「今日は、かなり酒の匂いがするな。呑みすぎるのは問題だ。肝機能の再生の数式は体力を消耗させるし、酩酊のもたらす判断力の低下は、容易に死を招く」


















 

「……」

 あれ。何これ。
  アパルトメントの鍵をこっそりと開けて、物音のない寝室へと入り込んで、まだ眠っていなかった──そもそもきみはあまり眠ることがないけど──きみの出迎えの言葉は、珍しいことに、小言で。

 きみはあんまり饒舌に喋るほうじゃないのに。
  あたしは、つい、黙ってしまう。

 そんなに酒臭いかな、あたし。鳥と別れてここへ向かってくる途中、気分を変えようと別の店へ入ってカルヴァドスのボトルを何本か空けたのがいけなかったかな。
  あれ。何本呑んだんだっけ。
  嫌だな、あたし、さっきの記憶がぼんやりしてる。

 ──記憶が混ざる。
 ──酒精があたりの頭の中をぐるぐるとかき混ぜる。

『きみが死ぬところだったのだから、きみ自身がもっと危機感を抱くべきだと僕は考える。わかっているのかい、アティ』

『……』

 ──前にも、こんな風に小言を言われたっけ。
 ──前にも、あたしは押し黙って。

 そう、あれは2年前のこと。ベアリング社の厄介ごとに巻き込まれた最初の頃、妙に口うるさいきみに、あたしは腹を立てたっけ。獲物を横取りされたような気になって、ううん、きみやスタニスワフがあたしを無視して裏で事を進めようとするものだから、あたしは怒って。
  あの日の倉庫で、きみの背中を引っ掻いで。
  あの日の夜明け、うんと意地悪をして。

 きみは文句のひとつも言わずに、されるがままで。あたしはだんだん申し訳ないような気持ちになって、仕方がないから許すことにして。
  今にして思えば、きみに、してやられた。
  もう少し意地悪をしてあげればよかったと思う。

 あの時は、まさか、きみがあんな風に無茶をするなんて考えもしなかった。戦闘行為なんてからきしの、数秘機関(クラック・エンジン)を埋め込んでもいなければ、攻撃用の現象数式だって使えないきみが、荒事みたいな真似をするなんて。あの時が、最初で最後。

「聞いているのかい、アティ」

「うるさいなぁ」

 ──2年前も、こう答えた。
 ──今は、きみはどう言うのかな。腹を立てる?

「ともかく。自制はしたほうが良い。酒とドラッグは、都市で生きるには足枷になることが多い。アティ」

「……うん」

 ──2年前を、思い出すから。
 ──あたしは口答えするのは、ひとまず止めておいた。

 あんな無茶をもう一度したら、きみは死ぬよ。どうしてあの時きみはああしたの。どうしてベアリング社の闇売買なんてものを追おうとしたの。とびきり強い《荒事屋殺し》があたしを襲った時、どうして助けたの。あたしは訊かなかったね、あの時は。2年前は。

 あれから2年の間に、きみは元通りになったね。
  危ないことはしなくなった。

 だからあたしも尋ねない。
  なぜ、きみがああしたのか、なんて。うん。忘れよう。覚えていたっていいことはない。あの、嫌な青白い顔も、気味の悪い《氷》の奴だって、どうでもいい。

 きみの気まぐれをあたしは問わない。
  気まぐれ。そうでしょ?

 そうだと決めた。それ以上は考えない。考えたらいけないと、あたしの奥底であたしが言うから。視界の端で踊る道化師のことを、忘れなければいけないのと同じ。

 ──そうだよ、ギー。
 ──この都市で生きるには、酔わせるものは足枷だから。

「……寝る」

「前に、新しい寝床を用意したと言ってなかったかな」

「用意したけど、荷物で埋まったの。
  服とか、諸々で。
  棺桶宿(コフィン)を長期レンタルしただけだから」

「そう」

「そうなの」

「では、おやすみ」

「おやすみ、ギー。……って、きみも眠りなよ」

「僕は」

「僕は、じゃないよ」

 まただ。またこの調子。
  放っておくと、変わり者の、巡回診療だなんて何のシリングにもならない仕事をするきみは、眠ろうとしない。食べようともしない。そうする欲求を司る部分がどうのこうのときみは言うけれど、眠らなければ、食べなければ、死ぬよ。
  きみに、死なれたら困る。きみだけなんだから。

 ──きみだけなんだから。
 ──あたしが、寝床にできるベッドの持ち主は。

 ──そう。
 ──そうだよね、ギー?

 あたしは、きみの手を引いて。ベッドへ無理矢理に横たわらせる。何か言おうとするきみの唇に、指を当てて。
  寝ないと引っ掻くよ、と声に出さずに唇で言って。

「おやすみ。ギー」

「……おやすみ、アティ」

 なんとか、きみに、眠ることを了承させる。
  明日は起きたら何か作ろう。こんな風に大きく変異した手じゃ、料理は苦手だけれど。そろそろ、無理矢理にでも食べさせないときみは倒れるだろうから。
  きみに、死なれたら困るから。

 それだけだよ。
  本当に、ただ、それだけなのさ。
  黒猫は気まぐれだから。明日には、そんなこと、思わなくなっているかもしれないけど。でも、今は、そう思う。

「灯り、消すよ」

「ああ」

「ギー」

「何だい」

「おやすみ」

「ああ。おやすみ」

「ちゃんと寝ないと、明日ひどいからね」

「善処するよ」

「うん」

 ──灯りを落として。
 ──あたしは、きみの上に横たわる。

 ──そっと寄り添う。
 ──今夜は、少し、ほんの少しだけ寒いから。


 



[sekien no inganock -what a beautiful people-] Liar-soft 21th by Hikaru Sakurai / Ryuko Oishi.
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