湖を一望する旅館、銘庭園の露天風呂。清香は湯のゆらめきに身をまかせ、旅行気分を満喫していた。夕食も豪華とはいいがたいが美味かったし、宿泊客が少ないせいで館内は静かだ。いまもここは、彼女の貸し切り状態だった。
「はぁ……極楽。みんなには悪いけど、出張だし少しはいいわよね」
いまごろ聞き込み捜査に靴をすり減らしているだろう同僚に悪いと思わないわけではないが、田舎の夜は早い。午後7時をまわると、店はバタバタと閉まっていく。8時過ぎまで開いている商店や飲食店は、数えるほどしかない。
結局、本格的な捜査は明日からということにして、リカルドにこの宿を紹介してもらったのだった。
「……といっても、どこから手をつけたもんかしらねぇ」
──簸川朱音は家族に殺された。
そんな不確かなタレ込み電話一本で、簸川家の人間を容疑者扱いもできない。そんなもの、イタズラ電話である可能性の方がずっと高いのだし、清香がわざわざここまで来たのだって、むしろそれを確かめるためのようなものだ。
簸川朱音の死は事故死ということになっている。自宅の風呂場で足をすべらせ、頭部を打ちつけて気絶したまま、湯船で溺死したらしい。
『──そりゃあ、ちょっとできすぎな死に方だと言われたら、そうかもしれませんけれど』
昼間のリカルドとの会話が思い出される。
『簸川朱音は、長いこと精神を病んでいました。日常生活でも家族の介護が必要なほどだったのは、多くの人が知っています』
ちょっとしたミスから、そうした事故が起こる可能性は否定できない。
『第一発見者は、夫の簸川健昭。三十分ほど買い物に出て、帰宅したときにはもう──ということです。救急車を呼んで、病院に運ばれた時には、心停止状態でした』
朱音の家族構成は、彼女をいれて4人。夫の健昭と、長男の五樹、長女の樹里。
『連絡を受けて、学校に行っていた子供たちもすぐに病院に駆けつけていますが、到着を待たずに医師の死亡宣告が出ています』
とうかんもりには、簸川健昭の兄とその家族が住んでいる。簸川家としては、そちらの方が本家筋にあたるのだそうだ。
ただ、タレ込みの電話は“家族”と言った。なら対象は朱音の夫と子供たちの3人ということか。別々に住んでいる親戚を、家族とは呼ばないだろう。
「ま、なんにしたって明日からよ、明日から」
あまりにも情報が少なすぎて、いまは悩むのもバカらしい。なにしろ清香は、朱音を含めて簸川家の誰の顔さえ知らないのだ。容疑者でもないし、リカルドだって写真一枚持っていなかった。
「とりあえず会ってみれば何かわかるでしょ。怪しいとか怪しくないとか」
気楽につぶやいて、清香はふと考え込む。そういえばこの捜査、どこまでやったら帰っていいんだろう。
家族の誰かが犯人なら、それを立証して、そいつを捕まえれば終わりだ。でもそうじゃなかったら、朱音の死は事故死だったという確たる証拠をつかむまで捜査を続けるんだろうか。
「課長ったら、ちゃんと解決するまで帰ってくるなって念を押してたけど……“ちゃんと”って、どこまでの“ちゃんと”なのよ?」
自分が厄介払いされたのでは──という思考は、このお気楽刑事の頭には、まったく思い浮かばないようだった。
「いーかげんよねー、課長も……ん?」
誰もいないのをいいことに、岩風呂の中でばしゃばしゃと水しぶきをあげていた清香は、ふと自分の背後にある壁を見た。
木の板を打ち立てて、ヨシズをたてかけただけの簡単な造りで、その向こうは男湯のはずだ。
「……気がつかなかったけど、ずいぶん低い壁ねえ」
あのリカルドあたりなら、背伸びするだけでこちらを覗けるんじゃないだろうか。そんなことを考えているうちに、彼女の悪い癖がムクムク頭をもたげてくる。
「……うふ」
清香は湯船からあがって、スキップするように壁に近づいた。手近な岩に飛びのって、ためらうことなく向こう側をのぞきこむ。
「ちぇっ……やっぱり誰もいないか」
男湯は閑散としていた。もともと人の気配はなかったし、そうであろうと思っていたが、清香の顔に落胆の色がうかんだ。
「つまんないなあ……」
他に面白いものは……と見回すと、男湯の仕切りとは反対側に扉がある。おそらく従業員用のものだろう。
こちらは近づいて開けてみると、鍵もかかっていない。大胆に押し開けて進むと、ボイラー室の前を横切り、そのまま宿の裏口へつながっていた。これまた、覗き屋でもいれば簡単に忍び込めるようないいかげんな造りである。
「裏口から、そのまま表の通りに出られるのね」
清香はふむ、とうなずいた。
「そういえば、寒くなってから夜の散歩もご無沙汰だったし……行ってみようかな」
脳天気そのものだった笑顔を、瞬時に妖艶な笑みにかえ、清香は裸のまま、タオル1枚もたずに表通りへ身をおどらせた。
これが彼女の困った癖だった。
簡単に言ってしまえば露出趣味である。裸で散歩、下着をつけない、スカートが短い……などというのは序の口。人前ですぐ脱ぎたがるわ見せたがるわ、聞き込み捜査で悩殺攻撃、取調室でお色気攻撃などなど、とにかく時と場所を選ばずにやりすぎて、現在では警察当局第一級危険刑事としてあちこちで勇名を馳せている。
そんな彼女が免職されない理由は、まあ警察もいろいろ大変なんだよ……ということで、ここで多くは語らない。
とにかく普段は真面目で正義感も強い彼女だが、何かの拍子にスイッチが入ると、そこにいるのはただの──否、かなりヤバめな、痴女となってしまうのだ。
いまも、浴場から外へ出られる道がある──と知った瞬間、そのスイッチが入ってしまった。
こうなるともう、彼女は止まらないのだった。