零・京都殲滅
「逃げろ、逃げろ! 駄目だ、こいつぁ鞍馬の……!」
声は轟音に掻き消される。
地を裂く雷鳴を無数に、且つ同時に落としたかのような音だった。誰何の声、戸惑いの声、息を潜めて震える音、木造の家屋を砕く音、恐れわななく悲鳴、何もかも分からなくなって気狂いじみた悲鳴。すべての音を呑み込んで夜の街に轟音が充ちていく。
京の都、中央部。丑三つ時。
南北で言えば四条通りから五条通り、東西は堀川通りから鴨川までの域で《それ》は悠然と立って、音と熱とを際限なく放っていた。
止める者はいない。
否。止められる者はいない、だ。
命掛けて止めようとする者は、確かに在った。
背中に『誠』の一文字を背負った若者たちがいる。浅葱色の羽織に身を包み、覚悟の一文字と共に士道を志した、狼たちがいる。ある者は刀を手にして“それ”の猛威に立ち向かい、ある者は逃げ惑う市中の者らを先導してみせる。轟音の生み出す破壊と混乱の中にあって、彼らだけが明確な意思を有しているかのように思える。
否。他にも、強固な意志に依って立つ者らがいる。浅葱色の若者たちと違い、彼らの風体はひとつの意匠に基づいてはいない。何処かの藩邸に仕える侍か、もしくは一介の浪人か、ともかくさまざまだった。市中の者らを救うべく奮起する者もいるが、彼らの多くは状況を把握すべく鋭い猛禽の如き瞳を光らせていた。
「斉藤、土方。あれは己(おれ)がやろう。お前たちは勤王連中を捕らえろ。面倒なら斬っても構わん」
「無茶を言う、芹沢さん。あれは││」
「後のことは近藤に任せる」
そうして、ひとりの侍が刀を構える。
浅葱色の羽織に『誠』一文字を刻んだひとりの男だ。
対して、轟音放つ巨大なる《それ》は遙かな高みからその双眸を輝かせるのだ。
残酷に。冷酷に。
夜闇に蒼く澄み渡る、この世ならざる輝きを││
暗密天颶の章
一・四条通りと壬生狼
文久三年、西暦にして一八六三年。
京の都。
中でも四条の大通りと云えば畿内でも指折りの華やかな通りであって、京の象徴のひとつであり、行き交う人の波は絶えることなく、立派な大店が幾つも並び、藩邸仕えとなって田舎から出て来た侍などは今日は如何なる祭りの日かとぽかんと口を開ける、そんな通りであると物の話に聞いていた。例えば此処が江戸であるなら日本橋界隈、神田、それらの街々よりも更に典雅にて佳い街並みであるとか。
この時代、江戸に並ぶ規模の都市はない。
それは最早この國の常識でさえある。であるにも関わらず、京の街並みが尊ばれる理由は、空覆うこの青色にあると云う。すなわち蒸気機関(エンジン)による排煙の灰色が空を埋め尽くすことなく、未だ青を保ってみせる空。辻に渦巻く煤混じりの風も、人を咳き込ませる煙混じりの砂埃さえない。
空気の味わいは斯様なものであったか、と幼い頃を思わずにはおれない。澄んだ空気。陽の光。蒸気機関なき頃の味わいそのもの。
此処には蒸気機関が殆ど存在していないのだ。曰く、御所におわす帝が肺を病んでいるが故であるとか、設置しようとしても不思議と稼働しないであるとか、さまざまな噂はあれども確かな理由は分からない。兎も角も、京の空にはかつての色が残っているのだ。
青空の下の晴れやかな賑わい。
郷愁を誘う街並み。
数年前、京を訪れた欧州仏蘭西の著名な詩人がそれを讃える詩を発表した。四条通りを京内外の多くの人が尊ぶようになったのはそれからすぐのことだ。この國の誰もが、空の色に何を思うこともないのに、不思議と『外』からの評価は人々に染み渡った。
京の街。四条の街並み。
極東で最も美しい風景のひとつ││
であるはずなのに、この目に映る光景は何だ。鼻をつくこの臭気、焼け焦げた家屋と肉の匂いは何だ?
「何だ、是は」
若者は僅かに首を振って、しかし二の句が出ない。
精悍な若者だ。
昨今の年若い世代に多く見られるように、月代を落とすことなく髪を伸ばした青年。腰には大刀と長脇差、背中には古刀ひとつを背負った旅装の侍姿。
姓名、伊庭八郎。諱(いみな)は秀穎。
八郎の目前に広がる四条通りの姿は、異様、だった。異常であるとさえ云える。
状況は伊庭八郎の想像を遥かに超えていた。京の都の中央部││南北で言えば四条通りから五条通り、東西は堀川通りから鴨川まで││は真っ黒な炭と化した家屋の残骸から火の種が燻る焼け野原と化し、死臭さえ漂う。であるのに、四条の通り一本隔てて、噂に聞いた通りの京四条の賑やかな街並みが広がり、人々が行き交っている。惨たらしい四条の南が目に入っていないかのように。
やはり異常と呼べるさまだった。
京の人々が惨状を目に入れぬ訳はない。事実、こうして目にするまでに、東から四条へ至るまでの間に八郎は市中でさまざまな話を耳にはしていた。江戸機関幕府を倒さんとして各藩の侍や浪士と日夜暗闘を繰り広げる二大治安維持組織の一翼、その長のひとりたる芹沢鴨なる男が、四条南がこうなった際に討ち死にしたとか。しかも、芹沢を討ち果たしたのは人ならぬ妖異であって、夜毎に出現する巨大な人影であるのだとか。京のあちこちに点在する藩邸や幕府の要所を襲ってきた『それ』は、とうとう昨晩、京の町民たちへ木場を向いたのだとか。
信じ難い話だった。
ただ、それでも視界の異常はそれがただの噂話ではないのだと明らかに告げている。
市中の町民たちもこの惨さと異常を目にしている。噂話もする。ただ、この場で口にしようとはしないだけで。
「ハチ、ロウ……」
八郎の袖を掴んで、少女が俯いている。
りんだ。金髪碧眼の幼子は、琵琶湖から京へ入るまでの間こそ青空を目にして笑顔を浮かべていたものの、一歩都へ足を踏み入れるや否やこのようになった。
俯いて、時折震えて、歩みも遅くなる。
異人の娘をまさか人目の付く場所で連れ歩く訳にもいかず、仕方なしに再び編み笠を深く被らせたものの、この様子では一刻も早く脱がせてやって息を吐かせてやりたいものだが││
「苦しいか。りん」
「すこ、し……だけ……」
「すまん。すぐに宿を探してやるからな」
言葉を交わしている。交わせていた。
唖でなかったのかと当初こそ驚きはしたが、今はそれを追求する余裕はない。夜明けを口にした男の率いる刺客たちを八郎は関ヶ原で討ち果たすことが出来ていない、以上、あれらがいつ襲ってくるか知れたものではない。
りんは狙われ求められている。
正体定かならぬ刺客たちからも、機関幕府からも。
幕府に近しい藩邸に駆け込むことも考えたが、八郎はそうしなかった。出来なかったのだ。道理や筋としてはそうすべきであろうと分かるのだが、できない。心根の部分がそうさせないのだからどうしようもない。
りんには恩が││ある。
関ヶ原で命を拾ったのは、りんの支えあったればこそ。
人ひとりを指して『積み荷』と言ってのけた機関幕府の意図を見通すまでは、りんを届ける訳にはいかない。
それが現在の八郎の結論だった。
幕臣たる身に自らの考えを挟む余地など、本来ない。
それでも八郎は迷った。
若さ故かと思う。
未熟故かと思う。
どちらでもあるのだろうと自らを嘲りもしていた。
しかし、恩ある相手を、万が一にも窮する状況に置くことは道理として許されるものではない、とも思う。
(本当にそうか。八郎)
幼子が袖引く感触を思いながら、自らに問う。
(道理で云えば、幕臣が上意に対して迷うものかよ)
それでも、だ。
苦しげに喘ぎ己の名を呼ぶ幼子ひとり、訳も分からずに見知らぬ者に預ける訳には││
「りん」
「だい、じょう、ぶ」
「嘘を云うな。子供は嘘など云わんでいい。そんなに顔を真ッ青にして大丈夫なものがあるか」
「ふ、ふ」
「何が可笑しいことがある」
編み笠を僅かに上げて、気丈に笑顔を見せようとするりんの頭に手を置いて、ああ、震えているではないかと気付いてしまう。宿より先に是は医者に診せるべきだ。それも叶うなら蘭学医、否、英国帰りの医師などいればそれが最も佳いのだろうと考える。
りんの顔色はいよいよ酷く悪い。血の気が引いている。
呼吸さえ己ではままならない様子で喘ぎ、涙を瞳に湛えながら、それでも笑顔など浮かべようとする。
「医者へ行こう。先に休みたければそう云ってくれ」
「……」
ふるふる、と少女は首を横に振る。
大丈夫だと云っている。
そんな訳があるか、ならば背負ってでも行くまでだ。
と││
「幕臣、伊庭八郎と見たが如何か」
行き交う町民たちの賑わいの中で、凛と響く声がある。
女の声だった。
半ば自然と八郎は半眼の目付を行い、僅かに、背後へと振り返る。緊張がそうさせる。初の実戦を経験してからまだ一月も経たず、最後に機関機械式(エンジンマシン)の絡繰(からくり)蜘蛛と死闘を繰り広げてからほんの数日。それらを引きずったが故の緊張では、ない。まるで違う。
漂う剣気を感じ取っていた。
浅黄色の羽織に身を包む美しい黒髪の女。
そう。女││だった。
既に、柄に手を掛けてこちらを睨む女がひとり。
さあッ、と行き交う人の波が割れた。さも当然と云わんばかりに女と八郎、りんの周囲から遠ざかっている。京の人々は、慣れているのだろう。刃傷にどう対するか。すなわち避けず、触れず、声を掛けず。
「如何にも。私は伊庭八郎であるが、貴女は何者か」
「壬生(みぶ)の者だ。京の平穏を預かる身である」
「同じ幕臣という訳か」
「同じかどうかは、お前の断ずるところではないな」
今まさに手を掛けた柄尻の拵え、鍔の紋様。一見するに彫り込みも見事な佳いものであると分かるからには、真逆、刀身もそのあたりの無銘などではあるまい。
銘ある刀を使う壬生狼(みぶろ)、であればこの女もしや││
(雌の狼がいるとは聞いたこともない)
いずれも精強な強者揃いの若き侍の群れ、壬生の狼。江戸近郊は多摩あたりを出身とする青年たちを中心とした、今時分には珍しい程の武の集団であって、葉隠もかくやと云わんばかりの規律のさまは厳の一言に尽きると聞く。
その狼の浅葱を着込み、刀の柄に手を掛ける者が、今まさに目の前にいる。
しかしどうだ。女とは。
それもかなりの器量ではある。
こうも強い剣気を放たれては、器量もあったものではないが、抜き身の刀身に仄見える刃紋の如き美しさはある。
(女だ。間違いない。しかしこの気迫はどうだ)
刺客、の連中とは訳が違う。壬生の狼。松平容保公による庇護の下、市中で刃傷に及ぶことなど歯牙にも掛けぬ連中だ。対してこちらは得物もままならない。大刀は刃こぼれし歪んだままで、まさかこの人の多い中で背負った古刀の絡繰を再び動かす訳にもいかず。
圧倒的なまでの分の悪さではあった。
長脇差一本で充分に戦える相手、ではないだろう。
「壬生の狼と見受ける。もしや新選組か」
「応」女は視線を揺るがせもしない。
「名乗っては頂けないか」
「副長、土方歳三。伊庭八郎殿、その娘は渡して貰う」
「何?」
││土方だと?
││莫迦な。
鬼の副長と聞こえた土方歳三が、女、等と。
ならば柄に手掛けたあの一刀、まさか兼定であると?
「聞こえなかったか」
「……壬生へ届けろとは聞いていないな」
「今、私が云った」
「随分と荒っぽいな。壬生の狼は」
軽口を叩きながら、りんの様子を伺う。
走れはしないだろう。ならば、逃げられはしない。ならば抱えて走るのみか、と、八郎が意を決しかけた、矢先。
「だめ」
編み笠がはらりと落ちていた。
「だ、め……!」
鈴の音が四条通りに響き渡る。
己が肩を抱いて、震えながら、りんが声を張り上げる。
刹那。八郎は意を決した。
真か嘘か、新撰組副長を名乗る女を相手には他に手もあるまい。命を賭して、迷うことなく八郎は行動に移る。
即座に││
二・狼の巣にて
「否、すまん。うちの歳が迷惑を掛けた」
精悍な青年はそう云って頭を下げた。
実に、快活な笑顔などを浮かべられてはこちらも毒気が抜けてしまおうというもの。八郎は慌て、表を上げられよと声を掛けるしかない。
夜││
伊庭八郎の姿は京市外、壬生村の八木邸にあった。
噂に聞いた京の守護、会津藩主松平容保公の擁する武装組織『新選組』の屯所として用いられている邸である。五体無事でこの場に赴くことが出来たのは幸運か、はたまた八郎の選んだ行動が合理であったか。
果たして、土方歳三││を名乗る女との戦いはすんでのところで回避されていた。八郎が決死の覚悟で頭を下げた刹那の時に救いの手があったのだ。
りん、だ。
すなわち女が言葉を発するか抜刀するよりも先に、もしくはほぼ同時に、りんがその場に力失って倒れ込んだのだった。八郎の着物の裾を掴んだままで。
咄嗟に助け起こすなどすれば一刀の元に斬り伏せられるであろうと八郎は判断したが故に、頭を下げたままで、言葉を向けた。機関幕府より賜った上意は京都所司代のひとりへと『積み荷』を届けることであって、桑名藩主と繋がりなき壬生狼がりんを寄越せと口にするからには、少なくともその行動は上意ではあるまいし、ならば交渉の余地もあろうものと考えたのだ。
無論、刺客どもと同類ならば問答無用も有り得る。
だが結局のところ、八郎は賭けて、賭には勝った。
『京へ入ってよりこの娘は具合が悪い。この真っ青な顔色を見てやってくれ。一刻も早く、休ませてやらねば』
『病か、その娘』こう、すぐに返答があったのだ。
『人であれば具合も悪い時もある!』
『それは真に人なのか』
『何?』
土方を名乗る女、いかにも、りんについての何かしらの裏を知っていると思しい。壬生がどうの、等、男谷殿は一言も述べていなかったにも関わらず。言の葉の端に引っかかるものを八郎は感じたが追求はしなかったし、故にこそ『来い』と告げた女に従った。
『蘭学医もいる』との続く一言が効いた。
そうして馬を駆った八郎とりん、そして女を夕暮れの朱に染まる壬生村の入口で出迎えたのは、精悍で快活な、誰あろう新選組局長││芹沢鴨が死亡したため唯一の局長となった││近藤勇その人であったのだ。
近藤は、隊付きの蘭学医を呼び出して後、
『ゆるりとして行け』
とだけ告げた。
そして、今、こうして近藤の私室に八郎はいる。
りんは別室にて蘭学医が診ている。
「歳、とは……」
「貴殿、あいつと一緒に壬生まで来たのだろう。ほれ、目つきの随分と悪い、胸のでかい佳い女。ん、貴殿はあれか、もしや幼子やら稚児やらにしか興味がない類の男か」
「冗談を。土方歳三殿、を名乗られた女性はいたが」
「そいつだよ、歳は。歳江と云うのが本名でね。いざ刃傷の場なら兎も角も、風聞に際しては女の身など如何にも舐められよう、とか何とかで歳三を名乗ってはいるが」
「……歳江殿と仰るのですか。そして事実、新撰組副長たる土方歳三殿でもある、と」
「何でも、江の字のさんずいから取って三なんだそうだ」
「驚きました」
「私も驚いている」
そうして再び、笑いながら近藤勇は頭を下げる。
好漢であるというのが八郎の印象だった。どこか男谷殿を思い出してしまうのは、その快活な言動故か、ひとかどの人物として名を成した者同士の持つ某かの芯のようなものがそうさせるのか。
分からないまでも、圧倒され続ける訳にもいかない。
八郎は近藤が表を上げるのを待って、言葉を向ける。
「どこまで存じておいでか、新撰組は」
「どこまでだと思うね」
「分かりません」
「正直だな。そう云う男は嫌いじゃない」また、笑う。
「ならば正直に申し上げます。お上が人を指して『積み荷』等とは如何にも奇異、奇妙。ご存知であるならばお尋ねしたい。何故にあの娘は『積み荷』であり、何故に刺客に狙われ、何故に……」
言葉に詰まる。
代わりに、最後の一言は近藤が引き継いだ。
「壬生狼どもまでが娘を狙うのか││か?」
「はい」
「言うは易く行うは難し」
「何と?」
「直ぐに分かる」
表情が、消えていた。
その一言を述べる際だけ近藤の貌は厳のように硬かったが、続く言葉を口にした頃にはそれまでの快活な様子を取り戻していた。
「暫く、貴殿はあの娘についていてやると良い。
歳から話は聞いている。どうにも貴殿に懐いているようだから、無理に引き離すのは宜しくなさそうだとな」
◆ ◆ ◆
夜更け過ぎ││
湯を戴けたのは有り難かった。
壬生には元々、村人たちが用いるための湯屋が一軒だけあって、それを新撰組の隊士たちも用いているとの話で、八郎も恩恵に預かることができた。
現代の江戸に数多く見受けられる蒸気機関式の共同浴場とは違う、昔ながらの湯屋に幾らかの懐かしさを憶えつつ、髷を解いて髪まで洗い(朝にでも結い直せば良いかと思いつつ)、それでもあまりゆるりとはせずに邸へと戻る頃には、りんは蘭学医の処方した薬によって体調を取り戻したとかで、ふらつきながらも先刻よりは余程しっかりとした足取りで八郎の脚に飛びついてきた。
割り当てられた八畳の寝室の襖を開けるや否や、だ。
りんは体ごと飛びついて、
「ハチロウ……!」
「すっかり元気だな」
「……」娘はこくりと頷いてみせる。
「無理はするな。辛い時は、そう云ってくれ。俺はお前に無理をさせるつもりは毛頭ないんだ」
「う、ん……」また頷いて「ハチロウ、やさしい?」
「優しくなどあるものか。お前さんが倒れるほどに苦しんでいるとは、ついぞ思わなかった」
りんは返答せずに、ただ微笑んでいる。
つられて八郎も相好を崩しかけるが、頭を振って。
「りん」
「ん」
「京はお前には辛いか。
俺には、関ヶ原の時と同じように見えた」
返答はなかった。
寝床は既に整えられていた。
離れて眠るのはいやだと、ぽつぽつと語って瞳に涙など溜めるりんの様子に溜息吐いて、布団二枚をぴったりと隣り合わせてやって、漸く娘は落ち着いた。
みるみるうちに機嫌も良くなり鼻歌など唄ってみせる。
そのさまが如何にも舶来の、恐らくは童のための絵付きの本に描かれた絵物語や夢物語じみていて、なおかつあの鈴の鳴るような美しい音色で唄うものだから、旅の疲れも刺客との鍔迫り合い疲れも、昼間の土方殿とのやり取りでの気疲れも、何もかもひっくるめて忘れかけて聞き惚れる八郎だったが、考えてみれば夜更けもよい頃合いならば隊士たちの迷惑にもなるだろうと思い至って、唇に人差し指など立てて「これまで」とりんに告げる。
「じゃ、あ、おうた、は、ふたりの、ときね」
「そうだな。俺もまた聞きたい」
「す、き?」
「ああ。お前さんの唄は竜宮城の宴もかくやだとも」
「ふ、ふ」
「おんや。今のは冗談だったんだがな?」
「あっ……」
「はは。怒るな怒るな。半分以上は本当だとも」
「もう! ハチ、ロウ!」
やはり随分と、流暢に喋るようになってきたと思う。
この分では明日、明後日の頃合いにはすっかりこの國生まれの人間と大差なく話せるようになっているだろう。頬膨らませて抗議しようとするりんを宥めて、布団へと横たえる。この娘が眠るのを見届けてから、一寸、夜気にでも当たってみようか、もしや土方殿││歳江というのが本名らしいが││あたりと顔合わせれば近藤殿とは違った言葉を聞けるかも知れない、等と考えていたら。
「……」
寝息も、どこか鈴の音を思わせる清らかさがある。
気を喪うように眠るりん。よし、ならばと起き上がろうとした八郎、ふと気付いたのは己の指先。
握られている。
そっと、僅かでも力入れれば離れてしまう儚さで。
││小さな右手が、己の左人差し指を握っていた。
「ん」
これは参った。
こうされてしまっては身動きも取れない。
このまま添い寝をするしかないか。
「参ったな」
小さく呟く。
「はち、ろう」
己の名を口にするりんの横顔。
顔色は、やはり大分良くなっているようだ。
「ここにいるぞ」
応えてやるが聞こえてはいないだろう。
しかし││
「……」
その時││
ふと、光の蝶が視界を過ぎった気がした。
三・光の蝶
朝餉の白飯をりんはなんと二度もお代わりした。
ころころとよく笑いながら、例の鈴の音の声をささやかに「おいしいです」と響かせて、こうも愛らしければ精強屈強なる隊士たちも思わず笑みなど浮かべざるを得ないと云うもの。二十余名の隊士連中、若くして風格身に付けた隊長ら、副長土方に局長近藤、その中にあって八郎はさほど浮くこともないが、是が金髪碧眼の異人の幼子ともなれば何とも目を引くものだった。
成る程、田舎の邸ともなれば襖幾つかを開け放しにすれば、数多い隊士たちも一同に会して朝餉に向かえる。
ずらり並ぶ精強の侍たちの中に、幼子ひとり。
よく食べ、よく笑う。
「ハチロウ。おいしいです」
「そうか」
昨晩よりもやはりすらりと喋るりんに頷いて、八郎は味噌汁を啜る。薄味だが旨い。脇に控えた村人にそう告げると、りんも慌てて同じ風に云ってくる。そのさまも愛らしく映ると見えて、隊士たちがどっと賑わいの声を上げる。
「まこと、西洋人形が如き愛らしさですな」
「夷敵朝敵と忌み嫌うこともあったが、こうしてみればやはり幼子、何とも憎めぬものですな」
「伊庭殿に懐くさまがまた愛らしいことよ」
「……無駄口を利くな。昨日の今日で気を緩めれば、待つのは敵の刃による死のみと思え」
ぴしゃりと告げる土方の声。
一転、しん││と静まり返る朝餉の席。張り詰める緊張の糸に八郎さえ背筋に汗を感じるや否や、高らかに、
「そう云うな、歳。朗らかな朝餉もたまには良い」
近藤の笑う声が響き、張り詰めた糸がぱらぱら落ちる。
そうか。是が壬生の狼の群れの在り方か、と、八郎、俄に納得するばかり。
結局のところ││
夜が明けて尚、近藤も土方も八郎の問いには答えることなかった。りんが何者であり、何故に機関幕府や刺客の類が求めるのか。何故に新撰組までも求めるのか。近藤は肩を竦め、土方はただの無言でこれに応えた。
ただ、近藤は最後に奇異な言葉を口にした。
「その娘と共に京を見て回れ。
さすれば、自ずと分かることもあるだろう」
こう告げて、八郎とりんを拘束することもなかった。どうやら察するところに依れば、片時も八郎から離れようとしないりんに無理を強いるつもりはないらしい。
「機嫌を損ねられても困る」
と土方は言ったが、八郎には一向に意味が分からない。
しかし、京の町を歩くと言っても、りんの体の不調の原因が京に在るならば訪れることは躊躇われたし、何よりも件の道中の刺客のこともある。安穏と京を見て回れ、等とは決して言えない状況であるはずだが││
「己が身の無事を思うのであれば、その娘を置いて早々に京を去るがいい。それがお前のためだ」
邸の中庭にて、土方は振り返ることもなくそう云った。
まるで取りつく島もない。
己は己で守れということか。
元よりそのつもりでは、あるが。
「私の身ではない。りんの身の無事の話をしている」
「ならばそれに尋ねるがいい」ちら、と視線を些かだけ八郎の裾を掴んで立つりんへと向ける。「日の本の言葉を喋ることが出来るのだろう、それは。さっさと尋ねろ」
「それ……とは失礼が過ぎるだろう。歳殿」
「気安く呼ぶな」
今度は真っ直ぐに視線を向けてきた。
鋭い、狼の瞳。
壬生の狼とはこの女のためだけの呼び名か、と、思わせるに充分な気迫ではある。剣気さえ帯びて叩き付けられる視線に、眼光に、八郎は思わず言葉を失うしかない。
「士道不覚悟。隊士であれば腹を切らせるところだ」
土方の声には、冗談の響きなど欠片もなかった。
◆ ◆ ◆
尾張屋の話は以前より男谷殿から聞かされていた。
いずれ、りんを連れて行かねばとも決めていた。京に入る少し前に、この幼子はずっと隠し持っていたと思しき西洋菓子を八郎にくれたのだ。甘く蕩ける、それでいてほの苦い、癖になる味わいの黒い菓子。
京に入った折にはその礼をしようと云っていたのだ。
以前に聞いた尾張屋の金鍔(きんつば)を馳走しよう、と。
ただ、りんの具合や京四条のありさまの衝撃、それに壬生の土方との遭遇がそれを阻んでいた。
今は││どうだ?
阻むものはないと云えるのだろうか。
何もかもを棚上げにしているだけだ。
(何をしているのだ?)
疑問がある││
(何をしている、俺は?)
疑問は幾らでもある。
りんの体はどうだ。娘自身は「へいき」と云うが。
幕府の命はどうだ。所司代へは届けも出していない。
刺客どもはどうだ。何の対処も八郎は考えていない。
りんの素性、追われる理由、『積み荷』である理由、何もかもを棚上げにして八郎は京の市中を歩いていた。真上から見れば綺麗な格子状になるだとか、かつての大陸における最大の国家であった唐の都長安を元にして作られたであるとか、そう云う、由緒も合理もある街をただ歩く。異人、欧州人の少女を連れて。
自然と、八郎の脚は車屋町通りへと向いていた。無論、何度も道に迷いはしたのだが││実に京の町は迷いやすいつくりをしている││なんとか辿り着いた。
青空の下を││
夢、まぼろしのように感じながら。
奇妙な感覚ではあった。
古い都を、編み笠も被らずに笑顔を見せてくる異人の娘を連れて歩く。であるのに、町衆はひとりたりとも視線を寄越すこともなければ騒ぎ出すこともない。
(何だ?)
まるで、朧の夢の中で旅をしているようだ。
(何故、だ?)
││光の蝶が。
││先ほどから、視界をちらついている。
時刻は午を過ぎたあたり。
英国製の懐中時計を取り出して見れば、十二時七分、と正確な時刻を確かめられる。指の動きを確かめて、時計の金属の冷ややかさも確かめる。夢では、ない。
「ハチロウ?」
見上げるように碧眼が顔を覗き込んでくる。
昨夜に比しても、りんは見違えて回復していた。昨日昼間の具合がそれこそ夢であったかのように、苦しげに喘ぐ息遣いが幻であったかのように、明るい笑顔を向けて、鈴の声を響かせる。朝餉の時から機嫌は佳いままだ。
「や、大事ない。お前こそ大丈夫なのか」
「へいき」
「苦しければ直ぐに云ってくれ。京の市中には蒸気馬車が走らんから、壬生まで戻るのは些か骨が折れる。土方殿がいない以上は馬で急ぐ訳にもいかん」
「うん」
「ま、急となれば医者に行こう」
近場の蘭学医の診療所の場所など記した地図を、村を発って京へ向かう前に受け取ってある。この尾張屋近辺には幸運にも一軒あることは既に確かめてあって、故にこそのこの己の安穏とした気構え、行動に違いないと思ってはみても、腑に落ちきるという訳にも行かない。
異常な行動をしているという自覚がある。
それでも、疑問を抱くに留めている己が身の不可解││
「きんつば、おいしい」
「旨いか」
「うん、とても、おいしい。ハチロウもたべて」
「ああ。……喉に詰まらせるなよ」
「へいき」
「なら佳いが」
こうして件の尾張屋へ足を運び、カフェテラスなる英国様式の茶屋の軒先のような場所でりんと面と向かってみてもなお、夢か、現か、幻か、そういった奇妙を八郎は押し退けられずにいる。
機嫌よく金鍔を頬張って笑うりんをぼんやりと見やる。
光の蝶が舞っている。
「へえ、江戸の人間にしては趣味がいいね。ここの金鍔は確かに美味だ。夢か現かと思わせるほどの味わいがある。甘さがね、舌から脳を蕩かすんだ」
まただ。
また、気配を察するのが声よりも遅れた。
男がこちらへ声を向けていた。
伊達な男だった。
紐ではなく金属枠の眼鏡などを掛けて、涼やかな、まさしく伊達男と呼ぶに相応しい美丈夫だった。如何なる訳かその時、八郎は夜明けを名乗った獅子髪の男を思い起こしていたが、見た目に似るところなど欠片もない。強いて言えば、気配の類、声色の類が微かに。
「如何にも江戸の者だが、貴方は」
「失礼。名乗る程の者でもない。ただの長州藩士さ」
「この時世、長州の侍と云えば怖がる者もいるでしょう」
俄に八郎は緊張する。長州か。
江戸機関幕府の政策に対して声高に異を唱える、尊皇攘夷派の志士を数多く有する藩であり、京における藩士たちはその活動の中心的存在であると噂に聞く。
吉田松陰、と云う男がかつて長州に在った。
松下村塾なる私塾を開き、この國の先行きを拓くべく意欲と才能に充ちた青年たちを育てるべく心身を投じたと世には語られる男だが、機関幕府はその思想を危険と断じて死罪に処した。
以来、長州の若き藩士は決意秘めた志士の代名詞となり現在に至る。
幕臣と見て接触されたのであれば、最早、新たな刺客の類と見るべきか、どうか。八郎は俄に殺気立つが、次に掛けられた言葉は更なる疑問を抱くに足るものであった。
「金色か。女の癖に、綺麗な髪をしている。
瞳は、どうかな││」
にこやかに。妖しげに。
男は優しく微笑んで見せる。
八郎には、それが、有り得ざる鮫の笑みに思えた。
◆ ◆ ◆
「……俺だ」
『吉田敏麿。貴方から電信通信とは珍しい』
「見付けたぞ」
『面白いものでも見付けましたか』
「知らぬふりをするな。手の者の報告を聞いてこの目で確かめたが、成る程、金髪碧眼。幼子。あれが貴様や連中の云っていた《緑の石》とか《鍵》とか、その類だろう」
『さて、どうでしょうね』
「当たりだな」
『さて、さて』
「ならば俺の物とする。そして、今後の交渉に用いることとしよう。貴様らは夷敵だが、その力はこの國を正しく導き変化させるには不可欠なものだ」
『貴方に出来ますか』
「出来る」
『伊庭殿はあれでいてスマウグ一基を屠っている。貴方の配下、数は良いが質に欠ける。逃げられますよ』
「赤毛を使う」
『それは││』
「言葉に詰まったな。それもそうだ、あの飛天の如きわざ、貴様ら夷敵でさえも容易く手に負えるものではない」
『あれは桂さんのものでしょう』
「ならば俺のものも同じこと。俺はね、高杉さんの他には唯一、かの松蔭先生に認められた男だよ?」
四・暗密天颶
気付けば、陽が暮れていた。
時刻の感覚さえも八郎は揺らぎつつあった。
夢の中に在る己を思う。
ぼんやりとして所在なく、踏みしめる京の辻の土の感触さえも確かなものに思えずに空を見る。舞い飛ぶ光の蝶と見紛うそれは、星だ。月だ。既に江戸では見ることも叶わない、遠き幼い頃に目にしたものがそこに在って││
ああ。やはりこれは夢なのか。
ずっと昔のことだったように思う、あの頃。
男谷邸の庭であれを見上げ、瞳は空に、巨大で抗いがたい優雅さを持つ形態に据えられている││幼き男児の頭では思いも付かない理由によって空を飛ぶに到った金属。その壮麗さに先立って、小さな無人飛空艇たちが、白い雲を切り開きながら急降下して風を切る。
椋鳥のようなあれら。
ならば壮麗たるものは何であるのか。人の温かみといったものの一切を感じさせることのない、椋鳥たちを引き連れて空を往く鋼鉄、優雅さと美しさを備えた黒色の、当時はおろか現代の欧州ですら見た者は数少ない試作式のカダス型機動要塞の到来を、夢まぼろしを見るようにぼんやりと見つめていたあの頃。
握っていた修練用の木剣の感触までもが蘇る。
そうだ、あの時。
空は、今と同じく澄んでいて││
「ハチロウ」
鈴の音が震えている。
声色が、些か翳っていた。
心配そうに下から顔を覗き込んでくるりんの頭を撫でながら、八郎は歩く。夢まぼろしであるものかよ。こうして触れる柔らかな髪は確かであって、現実そのものだ。それよりも今は、道だ。また迷ってしまったと思しい。壬生村への道はこれで合っていたかどうか。
尾張屋のカフェテラスにて語った通り、蒸気馬車がある訳でもなく、御用の向きもなく市中を馬で走る訳にもいかず、ただ歩くしかない。
歩き続けて、ふたり、やがて、大きな橋にさしかかる。
五条大橋。
川のせせらぐ音の中に音がある。
衣擦れの音を八郎は聞き留めていた。
夜闇に浮かび上がる白、そこに浮かぶ赤い彼岸花。
赤い髪の少年がいた。
年の頃は、かぞえで十六あたり。
元服を向かえた頃か、どうか。体躯は小柄で、若い娘のように華奢な姿には見えるものの、あれは何だ、左頬に走った生々しい縦一文字の傷は。
「あなたに恨みはない」
殺気││
天竜川で遭遇した忍びの者など目ではない。
関ヶ原の獅子髪も是ほどではなかった。
視界の端で瞬く光の蝶が、たちまちの内に砕け散る。ひッと息を短く吸うりんの声には、怖れが充ちていた。
冷ややかな夜の空気。握ったりんの手の温もり。温もり、碩学式に云えば温度というものを感じることを忘れていたという事実に、今、ようやく八郎は思い至る。
我に、返っていた。
此処は死地だ。
そして、あの少年は間違いなく││
「刺客か。夜明けを名乗った男の手の者か、それとも」
間違いなく。
刺客だ。
「……江戸にあっても耳にしたぞ。飛天の如きわざを振るう小柄な剣鬼が京で幕臣を悉く屠ると。名は確か」
名は、河上彦斎。
通り名を人斬り彦斎。
京における幕臣暗殺の半数を行ったとされる剣鬼。
「名など不用」
ゆらり、と少年の体が揺れる。
刀に手を掛けている。
昨日の土方殿とは訳が違った。剣気を以てこちらを圧そうとする、謂わば準備段階のようなものを彼女は見せてはいた。それでも死を意識する緊張ではあったが、この少年、人斬りと云うだけあって、成る程、斬り捨てる前提であると見える。
抜くぞ、という示威ではない。
柄に手を掛けているのは抜くためのこと。
手掛けて呼吸ふたつの間、未だ抜かずにいるのは、ただそれが彼の術理であるだけのことだろう。すなわち人斬り彦斎の扱うわざは噂の通りの居合いと見える。
(心形刀流の抜合で勝てる相手か?)
否。勝てるとも思えない。
まず、八郎自身が腰に差しているものは長脇差一振りにに大刀が一振り、そして背中の長大な古刀だが、この手の手練れを相手に長脇差などでは不十分、大刀は流石に近藤殿に頭を下げて安い打刀を借り受けはしたものの手に馴染んでいる訳もなく。
ならば、古刀はどうだ?
雷を放ち関ヶ原を薙ぎ払ったあの脅威の機構、自分たち以外には人のない大橋の上ならば使うにやぶさかではないものの、果たして、重い古刀を抜き払って構えるまでの隙を彦斎が見逃してくれるかどうか。何せ相手は、五間半はある間合いにあってまさかの居合いの構えを取る相手。ならばその抜刀、抜き打ち、体捌きの瞬発は余程の速さなのだろう。少なくともその自身を少年は有しているのだ。
人斬り彦斎。神速の居合いで人を斬る。
北辰一刀を修めて壬生の狼となった剣士四名が忽ちのうちに斬り殺され、薩摩示現の勇猛な剣士が両腕ごと胴を両断された、等々、数々の武勇を江戸の本家道場にて噂に聞きはしていたが、よもや││
(事実だろうさ)
汗が、ひとりでに頬を伝い顎先から落ちる。
(彼我のこの間で、この構えならば。間違いなく)
ならばどうする。
伊庭八郎。
奥の手の古刀は使えず、長脇差も論外、頼みの綱の大刀は借り物で未だ手に馴染まず。
(抜合││居合いの撃ち合いは如何にもこちらが不利)
流れ落ちる汗と興奮と静かな恐怖に昂ぶる体の熱を感じながら、りんに顎先で「後ろへ」と示しながら、りんが視界から消えて背後に回る気配を確かめながら、八郎は合理と術理とを重ねるべく考える。
元より、心形刀流の抜合と呼ばれる居合いは天正香取の流れを汲むものであって、襲い来る敵の後の先を取って鞘から抜き打って牽制、相手の動きを制しつつ続く二撃目で仕留めるというものだ。多くの流派における居合いの術理と大差ない。だが、この少年はどうだ。両脚を広げ、腰を低く落とし、よく見れば小柄で華奢ながらもしなかやさを感じさせる四肢に力を漲らせている。発条もかくやの速度で跳んで、あれは、抜くだろう。この胴を鮮やかに両断してみせるのだろう。ありありと、そのさまが八郎の脳裏に浮かぶ。
「ならば」
短く呟き、刀を抜く││
昨日に続き今日も賭けには勝った。
刀を抜き、構えるまでに少年が襲い来ることはなかったからだ。何かに警戒したか、それとも、構えるまでは待ってやるとでも云うつもりか。どちらにせよ賭けはひとまずこちらの勝ちだった。
抜いた大刀。銘もない安物で、手にも馴染んではいない以上、後の先狙いの繊細な抜合など使えるはずもない。ならばと抜いて、構えるまでだ。上段、八相、青眼、下段、いずれの構えも八郎は選ばなかった。青眼ならばと俄に考え掛けたものの、駄目だ。相手が神速ならば、僅かでも速さと間合いを稼ぐ必要がある。
しかして││
八郎が選ぶのは、異形の構えだった。
半身に体をずらして、右手に構えた刀の切っ先を少年へと向ける。左手は刀身の峰に付かず触れずの位置に置いて、脚を踏ん張り、構えた右手と全身に力を漲らせる。
突きの構え、とは云える。
それも渾身の刺突だ。
神速を相手に応じるならばと、ただただ速さと間合いを有利にせんと編み出した滑稽なまでの付け焼き刃。従来の構えの大半であれば振り上げる動作で遅れを取るし、青眼であれば即座に突きを放てるものの両手構えでは間合いが心許ない、が故に、必死の覚悟で選び取った、それは神速を相手取るにあたって合理を窮めた結果そのもの。
ひとつ懸念があるとすれば。
この構えで、修練のひとつも八郎は行ったことがない。
(男谷殿であれば或いは、と思うが)
自らを嘲って、思う。
我が身が剣聖とまで呼ばれた男谷殿であればと。
(俺がやれるか。この俺が)
そして、刹那││
剣光が月明かりを照り返す。
視界を覆う。
同時に、文字通りの同時に少年の体が橋を疾った。
抜刀しながらの神速の歩法。月明かりを反射したのは少年の刀であって、如何なる理由か赫い剣光と化したそれは八郎を両断せんとまずは夜気を引き裂く。八郎の頭に叩き込まれた欧州仕込みの人体操作理論など紙屑同然と嘲笑うように行われるそれは、成る程、噂に違わぬ神速一刀!
何をも思わず、否、思う暇もなく八郎も応じていた。
構えた右手の刀で突きを放つ。
人体操作理論の教える通りに橋踏みしめる両脚の反発を全身へと伝え、すべての力を右腕へと込めて、刺突。目にしたものに対しての後の先を狙える領域ではないから、もはや狙いの材料は合理のみだ。一刀の元に切り捨てるならば腕ごと胴を狙ってくるはず、という考えの下にあらゆる迷いと「もしや」の一切を捨てて、己であればここへ抜刀を仕掛けると信じる横薙ぎの一閃目掛けて、渾身の切っ先を繰り出す││
金属音!
夜を引き裂き星々を震わす、耳障りな音。
合理が勝った。
八郎の刺突は確かに神速の抜刀と重なった。切っ先と刀身がぶつかり合って、衝撃に、右腕が吹き飛ぶかと錯覚するほどの反動を感じる。
ここを見逃す手はない。柔の蹴りを放ちながら、八郎は同じ動作で背後へと跳び退る。後退には成功したが、当然の如く蹴りは少年に当たらない。だが、八郎のように跳び退ってもいない。
何処だ。赤毛の彦斎。
左右、正面、どちらもいない。
彼は空に在った。
飛天の如く空に跳び上がると数間ほども舞って、莫迦なと口を開く八郎の視界の先にすたと降り立つ。互いの剣と剣が激突した、丁度その場所に。すなわち八郎が跳び退ったのと同時に、少年は真上に舞ってみせたのだ。
「莫迦な」
しまった││
言葉など。隙でしかない!
そして少年が、剣鬼がそれを見逃す筈もない!
再びの神速の挙動。対して、八郎は未だ覚悟も合理もなく構えさえしていない。負けた。死んだ。此処で、己はこの少年に両断されて死ぬか。
「だめ」
何だ。
何だ。
己と少年の間に立つ小柄な人影がある。
剣戟の気配に際して瞬時に半眼の目付を以て、相手の像のみを捉えていた八郎には、すぐに人影の正体を見抜くことが出来なかった。小柄な人影。揺れる、柔らかな金髪。
少年の赫い剣光に身を投げ出した、それは。
りん、だった。
「りん」
やめろ││
再びの言葉を伸べられたのか、どうか。
刹那に交わされる刃と命のやり取りにあって、言葉ひとつを発する暇などありはすまい。それでも八郎はその時そう云ったように思えたし、事実、唇は震えた。
赫い剣光、神速の抜刀を止められはしない。
りんの体を引き寄せることも、跳んで、娘を庇って刃に身を晒すことも。僅かすぎる刹那の間には不可能。
届かない。
手も。声も。刃も。
届くのはただただあちらの刃のみ││
◆ ◆ ◆
『クラヴィッツ・システムが自動稼働しました』
『対象Rに反応したか』
『さて。鋼の女王の考えなど我々には』
『間に合うか』
『死んでいても、別段、価値はそう変わりませんよ。どうせあれは最初から最後まで化け物だ』
◆ ◆ ◆
刹那││
そう、刹那の間さえをも引き裂いて。
赫い刃が鮮血もたらすよりも先に。
星々の充ちる夜空を引き裂いて、現れたものがある。
満月の明かりを半ばほど遮って、浮かぶものがある。
巨体だ。
巨人か。
足下から頭までおよそ十間はある有翼の人型。
五条大橋に呆然と佇んで、その時、八郎が脳裏に思い浮かべたのは護法魔王尊、鞍馬の御山の破邪顕正。
否。否。そんな筈があるものか。
魑魅魍魎、奇々怪々、神仏妖異の類がこの蒸気機関時代の世に降り立つなどと!
ある筈がない。
此処はまったき物理の法則が働く地上であって、怪異の依って立つ魔の園である筈もないのだから。
「あ、あ……あ……!」
りんが震えている。
声を上げて。
顔は見えない。泣いているのか。八郎と同じく巨体を見上げて、見つめて、そのままの姿勢で震えて。
「現れたか。暗密天颶」
刃を止めた河上彦斎の呟く声が聞こえていた。
暗密天颶。
何だ。
何だ。
何だというのだ、《それ》は!
││戦慄きの直後。
││再び、あの光の蝶が八郎の視界を舞った。
(瞬旭のティルヒア弐・つづく)