「……むずかしくて、よくわかん……ない……」

 ぽふっ、と。
 あたしはくるりと彼に背中(と後頭部)を向けて、枕に頬をくっつける。

 彼。Aの顔、見たくないとかじゃないけど。
 ちょっと、灯りが眩しかっただけ。
 ちょっと、もう、眠くて、重い瞼には橙の優しい灯りもきつくて。

 嘘じゃないよ。
 でも、本当は、もうちょっとだけ理由があるんだ。

 難しいことばっかり言ってあたしをどんどん眠くさせるAが、途中から、手元で開いてる本をちっとも見ずにあたしの顔をずっと見てたから。このままだと、Aにぜんぶ見られちゃうと思って。眠りに落ちる瞬間まで、じいっと見つめられるなんて嫌だ。
 何されるかわかったものじゃないし。

 うん。
 うん。
 だからあたしはくるりとなって、ぽふっとなる。彼に背中を向ける。
 だってさ、前、眠くて、眠くて、ああもうこれあたし寝ちゃうな──って思ったけど、頑張って、ちゃんとおやすみを言ってからにしようって、瞼を開けてAの顔、見ようとしたら。そしたら。
 唇が──
 唇に。

 キスしてたんだ。A。
 あたしに。

 キス。キスだよ!
 信じられない!

 眠ってる時にそんなことするなんて、だ、だ、だめだ。
 だめでしょ?
 だめだよね。
 だめ……。
 だよね……?

 だめ……。
 だと思う……。

 だって、眠ってるんだよ、あたし!
 だめだめ。
 だめだめ。
 そういうの、良くない。
 良くないよ!

 あたしがどれだけ怒ってもAはけろりとしてたけど、してたから、こうして、眠くなったら背中向けることに決めた。これならAだって悪戯できないもの。うん。

「リリィ。眠るのかい」

「……うん」

「すまない。話が脱線してしまった。
 夢の話は、また明日にしよう」

「……」

「反省している。
 きみの疑問や不安への回答にならなかったことに」

「……Aのせいじゃ、ないよ」

「僕はメスメル学に基づく学説だけを語るつもりだった。
 そのはずが、脱線してしまった。すまない。少しだけ、不調のようだ」

 ──え。

「……具合、悪いの?」

 


 




 

 


 ──眠りかけた意識が醒めかける。
 ──眠くて眠くて、もう、今にも瞼が閉じそうになるけど、それでも。

 そんな話を聞いたら眠れないよ。
 体、重くなって、どんどんあったかくなって、眠ってしまいそうでも。
 きみが具合、悪いなら。
 あたし、眠ってなんていられない。

 あたしたち、ふたりなんだよ。
 空を駆ける1輛だけの地下鉄の「部屋」にいるのは、あたしときみのふたりなんだ。
 ようやく、最近はきみのお手伝いをしてお掃除したりもするようになったけど、だいたいのことは今もきみがひとりでやってる。きみと、地下鉄が。
 あたしが風邪を引いて、熱を出した時も。
 きみが看病してくれた。

 だからさ。
 だから……。

 もし、きみが、具合、悪くて……。
 もし、風邪とか引いたなら……。

 もし、困ってるのなら。

 あたしに言って。
 あたしに頼ってよ。
 あたし、頼りないかも知れないけどさ。

 あたしの我が儘、いつでも訊いて、
 こんな夜遅くまで、家庭教師、しなくてもいいんだよ。

 いいんだよ。
 あたしに、もっと言って。して欲しいこと、して欲しくないこと、言って。

 きみは、いっつも文句も言わないんだから。
 きみは、いっつも同じ顔で、声なんだから。

 あたしはちゃんときみの顔を見ないとわからないよ。
 わからないんだよ。
 なのに、きみ、あたしをすぐにからかうから、こうして、ほら……。

 背中向けて──

 肝心な時に──

 気付けない──

「……A、もし、風邪、とか、ひいてるなら」

「いや」

「……え、えと、あの、ね。あたし」

「いや」

「……あたし、きみに」

「いや。ああ、誤解させたならすまない。
 僕はこの書籍を読んで以来、どうやらきみへの家庭教師役が不調のようだ。
 エレナ・ブラヴァツキー著の『シークレット・ドクトリン』というオカルティズムに溢れた書籍で、本来なら一笑に付すところだが、これが実に興味深い。きみの家庭教師として知識を語っているつもりが、つい、神智学的な見地からの解析を口にしてしまう」

 ……。

「リリィ」

 ……。

「リリィ。眠ったのかい」

 ……。
 ……。

 …………。
 …………。

 不調ってなに、なにそれ!
 具合悪いんじゃないじゃない!

 新しい本を読み始めたせいで気もそぞろってこと!?
 な、なな、なにそれ!
 なにさ!

 ふんだ!

 ああ、もう、知らない。知らない!
 もういいや。いいもん。
 瞼を閉じよう。眠っちゃえ。Aのことなんて知らない。
 どうせ、あたしがどう考えてたって、Aは変わらずにあたしを見てるんだ。

 どうせ……。

 ふん、だ……。

「リリィ?」

 知らない……。

「おやすみ。リリィ」

 

 ──ふん、だ。