──正直なところ、現実感がないのが本当だった。
 見覚えのない“ここ”がどこなのか、一体“いま”がいつなのか、きちんとした実感を得ることが物理的にできない状況に置かれていることを、アーシェリカ・ダレスは認識さえできていなかった。
 ここの水が綺麗ということはわかる。顔を付けても大丈夫、透き通った水。
 ただ、ここの木々や空のことはわからなかった。多分、大好きな親友たち──メアリやシャーリィもそうだと思う。木々の色も、空の在りようも見えているはずなのに、よくわからない。視覚情報を認識できないのか、そもそも光学的見地から既にずれているのか、はたまたそれ以前の問題であるのかは明言しないでおこう、とか、愛するハワードの知己だという赫い瞳をした紳士から言われたのはいつのことだったろう。昨日? 今日?
 わからない。
 時間の感覚がないのだから。耳の奥でチク・タクと何かを刻む音が聞こえるような気はしても、それを認識することもできない。
 違和感と、現実感の喪失を抱えながら、今日もアーシェは微笑む。
 一緒に“森”へと歩く、目前の少女に向けて。



「よーし、今日もがんばろー!」
「お〜」
「えっと。これから行くのはどういう場所なんだっけ」
「森の向こうの遺跡ですよ。きっと、みなさんが元の世界へ帰る手掛かりがあると思います」
「元の世界……」
「?」
「う、うん。元の世界に戻る、んだよね」

 世界。元の世界?
 この親切な少女のことは大好きだけれど、アーシェリカは、具体的に何を言われてるのか実はさっぱりわからないのだった。世界。何の話だろう。文学や神話哲学の話をされているのだとしたら、その辺りの興味も造詣もアーシェには欠落していて、知識が足りなくて、もう、ちんぷんかんぷん。数学や化学式の話ならわかりやすいのに。
 ただ、何もしないままじっとしてはいられなかった。
 事態に戸惑ったまま佇むことは、しない。それは、いつか、アーシェの親友のひとりが身を以て教えてくれたことだった。仔猫が落ちたテムズ河に、機関廃液で汚染されきった黒い水へと迷うことなく飛び込んだあの娘。大好きなメアリ。何かを諦める必要なんてないのだということを、幾万の言葉ではなく、たった一度の行動で示してくれたメアリ・クラリッサ・クリスティ。
 だから、アーシェリカ・ダレスも迷わない。
 たとえば、時間の前後さえはっきりしない夢の中にいたとしても、アーシェリカ・ダレスは努めた行動的な少女のままで在ろうとしていた。



「よっし。遺跡に何かありますよーに!」
「ありますように、ですね!」
「うん!」
              ◆           ◆           ◆

 ──恐らくこれも、クリッター・ケースなのだろう。
 荒事屋(ランナー)、黒猫のアティはそう考えていた。
 人間の神経系を浸食し幻覚を見せるクリッターは、数少ないが実在する。忌々しき《復活》から10年を経た異形都市インガノックにおいて、クリッター災害の記録の多くは公開情報として設定されていて、簡単な都市管理部への手続きで閲覧することができる。しかしそこにはクリッター・ボイスと呼ばれる恐慌/恐怖以外の浸食系能力の情報は存在しない。ならば、一体どのようにしてアティは、現在の自分たちが置かれている状況をクリッター・ケースと認識したのか?
 通常とは異なる型の“人間の脳/意識が侵される”クリッター災害の実在をアティが認識したのは現在よりも4年前。インガノック歴6年。都市摩天楼に名高い《白黒凶手》ことウーナと一緒に、第2層の研究施設へ襲撃(スラッシュ)をかけた時のことだった。都市管理部の公開情報には記載のないクリッター・マリオネットについて、ウーナは言葉少なに語っていた。曰く、夢とも現実ともつかない妙な幻覚を強制的に植え付けられて、気付けば数日が過ぎている、とか。


「……その類なのかな」
「あり得る話だ」
「じゃあ、こうして話してるギーもあたしの見てる幻覚?」
「可能性は否定できないが」
「ふうん」

 まじまじと、自分と話している相手をアティは見つめる。
 巡回医師。変わり者。狂人、とか言う奴もいる。顔色の悪い、ギー。
 いつもと変わらなく見える彼の顔。けれども、周囲の状況は何かが変だ。自分たちが生きているはずの異形都市インガノックと“ここ”は、違う。空気の匂いが違う。張り詰めるものがない。何よりも、異なる空と太陽を認識できればアティも自分の考えに何らかの回答を得たかも知れないが、黒猫もまた、ここの空を認識することはできなかった。
 何処からかチク・タクと音が聞こえる。
 けれども、その音は、視界の端の道化師の姿に良く似ていて、意識や認識からは外すようにアティは努めていた。自分にだけ見える/聞こえる狂気など状況の把握に必要あるはずもない。そういうことをする奴から、死んでいく。



「何だろね。変なの」
「きみの脳は強化されている。僕も、大脳変異を起こした身だ」
「それが?」
「僕らが、ただの幻覚などを見るはずがないのさ」
「じゃあ、どういうのさ。疑似感覚装置(シムセンス)とか?」
「……そういうクリッターも、いたはずだ」

 だから。恐らくこれも、クリッター・ケースなのだろう。
 アティは緩みそうになる気を引き締める。チク・タクと鳴る音は、まるで、今だけは何にも 警戒する必要がないのだと、自分たちの周囲に見える“まるで10年前にはあったおとぎ話のような”牧歌的な景色の村の穏やかさに身も心も浸って良いのだと告げているかのよう。事実、これが幻覚の類ならそうなのかも知れない。
 ただ、そうするには、アティはあまりに長く荒事屋で在りすぎた。
 緊張感を解いたりはしない。
 そうだ。だから、あの子、薄赤色の瞳をしたキーアが「まわりを見てくるわ」と言った時にも、ルアハを護衛につけておいた。大丈夫。油断はしていない。
 けれど──

 けれども、このぼやけた感覚は何だ。

 たとえば今は──
 インガノック歴10年の、何月、何日だったのだっけ?

              ◆           ◆           ◆
「時間感覚が正確ではないのは、当然とも言えるだろう」
「?」
「??」
「まずは、言語の問題がある。アスル、きみが喋っているのは?」
「砂漠語です」
「妾も…あたしも、そうです」
「ふむ。私は今は英語を喋っているつもりなんだがね」
「あっ」
「あ──」
「黄金の姫。きみが現在稼働させている思考言語は?」
「はい、砂漠語です」
「その通り」
「でも、ここのひとたちは」
「砂漠語を話している訳では、ないのですね」
「そう。彼らの文法は砂漠語や帝国公用語に似ているが、似ているだけだ」
「僕らが今いる場所と、言葉と、どういう関係があるのかな…」
「見る限り“ここ”はカダス大辺境のどこかのように思えます。自然は豊かで、機関排煙による汚染も測定できません」
「その通り。つまり。言語も場所も、時も、拘るべきではないということだ」
「?」
「?」
「たとえば。そう、幻であるとかね」
「ここが、ですか?」
「幻覚を視ているはずはないと、思います。そう認識できます」
「いいや。ここが、ではないよ、私たち自身が、さ。たとえばこの土地で言われる“異邦人”なる存在のすべて」
「でも、僕はここにいます」
「あたしも、アスルと、一緒です」
「その通り。ならば、やはりそういうことなのだろう」
「?」
「?」

「まずは、きみたち自身がその目で見て感じ取るべきことだ。少年よ、少女よ、惑うことはない。きみたちにはすべてが許されている。すなわち」

  青空の下で彼は言いました。
 カダスならぬ異境もしくは異界もしくはうたかたの夢の空の下で、たとえば、嘆きの壁を越えて見つめる虚空の黄金を背にした誇り高き雷電の戦士のように。



「──お楽しみは、これから。だ」


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