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「お久しぶりです。老師」 「この儂を騎士殿が訪ねるとは。珍しいこともある」 大きな大きな猫が穏やかな瞳を騎士へと向けます。イル老師さま。まだそう呼ぶ人は少ないけれど、まだ《復活》の爪痕が色濃く残る都市にあっても、老師さまは泰然として、問いかける人に何かを答えてくれるの。 1度目に会ったのは、王さま……大公爵さまの現象数式実験成功の発表があった時。だから、この時から1年前。その時はまだ、数秘機関は影も形もなくて、騎士の体の中も鋼ではなくて、皮膚も合成された硬いものではなくて、彼は騎士でなく、彼そのものでした。 あの時に比べると彼は変わりました。 でも。わかるのです。 「いいえ、老師。その名は捨てました」 「では、今は何と言う? 「クラック・クロームと。今はそう名乗っています、老師。 「数式使いの鋼(クラック・クローム)か」 「……001号試作上層兵、と呼ぶ者もありました」 成功する確率は1%よりも低いと言われた、数多くの数秘機関の埋め込み手術。それを、路地の騎士がどうやって行ったのか、多くの人は知りません。 彼は── 他にも、彼と同じことをした人はいました。 ……たったひとり。 「では騎士殿。上層に仕えるつわものどもの礎となったきみ、クラック・クローム。儂からきみにひとつ尋ねよう。きみの用向きは今や不要だ。だから、尋ねる」 「はい」 「なぜ剣を振るう?」 「……人は言います。人を守るため、下層を人間の手に取り戻すため、路地の騎士は化け物どもを駆逐するのだと」 「なぜ?」 「……」 「なぜだね? 「……あなたも、彼女と同じことを言うのですね。老師」 そう言うと、騎士は老師の元を離れました。 ゆっくりと。 瓦礫があちこちに姿を見せる都市を歩いて。 拭い去ることのできない、現実が、騎士の目の前に。 それは黒ずんだ何かの痕です。 炎に灼かれたか。 それとも……。 確かなのはひとつだけ。たったひとつ。 遠くに見える小さな影は、瓦礫の破片ではなくて。 「……また……」 騎士の声は枯れていました。 「……間に合わない。俺が、何をしても」 騎士は、右手に握り締めたままの人形を投げ捨てました。 「……何も変わらない。俺が、何をしても」 “──だめ! 背後の“彼女”の叫びは、届いたはずでした。けれど、その瞬間、騎士は剣を抜いていました。 それはとても自然に、逆さにしたコップから水がこぼれ落ちてしまうのと同じように。簡単に。路地の騎士といつしか呼ばれ、いつしか人々がそう願う通りに剣を振るい、戦ってきた騎士は、クラック・クロームは、壊れてしまった。 こころが。 騎士は、ひどく荒れ狂うひとつの嵐となりました。 止まらない。 「俺は」 “──叫び声は” 「誰も」 “──灰色の空へと消えて” 「何も」 “──仮面の誰かの落胆を呼ぶの” 『さあ』 “──囁くように” 『あきらめる時だ』 “──惑わすように” 『クラック・クローム。 “──そう言うの。 背後の“彼女”の声は、届いているはずなのに。 黄金螺旋階段。 「……ここ、は……」 そこは、黄金色の螺旋階段。 “──あなたは。 背後に佇む“彼女”はそう言ったけれど、騎士は耳を傾けませんでした。見てしまったから。黄金色の螺旋階段を、その先にあるものを、騎士は見てしまったの。 輝けるものがここにある。 “──でも。 背後の“彼女”は、その瞬間、消えてしまって。
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