう。
彼は、いいや、彼こそが《万能》であると。
不可能はない。
だから、彼らは気に留めることさえない。あらゆる《万能》を備えた男の為すことに何の疑問を抱く必要があるだろう。自然なことなのだ。ただ、そう思うだけだ。故に管理警察へ申告することもなければ、中央機関へ申請することもない。家族にすら、この背の高い男を見たことは話すまい。
記憶から消えてしまう訳ではない。
ただ、ただ、目にしたことは自然なことなのだ。
排煙混じりの風が吹きすさぶように、廃液に澱む川が流れゆくように、あの男の為すことはごく自然な“ことがら”に違いないのだから。
──男は歩いて行く。
──排煙の中を、迷うことなくまっすぐに歩いて。
暫くの時が過ぎる。
やがて、男は歩みを止める。中央機関塔から鳴り響く警告音は、先刻よりも大きい。
排煙を赤く明滅させながら染める光は機関式警告灯のものか。
何れかの建造物の内部か。よもや、絶対不可侵である中央機関塔、その第38基目の内部であるのか。どちらにせよ暗がりと呼べる場所で男は静かに立ち止まり、まっすぐに視線を向ける。
充満する機関排煙の中で。やはり、笑顔を浮かべたままで。
年齢はわからない。暗すぎて。
けれど、颯爽とした立ち姿に老いの気配はない。
彼は己が何者であるかを知っていた。
彼は、己の手で何が為せるか、何を為せないか、人の手が何を生み出すのか、西暦1906年の現在に何が生まれ何が生まれないのか、およそすべてを知っていた。彼にとってそれは何も特別なことではない。ごく自然なことなのだ。そう、排煙混じりの風が吹きすさぶように、廃液に澱む川が流れゆくように。
彼は立っていた。
彼は笑っていた。
笑みを隠そうともしない彼の目前に何者かがいる。
それは覆面で顔を覆った人間だ。
さまざまな呼び名を備えた秘密組織、秘密結社、碩学協会。その一員。中級幹部の地位にある人間だ。西享こと欧州のあらゆる闇に潜み暗躍するその組織の名は、英国では、ただ《結社》とだけ呼称される。
その活動は、純然たる合法科学実験から重大な犯罪行為まで、多岐に及ぶ。
覆面の何者かが受け持つ活動は、あらゆる国で合法とは見なされない実験の数々。
覆面の人物は、端的に呼ぶのであれば、そう。
恐るべき犯罪組織の幹部、か。
背の高い男は笑っていた。
あらゆる人智を超越して何者をも害すことのできる巨大組織の上位碩学を前に、久方ぶりに会う親しき知己と再会したかのような、柔らかな表情で。親しみを込めた声で。
「私は寛大だ」
笑顔を絶やさずに男は告げた。
怯える子供をあやすよう、牙を剥いて唸る獣をなだめるよう、静かに。穏やかに。
「けれど私も暇ではない。
アルトタスに率いられたきみたちとは異なり、私たちは数少なく脆弱で、多忙だ」
『であれば何故“ここ”に来たのです?』
覆面の人物が言葉を返す。
くぐもったその声に込められた感情は焦燥か、憤怒か、それとも──
『如何様にして、私の第5次実験場が“ここ”であると突き止めましたか?』
「悲鳴が聞こえたのさ。
助けを求める、乙女の声が」
『ハッ。貴様。貴方の、いいや貴公のことは知っています。目的も。ですが、ですが、ですが、無為なことです。無駄なことです。そうとも無謀なことですとも。貴方はこの私をここへ追い詰めたとでも考えているのでしょうが、それは違う。まったく違う。違うのですよ。私です。私、この私こそが貴様を貴方を貴公をここへと追い込んだのです』
「そうか。ついぞ気が付かなかったな」
『愚かな。なんと愚かな。まさしく愚かなこと。我ら碩学にとってのイコン、赫緑二色の秘本を目にした唯ひとり。音に聞こえし《万能王(ウォーモ・ウニヴェルサーレ)》ともあろう御方が、まさか、まさか、まさかこの程度の知性しか持ち合わせぬとは!』
「まあ、そうだな。私は愚かであるだろう。
けれど寛大だ。実験を、今すぐに止めたまえ」
『言葉。その言葉、身を以て言葉の意味を知るがいい。赫眼ならぬ《万能の人》よ。
貴公の最大の不幸とは、我ら《結社》と歩みを共にしなかったこと。尊く偉大にして無限なる御方であるトートを奉じなかったことです』
深く沈む覆面越しの声に重なって、ふたりの間に立ちこめた澱みと暗がりが蠢く。
何かがいるのだ。影の中に。
音が響く。
音が響く。
重低音。今まさに目覚めの声を告げられた碩学機関(ハイ・エンジン)が駆動音を立てて、排出される煙がゆるやかに立ちこめていた薄靄を呑み込んでいく。何かがいる。影の中から、鋼鉄の外皮と機関の心臓を備えたいびつな“何か”が立ち上がる。
──それは“人形”だった。
──鋼で形成された怪物と呼ぶこともできるだろう。巨怪とも。
都市戦闘用自動機関人形。機関兵器の類に詳しい碩学であれば、それが、カダス地方のインガノック・テクノロジーによって生み出されることを予見された机上の存在であると理解できるだろう。自動人形。戦闘機械。都市殲滅型機関式軽車輌。
西暦1906年の欧州には存在しないはずのもの。ただし、公式には、だ。
それに、そもそもからして“ここ”は、欧州──西享という訳でもない。
全世界最大の機関群の一角。
暗がりの中で、全長10フィートを優に超す殺戮の機関人形が男を見つめる。
赫く輝く瞳で。
薄く濁る瞳で。
「これは……」
『貴公の死。貴方が愚かであるがゆえの罰。貴様への我が断罪。ですが、しかし、だからこそ、せめてもの慈悲に教示しましょう。これこそ我ら碩学協会の手によって精製された人造の、人工の、本当の《怪異(メタ・クリッター)》です。幾多の大計算機関(オルディナトゥール)とクロイツ式《回路》の成し遂げた“かたち”のひとつ。輝く命ならざるもの。動くべかざるもの。生まれ出ぬもの。我々は既に自然型《回路》による太古の幻影どもを凌駕しています。かの暗がりの王でさえ、かの黒き爪と牙でさえ、かの暗き都の主でさえも、これを捕食することは不可能でしょう』
「ありがとう。実に興味深い言葉だ」
男は小さく頷いてみせた。
柔らかく、親しみを込めた笑みを浮かべたままで。緩やかに。
些かも迷うことなく──
「では、私もきみに教えよう。
機関と鋼鉄とが紡ぐ“かたち”の果てが如何なるものか」
──左手を、前へ。
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