──灰色ではない空。
──これを目にするのは人生で2度目になる。
モニカは、1906年型ツェッペリン大型飛行船の客室窓から外を見つめていた。
二等客室の硬い椅子に、もう、何時間座り続けているだろう。お尻が少し痛い。スチュワーデスに淹れて貰った熱々のコーヒーも既に冷め切ってしまっている。
世界中を埋め尽くす機関の群れから吹き出した排煙も、灰色に染め上げられて永久の空を覆う雲も、ここには存在しない。高々度空域に存在する特殊気流こと“空の道”だ。カダス北央帝国の帝国臣民も、西享の人間も、この“道”の存在を知らない。
ただ、ロンドンを始めとする西享の各大都市に存在する“隙間”と“陽差し”から、儚き想像をするのみだ。もしも、世界に本当の空があれば、と。
けれどここにはそれがある。
真実の空。
モニカは、あまり感慨を抱かないようにしていた。
年若くしてP探偵社の正式な調査探偵となった際に、感情の類は仕事の妨げとなる、と1年先輩であるヘンドリクスに告げられたことを今でも明瞭に思い出せる。モニカにとって現在の“相棒”であるヘンドリクスとは、もう3ヶ月以上顔を見ていない。今回、こうして再び単独の仕事に就いてしまったからには更に顔を見れない算段となる。
少し寂しくもあるが、しかし。
──それ以上に誇らしい。
──これほどまでに高いカテゴリーの情報調査は、そう、人生で2度目だ。
与えられた調査内容は、都市セラニアンで跋扈するという《イルミナティ》の実態。
これは、非常に重要な仕事と言えるだろう。
探偵社にとっても、その主な依頼主である合衆国政府にとっても。
湖岸都市セラニアン。
大陸辺境のごく一部では“水の都”の名でおとぎ話に登場している。
この“空の道”で至ることのできる、世界の果ての先に位置する“大辺境”北部の独立都市である。ほぼ全土が人類にとっての未踏域であるカダス“大辺境”にあって、唯一、文明持つ人類が築いた都市である。
カダスの列強国家、北央帝国。そして王侯連合。それらの国々の本土より遠く離れた場所、いわばカダスの辺境地域にセラニアンはある。辺境とはいえ、その広さは人智を超えている。欧州の広さを1の単位とするのであれば、カダス列強の位置する大規模汚染地域はおよそ10、そしてこの美しき空充ちる“大辺境”は100はあるだろう。
アフリカを優に越すと言われるほどの広大さで訪客を迎える大辺境地域の中に、その都市は在る。セラニアン。未踏地域の続く大辺境にあって、唯一、北央帝国の“飛び地”として存在する都市であった。
その歴史は古く、失われた空を目視できる秘匿都市として北央帝国の上級貴族たちに親しまれてきた地だ。現在では一部が機関化し大機関(メガ・エンジン)も稼働しているとが、それでも未だに空は灰色に染まってはいない。
その、歴史ある秘匿都市セラニアンにはびこる闇の力。
碩学的秘密結社《イルミナティ》。
正式な名称は幻想科学教団《バヴァリア啓明結社》といい、西享に於いて特に欧州ドイツでの活動が探偵社の情報ネットワークで確認されている。中世から連綿と続く《黒騎士団》の勢力を一掃してドイツ帝国の闇社会を掌握したと囁かれる、ドイツ貴族コンスタンツォ侯爵の率いる組織だ。
かの巨大組織《結社》こと西方碩学協会とも関係を有する可能性があり、事実、探偵社の調査探偵たちはその証拠も幾つか発見している。無論、公にはなっていないが。
西方碩学協会が北央帝国の中枢を一時的に占拠した3年前の一件以降、カダス地方で暗躍する西享の組織の噂は後を絶たない。新大陸のギャングやマフィアたちも進出を狙っている、という話も以前にヘンドリクスから聞かされた。
むしろ、これまでに行われていなかったことが不自然であるとも。
「……第1の推論。組織同士の暗闘」
迂闊だと思いつつも呟いてしまう。
他に乗客はいない。狭いが、個室型の客室で良かった。
暗闘。それがモニカの第一印象だった。コンスタンツォ公爵を始めとする彼ら《イルミナティ》は“エージェント・M”と呼ばれる西方碩学協会において最高権限を有していた重要人物の排除、すなわち暗殺と、さらには“ある天才碩学の技術を用いて作製された機関人間の確保”というふたつの目的を有している、と報告書にはある。すなわち、組織同士の抗争の一端、であるのだろう。
もしくは、碩学協会から《イルミナティ》が何らかの依頼を受けたか。
既に彼らは北央帝都で何かの工作を行ったらしいが、探偵社の上級探偵たちでさえ、その足取りを掴めてはいない。報告書の備考欄に推論が書かれているが、論拠は乏しく、念頭に留め置く以上の必要性をモニカは感じなかった。
──ともかく。掴めなかった以上は、確かめるしかない。
──現地。セラニアンで。
「何にせよ、久方ぶりのA級カテゴリーの情報か」
『ウム(YES)』
「この僕の手に負えるものだといいが……」
『ムリダナ。ムリ、ムリ(NO,NO,NO)』
「うるさい。って、何をまた喋っている。お前は」
──手元の、携帯型電信通信機ほどの大きさの碩学機関へと呟く。
──ピンカートン特殊調査探偵の証、フェルミ計測機関。
周囲を確認する。人はいない。大丈夫だ。
乗務員が廊下を通った気配もない。
ふう、とモニカは安堵の息を吐く。スイッチを切りたいが、そうもいかない。
これは時折喋り出すのだ、専用の機械で形作られた合成音声で。YESとNOだけ。
とても、とても、気に障る。モニカとしてはこれをまともに使うようなカテゴリーAAA級の情報収集任務に就きたいというのに、未だ、報告すべき計測数値を確認したことはない。今回も、恐らくその機会はないだろう。
可能性があるのなら、自分ひとりだけを向かわせたりはしないはずだ。
「ヘンドリクスは1度だけ計測経験があるっていうけど。
であればこの僕も、そろそろ確認できてもいい頃のはずだが」
『ムリ(NO)』
「……」
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