一・五条大橋の怪物
◆ ◆ ◆
││颶風が、五条の河原を打ち砕いてゆく。
有り得ざる光景が繰り広げられていた。
伊庭八郎は己が視界を埋め尽くす悉くを疑わずにはおれなかった。是は確かな実体を以てもたらされる物なのか、それとも眠りのもたらす夢が見せる幻であるのか。
己が身は幽明の境に居るのではないか。
そう思わせるだけの驚異が、今、此処に。
まずは、巨体が在った。
有翼の人型。護法魔王尊、鞍馬の御山の破邪顕正。
先刻、耳にした名││暗密天颶(くらまてんぐ)か。
其は神仏妖異の具現なりや。
八郎は圧倒された。夜の中天に浮かぶ月を覆い隠すようにして突如出現した巨怪が、何を行ったのかさえ理解できなかった。五条大橋が破壊される。黒色の翼から放たれる暴威はあらゆるものを粉砕し、嗚呼、まさしく京を焼き払った死の嵐と云うのはまさしく。
対して、赤髪が舞った。
人斬り彦斎。
寸前まで八郎と剣戟を交わしていたこの刺客は、空を埋める巨怪たる暗密天颶に猛然と飛び掛かったのである。文字通りに。一切の躊躇なく、一切の迷いなく、遙か二十間は先にある天颶の『顔』へと目掛けて跳んだ。
飛翔。美しく。
野生魔性の美であった。
人体にはおよそ不可能と思われる機動によって、赤髪の河上彦斎は空を駆けた。真上に跳ぶ。否。赤色の軌跡さえ夜空に残すかの如く、間違いなく宙を蹴ってみせた。少なくとも八郎にとってはそうとしか見えなかった。
赫い剣光が疾る。
巨体の放つ死の塊と激しくぶつかり合う。
結果として。ふたつの超絶壮絶の激突から発生する凄まじいまでの颶風が、五条の大橋はおろか河原までをも巻き込んで、引き裂き、蹂躙し、砕き尽くしてゆく。
「……ッ!」
目を見開くことの他、何が出来る?
息を止めることの他、何が出来る?
京の夜に於ける暗闘は血の雨が降ると云う。それどころではない、こんなもの。伊庭八郎は怪異なるものども二体の空駆けて地を砕く戦いに対し、ただただ無力のみを思うしかない。ついぞ先刻、河上彦斎の凶剣と僅かなりとも刃を交わし得たのは、幸運の極みに過ぎなかったのか││
否。否。違う!
江戸の道場で心形刀流を修めた我が身である。宗家の血筋など何の意味も持たず、力を示さねば次期当主として立つことはない。事実として父秀業は当時の宗家の養子として選ばれたのだから。だが。それでも尚、八郎は宗家当主の息子として、剣の術理を我が物とした。麒麟児の異名さえ得たのは、決して血筋のそれであるものか。
「おのれ」
八郎は、地を駆けた。
赤髪の少年のような飛天のわざは持ち得ぬ。
まさしく天狗の如くして跳び、巨大なる天狗を相手にすることは敵うまい。であれば、地を征くのみ。韋駄天よりも疾く駆けて││まずは、己と少年との剣戟を止めんとして大橋の中ほどに至った小さな人影、柔らかな金髪、光の蝶を周囲に漂わせる、少女を、りんを守ってみせよう。
最早粉々に砕かれた破片と化して宙に舞う五条大橋の破片、それらと共に、運良く五体満足なままに遙か十間ほども高々と放り上げられる形となった少女を││
受け止める。
天颶と少年の血戦が巻き起こす颶風のただ中へと身を躍らせて、八郎は、今まさに引き裂かれんとする少女の体を確かに受け止めてみせるのだ。
「りん!」
「はち、ろ……」
「喋るな。舌を噛む」
死の颶風からまずは離れねばならない。
剣聖・男谷殿から授かった不可思議奇妙の古刀があればこの怪異なる激闘に参じることも叶うかも知れないが、今は、あの刀はない。意図も分からぬままに姿を見せた暗密天颶に一撃を与える等と、考えるべきではないのは明確だった。しかし。しかし、だ。
八郎は剣士だった。
年若き剣士だった。
であるが故に、飛天の剣を操る彦斎の美に酔った。僅かに。ほんの少しだけ。
自らも、あのように刀を振るうことが出来たなら、と。
思ったのだ。
刹那、それは起こった。
たちまち視界が暗黒に埋め尽くされる。
暗密天颶はその巨大なる脚││蹴爪のひとつを伸ばして八郎の胸板を引き裂き、弾き飛ばし、守りを失った少女の肢体をむんずと掴んでみせたのだ。
◆ ◆ ◆
『クラヴィッツ・システムは対象Rを確保しました』
『対象Rの生存を確認』
『素晴らしい』
『前回のような暴走の傾向はない││いえ、これは』
『何だ』
『……我らとは別の《回路》による介入を確認。クラヴィッツ・システムが何者かに掌握されました』
二・壬生の餅
光の蝶が舞っている。
手を伸ばすと、すぐにでも掴めそうなのに││
瞼を開けてすぐに感じられたのは眩いばかりの陽射しであって、江戸に於いては既に失われた筈の輝きだった。幼い頃には当然のものとして空に在って、しかし、新時代的発展の象徴たる機関の排煙が充ち渡る江戸機関幕府の膝元の都市には縁遠いもの。異郷たる京の都に残された、かつての時代の残滓。
この陽の柔らかさ。
空気の冷たさ。
ならば朝か。
八郎が目を覚ました時、視界に入ったのは、枕元に在って濡れ手拭いを換えながらこちらを見つめる壬生の狼の一匹、土方歳三││歳江だった。
珍しく浅葱の上衣を脱いだその姿は、女であった。
艶やかな黒髪。忍びの者にも似て濃色に染め上げられた薄布の装束は女に特有の乳房の盛り上がりを妙な程に強調するようにも見えて、八郎は目を白黒させる。胸のでかい佳い女。確かに近藤勇はそのように云っていたが、殊更にそちらへ気を向けてしまうのは、そもそも己が褌一枚の姿で寝かされていることに気付いたが故か。
正確には、全身のあちこちにぐるぐると西洋繃帯代わりの晒を巻き付けた上での褌一枚。何事かと身動ぎしようとすると、晒の下の全身がひどく痛んだ。特に胸元の痛みが著しい。そうだ、己は身の丈十間を超す怪異による蹴爪の一撃をまともに受けたのだ、そして││
「此処、は……」
何処だ。
りんは、どうなったのか。
「やめておけ。今はまだ無理だ」
「歳殿」
「命は取り留めたが、お前は深手を負っている。背中の傷でないことは褒めてやる、今は黙って看病されていろ」
静かに、土方は云った。
新撰組の見回りが五条大橋跡で見付けた折の八郎は三途の川を渡るか否かの瀬戸際で、まずは京の蘭学医が西洋式手術で以て傷を塞ぎ、数日を経て新撰組の本拠たる壬生村八木邸に身柄を移したばかりなのだと。
「りん、は……」
「弐番組と参番組が行方を追っている」
言葉は続かない。行方知れずと云う意味か。
「……歳殿に、云われた通りに、なってしまった」
「お前は局長の言い付けを守ったまで。斯様な中で賊にしてやられたのであれば、それは新撰組の預かる処だ。以前の私の言葉は忘れろ」
「しかし」
「忘れろと云うに、頑固だな」
迷いのない瞳が八郎の貌に向けられていた。
「五条大橋のことは聞いた。既に大橋はなく、河原は見るも無惨な有様だとか。その傷、お前、よもや暗密天颶と剣を交わそうとでもしたか」視線。僅かに揺らいでいる。
「……私、は……」
「斎藤と同じことをしたのだ、お前は」
言葉に何らかの含みがあった。
だが、縫合を終えたと云えども痛みの残る身なれば、りんを奪われたままと知ったばかりなれば、八郎には土方を詮索する余裕などある筈もなく。ただただ、己が無力さを噛み締めながら、されるがままに濡れ手拭いで体の汗を拭われるばかり。ひどく汗を掻いていた。発熱しているらしい。
「今は休め。滋養を付けて、眠れ」
「私は、りんを」
「……そうとも。お前には、今こそ餅をやろう」
「餅」
「餅だ。旨いぞ」
曰く、新撰組局長たる近藤勇がかつて同じように傷を得て床に在った折、彼は幼子のするように「餅が欲しい」等と言い出して聞かず、仕方なく土方が餅を焼いてくれてやると、たちまち五体のすべてに精力漲らせて立ち上がってみせたのだという。
「それから、すべてが始まったのだ。我ら天然理心流は多摩を発ち、日の本たる天子さまと機関幕府の守り手として京の守護を仰せつかるまでになった」
襖を広く開けて、傍らに置いた七輪に餅をくべながら土方はあれこれと語り掛けてくる。触れる者を喰い殺す壬生狼の凄絶は其処にはなく、無二の友か良人かを想って語る女の姿だけが在るように八郎には見えたが、もしくは、取り付く島もなかった以前に比べてのこの変貌ぶりには裏の意図が隠れているようにも思えてならなかった。深く考えようにも、頭が回らない。熱のせいだ。八郎は、餅の灼ける匂いを嗅ぎながら瞼を閉じる。
││嗚呼、瞼の裏に。
││今も、光の蝶がちらついて離れない。
◆ ◆ ◆
「どうだ、歳。伊庭殿の様子は」
「傷は深いな」
「わざわざ腕利きの蘭学医を探し当てたというのに、甲斐がなかったか。しかし、あの暗密天颶が相手とは云え、斎藤に続いて心形刀流の麒麟児までもが斃れるのか」
「体の傷はそうでもない。すぐ癒えよう」
「ほう?」
「胸の裡の傷だ。あれの魔性にすっかり当てられている」
「おや。魔性と決めつけるかい、歳は」
「八百万(やおよろず)を導く巫女の筋である等と、お上といい江戸の幕府といい、世迷い言に耳を貸しすぎだ」
「さて、世迷い言であれば俺も安心ではあるんだが」
三・赫眼の魔人
「冗談ではない」
旅籠の一室に神経質な声が響き渡っていた。
二度に渡る暗密天颶の出現にあっても被害のなかった三条河原、その一角に佇む旅籠の奥まった二階部屋にて、長州藩士たる吉田稔麿は電信通信越しの相手に対して今まさに激昂していた。
伊達な筈の男であった。
金属枠の眼鏡を掛けて、如何にも涼やかさを醸し出すはずの整った顔立ちがあからさまなまでの怒りに歪み、こめかみには血管の筋が浮いている。
予想外の事態があったのだ。
数日を経ても仔細分からず、件の金髪碧眼の幼子は未だ彼の手中に収まってはいない。許されざることだった。実行すなわち成功。こと尊皇攘夷を口にして暗躍する長州藩士の中にあって、こと吉田稔麿は失敗の二文字を知らぬ男だった。名高き松下村塾の塾生たち、すなわち、この国最高の碩学の一人にして機関幕府の無知蒙昧によって死罪となった吉田松陰師の無念を晴らす復讐者の一員である彼は、長州藩士たちの活動の多くを成功に導いてきた。
次代を拓く志士の筆頭。
そう云う自負が確かにあった。
事実、それだけの実績を残してきた男ではあったのだ。だが。数日前。仕損じた。
「あの娘は俺が手にしてこそ役立つのだ。貴様の云っていた事柄が確かなものであれば、維新を成す我らの側に在ってこそあれは初めて意味を有する」
言葉は幾度目のものか。
電信の相手の返答は、印籠に偽装した機関機械を通じて彼の耳にのみ届く。更に激怒と憤怒とを招く内容が。
「巫山戯るな!貴様ら夷敵の要らぬ横槍のせいで、こちらは高杉さんから借り受けた《陸の黒船》││河上彦斎を失う処だったのだぞ!」
叫ぶ声が響く。
英国式の防音処理が施されていなければ、旅籠じゅうにでも響き渡りそうな程の絶叫だった。そうだ。許されることではない。敬愛して止まぬ高杉晋作に対しての不義理等と、彼には天地が逆さになっても耐えきれはしない。
「暗密天颶を操る者を教えろ。今すぐに。あれでは何もかもを破壊してしまう、先日の京の半壊を忘れたか!貴様らが手を下せぬのであれば、俺が……殺す!」
再度、叫ぶ。
刹那。
厳重に内側から錠を閉めた筈の襖が開いていた。
本来は錠など掛けることのない機構である襖に、わざわざ括り付けた特製の錠が。音もなく。外れて、畳の上に落ちて。そして、開く。
││異様な風体の男が足を踏み入れる。
篆刻写真で目にする英国紳士さながらの、西洋式の紳士服の類に身を包んだ人物だった。頭には紳士帽子(シルクハット)。服。帽子。どちらも黒。夜の闇と同じか、それよりも尚暗い黒。
黒色ならざるのは、左腕に装着された碩学機械と思しき特殊な計算機関じみた塊と、右手に携えた杖がひとつ。
「何もかも破壊する?」
男は云った。
侮蔑の笑みが含まれた言葉だった。
「そうとも、日の本は私が壊す」
黒色を身に纏いながら。
赫色に瞳を輝かせながら。
男は、鮫の笑うが如き異形の笑みを浮かべてみせる。
「何だ……貴様は」
「お前が殺すと叫んだ者だ。俺だ」
「!」
印籠型通信機械が畳に落ちる。
刀掛けに置いた大刀に手を伸ばす暇はない。故に、吉田稔麿は腰に差した小刀を抜かんとして、構えた。相手の挙動を待って後の先を取る居合いではなく、抜刀即座に攻撃へと移る瞬速の動作。兵学、機関工学、高等数学、そして権謀術数にこそ長ける身ではあったが、剣は柳生新陰流を学んだ身である。件の金髪碧眼の少女を得るにあたって、己が身を用いればまず間違いなく伊庭八郎を両断出来る自信はある。人斬り彦斎を刺客としたのは、ただ、念の更に念を考えたに過ぎず。
一歩、間合いを詰めて。
狙い違わず。闖入者の首を刎ねる。
瞬きする愛断終わる筈だった││が、しかし。
「……殺して良いのは、殺される覚悟のある者だけだ」
倒れる。頽(くずおれ)れる。
生命の奔流を激しく吹き出して、襖に貼られた障子の白を赫色に穢したのは、闖入者ではなく吉田稔麿本人に他ならなかった。眼鏡が。落ちる。
「案ずることはない。お前たち長州藩士が『史実』としてすべきことは、この私が成してみせよう。京都大火、明日にでも実行されるだろうよ」
小刀は確かに鋭い斬撃と化していた。
だが、男が手にした杖が火を噴く方が││遙かに、早い。
「再度、云おう。
私が││岩倉具視と暗密天颶が、日の本をぶち壊す」
◆ ◆ ◆
「……おや、電信が切れてしまいましたね。残念」
『構わない。与しやすく扱いやすい、我らにとって効率的な現地協力者ではあったが、換えは幾らでも利く』
「痕跡は私が消しておきましょう」
『それが貴様の役目だ。夜明け》よ』
「ええ」
四・夜明け
伊庭八郎は駆ける。
森の鬱蒼を。山の静寂を。夜の暗影を。
未だ軋む五体には燃え滾る精神で活を入れながら、全力全霊を以てひたすらに駆けていた。力のすべてを振り絞らんとする勢いではあるが、否、最後の力だけは残すよう努めながら走る。極東、すなわち日の本の人間はおよそ正しい『走り方』を知らないというのがかつての列強諸国に於ける常識であったと云うが、過去の話だ。未だ多くの人々はそうであっても、八郎は違う。ヴィドック卿の人体操作理論の基礎を、半ば無意識に発展型として修めた身なればこそ、ともすれば英国の陸上競技選手以上に鮮やかに自らの肉体を操作してみせる。
駆ける。駆ける。韋駄天が此処に。
『また会ったな、伊庭八郎』
新撰組隊士たちからの報せにより、かねてより機関幕府に仇なす危険人物であるとして行方を追っていたという件の人物が京に在ると知ったのは、つい先刻のことだった。
『リィナは何処だい。奪われてしまったか?』
土方の語るその人物の特徴は、八郎が京へと至る道中で二度会った男││夜明けを名乗った獅子髪の男と一致していた。未だ動くなと土方には強く云われたが、我慢できる筈もなかった。無理をした。馬を借りて京を駆けた。
『ならば急いだ方が良いだろう、明日では遅すぎる』
奴はりんを狙っていたのだ。
五条でりんを奪い去った暗密天颶との縁ありとの確信を得た八郎は、一人、男との接触を試みたのだった。
『夜明けまでに助け出すことだ。でなければリィナの肉体は永遠に失われ、夢幻の胡蝶が極東を埋め尽くす』
男の語る謎めいた言葉に導かれるままに、八郎は京の外れの鞍馬山へと向かったのだ。山の麓で馬を降りた。京からずっと走らせ続けた馬は既に限界であったし、何よりも逸る心が八郎にそうさせた。五条で感じた己が無力への憤りをぶつけるように、数日の静養で鈍った全身を躍動させることで賦活を果たさねば、胸の裡が、頭が、最早どうにかなりそうだった。
走る。疾く。駆け抜ける。
そして、鞍馬の御山の山頂近く││
鞍馬寺本尊を前にして。
怪人物、と呼ぶに相応しい男と相対したのだった。
「やはり来たか。妖精騎士」
英国紳士の正装に身を包み、右の赫眼を怪しく輝かせる男だった。右手に金属杖。左手は何処のものとも知れぬ機関機械、恐らくは碩学機械を装着している。一見して八郎は理解する。この男だ。左手の機械は何処か羽のようにも見えて、成る程、暗密天颶の羽の数枚を想わせる。
そして││
「姫君を蒼天残せし京へと連れて来た労苦、労おう。リィナは江戸や下田の曇天の下では真価を発揮せぬ。本当の空の色の下でこそ、姫君は真に鋼鉄の女王として芽吹く」
男の胸元に下がっているのは、何だ。
あれは。
りんの持つ首飾りに酷似してはいるが││
「お前が下げているそれは、りんのものではないな」
「姫君に必要なものだ。そして、この岩倉具視に必要なものでもある。残念ながら、貴様には必要ないものだ」
「要らぬ」
短く、吐き捨てる。
何処だ。りんは。
「おお、愚かなことよ!貴様は何も知らぬのだ。トラペゾヘドロンの輝きも、銀の鍵の何たるかも。複製とは云えどもその力は果てしない。歪み果てた惑星の上で、しかして史実の呪いからも離れられずに右往左往するこの日の本を真に変えることが出来るのだ、リィナと!」
狂える叫びだった。
鬼気迫る声だった。
気圧される感覚にたじろぎそうになるが、八郎は歯を食いしばって耐える。数日間に渡る静養は肉体を確かに癒したが、同時に、大いなる後悔と憤怒を胸の裡に蓄えた。そんなものは要らぬ。刀の斬り合いに必要なのは、怒りではなく、術理と合理との果てのみである。敵の狂に決して応じるな。怒るな。焦るな。冷ややかに、研ぎ澄ませ!
「彼女と!この私で!そうとも大政奉還は近い!否、それでは不足。足りぬ足りぬ、そんなものでは日の本は決して再生しない。あらゆるすべてを破壊し、朝廷なぞが立つ以前の世界を復古させるしかあるまいよ!」
「……世迷い言を」
「そう思うか、本当に!」
金属杖を掲げて、高らかに狂える男が更に叫ぶ。
鞍馬寺本尊の向こうで蠢く気配があった。
巨体。巨人。
今夜も破壊の嵐を巻き起こそうと云うのか、荒れ狂う風を纏いて姿を見せる身の丈十間の影こそは護法魔王尊!
「来たか」
八郎は、刀に手を掛けた状態で鋭く睨む。
抜合(居合)に際して刀柄に手を掛ける等とは素人の作法だが、何、相手は人ではない。刀さえ持たぬ。であれば人の技を用いることに何の意味がある。既に、関ヶ原での一戦を経て、五条大橋での大敗を喫した伊庭八郎は得ているのだ││巨大なる蒸気機関兵器と戦う術理、合理を!
「何故、壬生村を襲撃しなかったと思う。貴様が来るのをのうのうと待っていたと?そう、待っていた。いずれ貴様は此処に来る。ならば此処で殺す。リィナには、既に御身の選んだ妖精騎士はおらぬと知らせねばな!」
「││ッ」
敵の口上をこれ以上も聞く必要はない。
八郎は、身を低くして疾走する。
直後、銃弾。否、砲弾の雨あられ。御山の上空に浮かんだ暗密天颶から放たれる無限とも思しい機関砲による掃射は確かに脅威であるが、今は、五条とは違う。その暴威を操っていると思しき男が目前に在る以上、少なくとも男を巻き込むことはすまい。ならば。容易い。
『回転式機関砲、是が両腕に一門ずつ搭載されている』
先刻耳にした言葉を脳裏の片隅で思い返す。
同時に、半ば自動的に体は動いている。驚きも昂ぶりもこの身にはなく、ただ、術理を成すためだけの戦闘機械として稼働する。人ならざる鋼鉄と戦う合理を今や得た心形刀流を体現するための出力装置、それが、この夜この時の伊庭八郎秀穎に他ならぬ。
砲弾が射出される箇所が分かる。巨影の両腕。
砲弾が着弾されぬ場所が分かる。男との線上。
『最大の火力は圧縮蒸気砲だ。異境カダスより英国にもたらされた驚嘆のわざだが、何、鞍馬の御山ではあれは使うまいよ。御山には暗密天颶に動力を届ける大機関(メガ・エンジン)が隠されている』
確かに。最強の颶風が放たれることがない!
是ならば││
「小癪、武士ふぜいがッ」
男が叫ぶ。
激昂している。男││岩倉具視なる人物が何者であるかについて公卿を知らず宮中さえ知る筈もない八郎が気付く由もなく、だが、少なくとも優れた剣士ではあるまいと予想は出来る。武士かも知れぬ。ただ、自らの言葉に酔ってみせる醜態を見せる等、到底、合理を知る者ではない。
「確かに」
八郎は、口にしていた。我知らず。
「暗密天颶。並のさむらいであれば勝てぬだろう」
高速移動を続けながら。
砲弾回避を続けながら。
時に、男の右手の金属杖から放たれる銃弾さえ避けて。
「だが」
背中の重みを意識する。
江戸より京までの旅装の折と同じく革紐で以て斜めに肩掛けた、ひどく大振りの古刀が確かに在る。高速の疾走を続けながら、ぐ、と前傾姿勢を取る。境内に顎が触れようかと云う程の低姿勢になりながら、背中の一刀、その機関機械じみた││もしくは異境の英雄のもたらす神器じみた柄に右手を伸ばす。そして。
大袈裟に、抜き放ちながら││絞る。引き金を。
閃光。衝撃。炸裂音。
果たして、伊庭八郎の抜いた電磁式射出刀から放たれた雷電纏う刀身は、狙い違わず岩倉具視の胸部中央を貫いて、その背後の空に舞う巨影の頭部へと突き刺さる。
『奴の演算装置を通じて暗密天颶を作動させる中枢は頭部に在る。但し、およそ弓矢で貫ける装甲ではないし、拳銃程度でも同じこと。さて、お前ならどうする?』
弓矢でもない。
弾丸でもない。
電刃が、今、京の都を騒がせた天颶を撃ち貫いて││
◆ ◆ ◆
それほど昔のことのようには思わない。
夜明けを名乗ったあの男との三度に渡る対峙、京の都で出逢った『誠』の一文字を背負った数多の剣士たち、痛みと共に永遠に失われた右手、永きに渡る眠りより目覚めた奄美の怪鋼群を引き連れた偉大なる大西郷、あえなく散りゆく白虎隊の少年たち、函館の空を埋め尽くす試作型機動要塞群。翠玉の首飾りと機械鍵。そして、赫い瞳を輝かせて哄笑する榎本武揚。
すべてを昨日のことのように私は思い返すことができる。私の瞳は今まさに、抗いがたい優美さを持つ金色の眩さに据えられている││私が思いも付かない理由によってかたちを得るに至った何か。その美しさに先立って、小さな光の蝶たちが今も彼女の周囲を待っている。
私は思い返すことができる。
私とリィナ、否、りんとの日々のことを。
過去に瞬いた旭日の如き、ティルヒアの眩さを││
◆ ◆ ◆
「……りんは、何処だ」
胸に大穴を開けて斃れた男へと尋ねると、英国正装の男は無言で鞍馬寺本尊へと視線を向けて、それきり何も云わなくなった。見開いた目は星空を映し込んで、そして、駆ける八郎の姿をも映す。
死して仏となった男の体に手を合わせるのは後だとばかりに八郎は急ぐ。戦い終えて、胸の裡の焦りと逸りがたちまち舞い戻ってくるのだった。未だ、年若い八郎にはどうしようも出来ない。
助けなくてはならない。
あの少女は、きっと、また涙を溜めている。
人を傷付けることを厭う少女だ。
人が傷付いたことを憂う少女だ。
優しき子なのだ。
暗密天颶が砲を放つだけで瞳が揺れるのは間違いないと思えるのだから、こうして、自分が誰かを殺めたと知れば泣いてしまうかも知れない。
その時には何と云うべきか││
考えるのは後だ、とばかりに八郎は再度駆けていた。
御山の麓からの道程を考えれば、今度は短い。すぐだ。
本尊入口には即座に辿り着く。
そして。
朱塗りの本尊の扉の前に、嗚呼、少女の姿はあった。
りん。
柔らかな金色の髪が揺れている。碧の瞳が此方を見ている。
││泣いていた。
「ハチロウ……!」
自由を奪われて。
あの獅子髪の男に軽々と抱えられながら。
「りん!」
間に合う筈だ。
駆け付けよう。
過たず、何処かへと去ろうとする男から少女を助け出し、その華奢な腰を抱き留めて、御山を下りてまずは壬生へと戻る。少なくともこの男、暗密天颶と相対するにあたり助言を向けながらこうしてりんを奪い取ろうとする者よりは信ずるに足る武士の集まりだ。西へ行くのも良い。江戸はまずかろうが、北も良い。金色の髪に相応しい異国、英国へ発つのも良いだろう。
まずは、手を伸ばすのだ。
見るがいい。
りんも、涙ながらに必死に右手を伸ばしているのだ。
応えよう。
今まさに走り寄り、此方からも手を伸ばして。
「再度云おう。諦めろ」
声。言葉は、夜明けの男から響く。
「││どうせ、是よりは夜明け(Crack of Dawn)だ」
そして。
碧の瞳が見つめる中で。
肉を斬り、骨を断つ音。
少女へ伸ばした手は届くことがない。
赫色。
涙。
光の蝶。
時の頃、夜明け。
互いの名を呼ぶ、声と声。
││伊庭八郎の左手が、鮮血と共に、鞍馬の空を舞う。
(瞬旭のティルヒア参・了)