「ご機嫌よう、騎士殿。久方ぶりだ。どうやら以前に会った時よりも鋼を増やしたようだ。現象数式実験成功の報から1年ばかりで、まさかこうも、体に鋼を埋め込むすべが作り出されるとは。最早この老いぼれ猫は驚くのみだ。おや、ところでその手に持った人形のようなものは何かな?」


















「お久しぶりです。老師」

「この儂を騎士殿が訪ねるとは。珍しいこともある」

 大きな大きな猫が穏やかな瞳を騎士へと向けます。イル老師さま。まだそう呼ぶ人は少ないけれど、まだ《復活》の爪痕が色濃く残る都市にあっても、老師さまは泰然として、問いかける人に何かを答えてくれるの。
  騎士である彼に対してもそう。
  彼は、この時、老師さまに会うのは2度目でした。

 1度目に会ったのは、王さま……大公爵さまの現象数式実験成功の発表があった時。だから、この時から1年前。その時はまだ、数秘機関は影も形もなくて、騎士の体の中も鋼ではなくて、皮膚も合成された硬いものではなくて、彼は騎士でなく、彼そのものでした。

 あの時に比べると彼は変わりました。
  骨も、筋肉も、お腹の中身もすべて入れ替えて、外から見てもまるで別人になってしまったの。
  騎士に、なったのです。

 でも。わかるのです。
  老師さまはすべてをわかって、一目見て、彼が誰かわかって、彼の名を呼びました。1年前に彼が名乗っていたそれを。
  けれど……。

「いいえ、老師。その名は捨てました」

「では、今は何と言う?
  そろそろ儂もきみを騎士さまと呼ぶべきかな」

「クラック・クロームと。今はそう名乗っています、老師。
  騎士なるものを私は称したことはありません」

「数式使いの鋼(クラック・クローム)か」

「……001号試作上層兵、と呼ぶ者もありました」

 成功する確率は1%よりも低いと言われた、数多くの数秘機関の埋め込み手術。それを、路地の騎士がどうやって行ったのか、多くの人は知りません。

 彼は──
  彼は、自分の体と命を売り払ったの。逞しい意思の力で復興しようとする、後に都市最大の巨大企業となる碩学さまの研究所に、彼は自分を実験素体として売ってしまったの。大公爵さまの主催したというその研究所に、体の何もかもを捧げて、そして、力を得たの。

 他にも、彼と同じことをした人はいました。
  数人?
  それとも、数十人、数百人……。

 ……たったひとり。
  彼だけが力を得て、生き残り、騎士になりました。

「では騎士殿。上層に仕えるつわものどもの礎となったきみ、クラック・クローム。儂からきみにひとつ尋ねよう。きみの用向きは今や不要だ。だから、尋ねる」

「はい」

「なぜ剣を振るう?」

「……人は言います。人を守るため、下層を人間の手に取り戻すため、路地の騎士は化け物どもを駆逐するのだと」

「なぜ?」

「……」

「なぜだね?
  人はそう言うかも知れない。だが、それは大した問題ではない。きみはなぜそうする。その剣は何のために、その体は誰のために」

「……あなたも、彼女と同じことを言うのですね。老師」

 そう言うと、騎士は老師の元を離れました。
  老師が仮の住処としていた上層階段公園から離れ、ゆっくりと層プレートの階段を下りてゆきます。まだ、都市モノレールは姿形もありません。その時、人間はまだ僅かな部分しか生活できる場所を持っていませんでした。都市の殆どは幻想生物やクリッターのものだったから。

 ゆっくりと。
  ゆっくりと、人形を握り締めながら歩いて。

 瓦礫があちこちに姿を見せる都市を歩いて。
  やがて、騎士は第6層へと辿り着きます。そこは、第1層や第2層のように比較的復興の進んでいる層とは違い、先ほどの第8層とそう変わりません。数多くの瓦礫、廃墟。人の気配はなく、どこかに低く唸る幻想生物の恐ろしい声が響いて、クリッターのもたらす恐怖の跡が風を動かして。

 拭い去ることのできない、現実が、騎士の目の前に。
  昨日歩いた時にはなかったものが、そこに。

 それは黒ずんだ何かの痕です。
  それがたくさんの血の痕だということを、彼はもう知っています。あの《復活》の日から数えて、一体幾つこれと同じものを見たかわかりません。だから、わかるの。

 炎に灼かれたか。
  それとも、切り裂かれてしまったのか。

 それとも……。
  それとも……。

 確かなのはひとつだけ。たったひとつ。
  今日、ここでまた誰かが死んだのだろうということだけ。
  生活の領域として人間が辛うじて確保することのできた場所まで、ほんの数分の近さなのに。ここで、誰かが、襲われてしまった。

 遠くに見える小さな影は、瓦礫の破片ではなくて。
  それは、きっと、誰か。
  昨日には生きていたはずの、そう、誰か。

「……また……」

 騎士の声は枯れていました。
  きっと、涙も。

「……間に合わない。俺が、何をしても」

 騎士は、右手に握り締めたままの人形を投げ捨てました。
  地面に残された黒色の痕へと。

「……何も変わらない。俺が、何をしても」

“──だめ!
 ──だめ、クラック・クローム!”

 背後の“彼女”の叫びは、届いたはずでした。けれど、その瞬間、騎士は剣を抜いていました。
  叫び声を上げながら、最後の涙を絞り出して。

 それはとても自然に、逆さにしたコップから水がこぼれ落ちてしまうのと同じように。簡単に。路地の騎士といつしか呼ばれ、いつしか人々がそう願う通りに剣を振るい、戦ってきた騎士は、クラック・クロームは、壊れてしまった。

 こころが。
  粉々に、砕けて。

 騎士は、ひどく荒れ狂うひとつの嵐となりました。
  その日、その時、第8層の一角はあっという間に崩れ去りました。叫びと一緒にもたらされた剣が、そうしたの。その時、背後に佇む鋼の“彼女”の声は、確かに響いていたはずなのに。でも、でも、騎士には届きませんでした。

 止まらない。
  止められない。

「俺は」

“──叫び声は”

「誰も」

“──灰色の空へと消えて”

「何も」

“──仮面の誰かの落胆を呼ぶの”

『さあ』

“──囁くように”

『あきらめる時だ』

“──惑わすように”

『クラック・クローム。
  きみは、何ひとつ手に入れることはできない』

“──そう言うの。
 ──だから、お願い。その手を止めて”

 背後の“彼女”の声は、届いているはずなのに。
  彼は止まりません。
  荒れ狂うままに剣を振るい、壊し、切り裂き、さ迷う騎士は、やがて、ひとつの場所へと至りました。ほんの1秒前までは第8層の瓦礫の中であったはずなのに、違います。まったく違う場所です。

 黄金螺旋階段。
  暗闇の中にそびえ立つものの中腹に、騎士はいました。

「……ここ、は……」

 そこは、黄金色の螺旋階段。
  それは何処にあるのか。この階段は何であるのか。騎士はまだ、その意味するものを何も知りません。

“──あなたは。
 ──ここで、あきらめてしまうの?”

 背後に佇む“彼女”はそう言ったけれど、騎士は耳を傾けませんでした。見てしまったから。黄金色の螺旋階段を、その先にあるものを、騎士は見てしまったの。

 輝けるものがここにある。
  そう、思ってしまったから。

“──でも。
 ──でも、本当は、あなたは”

 背後の“彼女”は、その瞬間、消えてしまって。
  そして……。

 

 







[sekien no inganock -what a beautiful people-] Liar-soft 21th by Hikaru Sakurai / Ryuko Oishi.
TOPPAGE / STORY / KEYWORDS / CHARACTER / VISUAL / DOWNLOAD / EXIT(LIAR HP TOP)