瞬旭のティルヒア 第1

 一・鉄箱の少女

 

 ずっと昔のことだったように思う。
 幼い私は男谷邸の庭でそれを見上げていたのだ。私の瞳は空に、巨大で抗いがたい優雅さを持つ形態に据えられている││私が思いも付かない理由によって空を飛ぶに到った金属。その壮麗さに先立って、小さな無人飛空艇たちが、白い雲を切り開きながら急降下して風を切る。
 椋鳥のようだった。
 ならば壮麗たるものは何であるのか。人の温かみといったものの一切を感じさせることのない、椋鳥たちを引き連れて空を往く鋼鉄、優雅さと美しさを備えたそれは黒色をしていた。当時はおろか現代の欧州ですら見た者は数少ない試作式のカダス型機動要塞の到来を、私は、夢まぼろしを見るように見つめていた。
 握っていた修練用の木剣が地面に落ちる渇いた音は耳に入ることはなかった。
 そして、その時。
 まだ、空の色は、青く在ったはずなのだ││

      ◆        ◆        ◆

 文久三年。西暦にして一八六三年。
 江戸の空は昏い。
 およそ二百年の長きに渡る完全鎖国を自ら解除した徳川幕府(現在は徳川機関幕府と自称する)の座す、事実上の首都が、消えることなき灰色雲に覆われたこの江戸であった。先進的発展を遂げた各国、主に欧州英国から持ち込まれた高度な蒸気機関技術の流入は、開国から十年という短い時間で、江戸をまさしく「異形の機関都市」へと変貌させつつあった。
 辻には砂埃と共に機関の排煙が立ちこめ、咳き込む者があちらこちらで見掛けられるようになり、特に馬は早死にするようになった。
 それでも機関の恩恵なるものはすさまじい。機関幕府はおよそ二度の飢饉にも耐え得ると試算されるほどの備蓄を得たし、民草の暮らしは目に見えて向上している。機関製の反物は天然のものに比すれば質こそ粗いものの、たとえば江戸の町民でさえ、週に数度は衣を替えることができるほどになった。
 江戸は変わった。この國が変わったのか。

 空は灰色に覆われたが、咳き込む人は増えたが、嘆く人はさほど多くないように思う。少なくとも、彼の周囲はそうだったし、彼自身も、何かを嘆いたことはなかったように記憶している。
 彼。即ち、砂埃と排煙をかき分けながら走る彼だ。
 四ッ谷へと足早に急ぐ若者。腰には大小の二本差し。月代を落とさずにいる者はこの時勢ではさして珍しくもないが、彼の場合のそれは若々しさを増すことにも繋がっている。
 姓は伊庭、名は八郎。諱は秀穎。
 伊庭八郎秀穎。江戸四大流派のひとつ心形刀流の剣士であった。
 「若いねえ」
 男谷信友は開口一番そう云って笑った。
 年若い身で年長者に笑われるのは珍しいことでもないが、男谷とはやや年の離れた若い奥方が可笑しそうにころころと笑うさまには伊庭も赤面せざるを得ない。幼い頃から男谷家には出入りをしていたし、男谷のことは兄とも伯父とも思って慕ってはいるものの、奥方に笑われてしまうと自分が元服前へ戻ったように感じられてしまう。
 「貴方。そんなに笑っては可哀想」
 「お前だって笑ってるじゃねえかよ。まあ、気にするな。八郎よ、お前さんは別段呼び出しに遅れちゃいねえんだ」
 「しかし」息を切って、息を吸って、出された茶を一気に飲み干して伊庭は続ける。「あと二分というところでした」
 「舶来の時計ってのは細かくていけねえ。鐘で充分。前も云ったろう」
 「しかし」
 「まあ、いい。おい」
 男谷が視線をやると奥方がすっと襖の向こうへ消えた。
 奥方に聞かれては不味い話だろうか。伊庭が旧知の男谷信友に呼び出されたのは二刻ほど前。懐中時計によれば約四時間前。夕暮れまでに来られたし、至急であると遣いの者が告げた瞬間に伊庭は御徒町の邸から四ッ谷へ向かって走り出していたのだった。
 伊庭は男谷の言葉を待つ。
 男谷は、何かを云い淀む素振りがあった。珍しい。振るう剣と同じく鋭く真っ直ぐな人間である男谷が、人払いをして、云い淀む。自然と伊庭は緊張していた。
 そして、緊張に相応しい言葉がもたらされた。
 密命、と、男谷は言葉少なに告げたのだ。
 「伊豆国下田。積み荷を受け取って京へと向かえ」
 「京ですか。私が?いや、しかし、何故」
 何故││
 積み荷とは何か。此度のことは何処から下された命であるのか。質問の一切に返答はなかったが、男谷は、床の間から一振りのひどく長大で重々しく仰々しい古刀を掴み伊庭へと差し出すと、ただ一言だけ。
 「上意である、って奴だよ。悪ィんだが」

      ◆        ◆        ◆

 数日後、伊庭の姿は下田にあった。
 薄暗い灰色に覆われた江戸よりもなお暗い、昏い空。
 下田には港があるためだろう。下田機関港。開国してすぐに幕府は英国の主導により下田に大型の港を建造し、大型反射炉を建設した。今や下田は海運と工業の府であり、発展する國の象徴でさえある。人口こそは江戸に勝る都市はないが、江戸よりも下田こそが
 発展の象徴であるとする声は多い。
 木造ならざる建築物も数多い。
 煉瓦造り、鉄筋造り、機関製の人造石造りとさまざまな建物を見ることができる。江戸にも数少ない六階建て以上の高層建築を目にした時には、流石に伊庭も「おお」と僅かに声を上げていた。
 蒸気機関による都市発展││
 引き替えに、この空の色。夕焼けの赫色すら殆ど覆い隠してみせる下田の灰の空に、伊庭は、やはり、特に思うこともない。そもそも物心ついてすぐに、空はこう在り始めていたのだから。
 流石に、例えば風が特に溜まる渋谷の辻で排煙をまともに吸い込んだ折には、こんなもの今すぐに地上から消え去っちまえッと思いもするが、木版刷りの瓦版を駆逐して武家から町民にまで広く親しまれることとなった機関式の『新聞』に目を通せば、機関を疎む気持ちはたちまちのうちに薄れる。
 飢えは消え失せた。人と國とが豊かになった。
 何を疎むことがあるだろうか。
 何もない。そうお上は云っているし、碩学たちもそう云っている。
 「……ただ」
 背の高い下田の街並みを目にしながら、伊庭は囁く。
 西洋式の重い馬車が隣を走っていく音に紛れて誰にも聞こえまいが。
 「日暮れが分かり難いのは、やはり不便だな」
 故に。伊庭は、英国式の懐中時計を持ち歩いている。

 下田代官江川邸。
 伊庭が到着したのは、空が灰色から黒ずむ宵の口の頃合いだった。
 男谷信友から示された場所こそがこの江川邸。御用邸ではなく私邸である。伊庭にとっては馴染み深い侍屋敷の造りは、欧州式の建築物が建ち並ぶ機関化都市下田にあっては目立つと云えば目立つが、伊豆の山々にもほど近い郊外に位置することも幸いしてかさほど悪目立ちしていることもない。ただ、江戸では未だ成し得ていない家の一軒ごとの先進的煙突(機関から発生する排煙を効果的に排出するための機構)の長々とした黒ずんだ姿があったことには伊庭も驚いた。下田で多々見受けられる背の高い欧州式建造物では気にもならなかったが、こうして武家の屋敷に煙突が取り付けられている姿には流石にたじろぐ。
 「見事な煙突です。江戸ではこうも立派なものは見掛けませんね」
 出迎えた用人に伊庭は素直に感じたままを口にしたが、返答なく、これは何か失礼をしただろうかと刹那に恥じ入るものの、しかし心あたりが思い浮かばず、ただただ内心で首を傾げる。下田にあっては指摘すべきことではなかったのだろうか。
 「申し訳ございません」
 用人の言葉はまさかの謝罪。
 何を謝ることがあるのだろう、失礼があったなら詫びるのはこちらですと伊庭は慌てたが、勘違いであることは直ぐに分かった。曰く、下田代官である江川殿は未だ御用邸にて公務の最中であるため伊庭を迎えることができないとのこと。
 「面を上げて下さい。私は構わない。公務であれば尚更」
 特にきついと称されることの多い江戸訛りが出ないように言葉を告げることは、年若く、目上と接することの多い伊庭には難しいことではないが、事こうして気分や面持ちを顕す段にあっては多少煩わしい。それにこの用人の鉄面皮たるや、まるで能面、もしくはまさしく文字通りに鉄の面であるかのようで、どうにか気分を良くして貰えないものかと伊庭は考える││
 「こちらへ。積み荷を先んじて引き渡せと仰せつかっております」
 「下田殿を待っても構いませんが」
 「火急とのことです」
 「そうですか」
 これでは流石に気分も何もないか。伊庭は内心で息を吐き、用人の示すままに屋敷の廊下を進んで積み荷の置き場へと向かう。積み荷と呼ばれるからにはそれなりの大きさなのだろうし、元は船舶か飛空艇の類に積まれていたものに違いない。あまり案じている訳ではないものの、さほど大きさがなければ良いがと伊庭は思う。なにせ、こうして赴いたのは伊庭ひとりであるからには、ひとりで運べる大きさでなくては困るというもの。路銀は男谷から預かってはいたものの、せいぜいが、ふたりぶんといったところ……ああ、なるほど、では、ふたりで運ぶべき大きさなのか?
 事の枝葉に気付かぬは若輩の至らなさよ、と伊庭が己を叱咤するのと用人が「こちらです」と告げるのはほぼ同じ時だった。
 案内されたのは庭園だ。
 緑色を既に失いくすんだ葉の木々が繁る静かな庭園。
 過去であれば月明かりが映り込んだであろう小さな池は、今や黒色にたゆたい水音をわずかに漏らすのみ。下田港からの風は潮と機関の排煙が混ざってなんとも云えない饐えた匂いを漂わせている。
 その、庭園の奥に『それ』は在った。
 鉄の箱だった。
 およそ六尺ばかりの鉄の箱。案内する用人が捧げ持つ行灯の明かりをぬらりと照り返す暗い色は、紛うことなくそれが鋼鉄製であることを告げている。人型を漠然と模した、異様なほどに大きな鋼鉄の箱。それが暗い庭園に横たわっているのは不気味極まる光景ではあった。
 この世ならざる化生が息絶えて石と化した後の姿のようではないか。
 「これは」
 「伊庭さまの積み荷でございます」
 「私の、と仰せか」
 「はい。あなたの積み荷です」
 用人は頭を垂れて伊庭を促す。
 これを持って行けと云うにはあまりに無理がないか、と、伊庭は不審に思いつつも鉄の箱に近付く。鉄の箱。見つめて、ああ、と伊庭は息を呑む。人型であるのは、成る程、不気味な女の姿を彫り込んでいるか、そういう形に鋳造した為であるのだ。欧州暗黒期こと中世の歴史風俗を記した碩学の本で目にしたことがある。鉄の処女とか云われる拷問具にこれはよく似ている。
 伊庭は鉄の箱に触れた。
 そうしようと思った訳ではない。ただ、触れていた。
 何か││
 その後の伊庭が遡って思い起こせば、この時のことを、光で出来た蝶が視界の端にちらついたように思ったと述懐するに違いない。ただ、この時、この刹那の伊庭が思ったのはただ「綺麗だな」とだけ。思いながら指先が動いて鉄箱に触れていた。
 そして鉄箱はひとりでに開く。待っていたかのように。
 誰かに、否、伊庭に触れられるのを待ち侘びて、触れられた途端に、何らかの機構によるものか、機関式機械によるものかは分からぬまでもひとりでに開くのだ。鉄の擦れる音の一切も漏らさずに。
 そこに、あったのは。
 否。柔らかな絹の欧州布団の中にいたのは。

 ││少女。だった。

 南蛮。欧州。英国。当然のように蕃国の由来を思わせる、金髪碧眼の小柄な少女がそこにはいた。
 翠玉を填め込んだ繊細な胸飾りらしきものと一緒に。
 何らかの機構が組み込まれたと思しき鉄鍵と一緒に。
 積み荷は人間だった?
 何故に下田の代官が?
 何故に幕府は上意を?
 何故に男谷は自分に?
 水のただ中で魚が暴れるが如く幾つもの疑問が浮かんでは消え、浮かんでは消え、混乱の極みに立たされたが、どれにも今すぐに答えが出る訳もなく、伊庭の胸中で明確に残った想いはひとつきり。
 まるで、人形のようだ。と。そう感じた心。

 柔らかな金色の髪、高価な玉の如き瞳の色合いは無論云うまでもない。
 白く透き通る肌もそうだ。
 こんなに美しいものが天然自然に生まれ出でるものだろうか。
 けれど、伊庭が思ったのは外見の美しさのせいではない。確かに、あまりに激しいこの世ならざる美しさに圧されて溜息を吐きかけたのは事実ではあるが、それでも、瞼を閉じて眠っているらしき幼い少女の姿は、あまりに。
 あまりに儚いものに見えたのだ。
 たとえば、数年前、勝家の屋敷で目にした高価な西洋人形のように。
 それとも、ああ。
 幼い頃に男谷邸の庭で見上げた、あの時の││
 「生きているのか」
 伊庭の唇から音が漏れる。掠れていた。背後で用人が頷くのが気配でわかりほっと息を吐きかけたが、次の刹那、伊庭は再び息を呑む。
 少女が瞼を開いたのだった。
 長く繊細な黄金色の睫毛を震わせながら、瞼を開いて、ああ、その向こうから現れた瞳の色は碧色。人の目にあらざる色であると思ってしまうのは、欧州の本を幾ら読んでいても、欧州人たちの姿を江戸や下田で観てはいても、やはり、仕方がないのだろう。
 碧色の瞳が伊庭を見る。
 背筋に走る何かに伊庭は気圧されかけたが、耐える。
 熟達の剣士の放つ剣気の類を思うが、まさか、年端もいかぬ幼い少女が背負うものであるはずがない。だから、伊庭は、それが何であるのかを理解しなかったし識ろうともしなかった。ただ、気圧されかけて、ただただ耐える。
 それ故に目にすることができたのだ。

 ││少女が、灰色の空を見上げて。
 ││瞳を黄金色へ変えながら、涙、浮かべるさまを。

 二・東海道と白い背中

 下田代官である江川殿が殺された。
 その報せを伊庭が耳にしたのは、鉄の箱の中で眠っていた金髪碧眼の少女こそが積み荷であると江川家中の者から伝えられ、金瞳の美しさに当てられて惚けきっていたものの何とか我に返り「人を荷とするなどご公儀が許す筈がない」と伊庭が今まさに喰ってかかろうとしている最中のことだった。あらゆることが異様に思える事態ではあった。鉄の箱、異人の少女、変色する瞳、下田代官急逝の報。
 突然の感覚が伊庭を襲っていた。
 まさしく豹変。覆い隠してきたものがまろび出たような。何もかもが奇妙だ。不可解だ。こうして伊庭が話している用人でさえも、まるで今までとは別人のように、例えば、使いの者も武芸を修めた者であるように伊庭には映っていたのだった。
 伊豆。下田││
 であれば、例えば、旧北条家に連なる風魔なりの忍の者か。否、しかしそれはあまりに荒唐無稽な考えに過ぎる。まさか、そんな!
 「伊庭殿。一刻を争います」
 「はいそうですかと云う訳にもいかん」
 「その娘。リンに死なれては困る」
 「りん?」
 「はい。間違いなくご公儀よりの密命でございます。伊庭八郎殿」
 葵の御紋付きの書状を突き付けられながら、あの鉄面皮の要人から尋常ならざる気迫で告げられた言葉は、逃げろ、の一言だった。すなわち直ぐさま下田を離れ逃げ伸びろというもの。積み荷である少女と共に。積み荷である少女を守りながら。積み荷。伊庭は、少女をちらりと見やる。先刻、あの不気味な鉄の箱から姿を見せたあの少女。既に瞳の色は元の碧色に戻っている。この娘が、瞼を開き、空見て、一筋の涙を流しての後、どういう訳か。
 「りん、と云うのか。お前さん」
 「……」
 どういう訳か。少女・りんは、伊庭にくっついて離れようとしない││

      ◆        ◆        ◆

 離れる離れないは問題ではなかった。
 将軍様の花押が捺された書状ともなれば異を唱えることもできず、伊庭は、一路京へと向かうしかない。りん、なる少女が果たして如何なる素性で、如何なる理由で公儀の秘する『積み荷』とされているのかは判らないまでも、刺客があるからには避ける必要がある。
 守れ。とは云われたものの。
 幼い子供ひとりを連れての斬り合いなどぞっとしない。
 迷うことなくりんを背負うと、伊庭は急ぎ東海道へと出た。人通りの多い場所であれば刺客もそうそう目立つ刃傷沙汰には及ぶまいという幾らか甘い判断ではあると伊庭も自覚している。
 東海道。伊勢参りのために歩いたのはいつの頃だったろう、確か元服前のことだったと伊庭は記憶しているが、あの頃に比べると一歩で進む幅が明らかに違う。幼い自分では歩いて父について行くのが精一杯であったが、今は、こうして人ひとり背負って歩いてもどうともない。背負った古刀の重みだけは難儀なものの、りんを背負ったお陰で均衡はそれなりに取れているように思う。
 昼日中であればこうして人の通りもそれなりに多い。街道を行くのは商人や百姓が多く、虚無僧の類がちらほらで、あまり侍の姿を見ることはなかった。行き違う者が長物を差していればすぐ気付くのは僥倖か。
 江川邸を出る頃は夜だったが、既に、空は明るい。無論、蒸気機関群の導いた見慣れた灰色の空ではある。両腕が塞がっているために懐中時計を見ることは叶わないが、恐らく、時刻は午に差し掛かる頃か。
 一息吐いて伊庭は意を決する。
 刺客に襲われたことなどついぞないが、先刻の江川邸に満ちていたような張り詰めたものを感じることもない。
 そろそろ頃合いか。わざとらしく咳払いをひとつ。
 「さてと。色々と、お前さんには聞きたいことがある」
 「……」こくり。背中の向こうで少女が頷く。
 「云い難いこともあるか」
 「……」ふるる。少女が首を振る。
 「云えるのか」
 「……」
 こくりとまっすぐに頷くのがわかった。
 公儀の密命であるからには、きっと、この娘も何もかもを隠すのだろうかと身構えてはいたが、否、どうして素直なものではないか。これなら話は割合に早いかも知れない。
 「じゃあ、訊くぜ。こりゃあ一体どういうことだ、あんたみたいな人ひとりを指して『荷』とは如何にもおかしい。あんたは、一体、何だ」
 「……」
 「おや。黙りかい」
 これは困った。
 とは言え、差し迫ったものでもない。
 伊庭は奇妙な感覚に陥っていた。男谷邸で密命を受けて重い古刀を用心のためにと渡されて、奥方からお茶をいただき、御徒町の父母の邸ですぐさま旅装を整えて伊豆下田へと。鉄の箱を開いてりんを見、そうしてお茶の一杯もいただかないうちに江川殿が暗殺されたとの報を受けてあれよと代官私邸を追い出され。今は東海道で異人の少女を背負って歩いている。
 人通りの多いうちは虚無僧の被るような編み笠をりんの頭に被せていたものの、どうにも人が少なくなったのを見計らって笠を取り、こうして話し掛けている、今という刹那。奇妙だった。
 こちらが何かを云う度にりんは頷いたり首を振ったり。
 その都度、明るい金の髪が背後へ視線をやる伊庭の瞳に映るのだ。
 「しかし」我知らず口にする。「この世ならざる美しさ、だな」「……っ」
 何だろうか。背負った小柄な体が強張った。
 柔らかで小さな体。異人、欧州人というものは背の高いものであると伊庭は識っていたし、事実、江戸で目にしてきた彼らはそうだった。草履や草鞋ならぬ靴なるものも一役買っているとは聞いていたが、それにしてもやはり彼らは背が高く、下田の町で馬車に乗っていた彼らも違わず長身であった。
 しかし、りんは小柄だった。少女であるためか。
 そう言えば年の頃は幾つなのだろう。概ね長身の彼らであるからにはこれくらいでまだ齢はかぞえで三つや四つだったりするものか?
 「そういや、お前さん。年の頃は幾つだ」
 「……」返答がない。
 「これぐらいは答えてくれても良さそうなもんだがな。駄目なのかい」
 「……」
 「ん」
 背負った体。強張ったままの体が今度は温かくなっていく。熱でも出たのかと思いかけた伊庭、否これは違うなと思い至って一言。
 「ああ」鷹揚に頷いて「用を足したいんならそこいらの草むらで」
 「……っ!」
 背中で大いに暴れられた。
 重い古刀が引っ張られ、伊庭、大いに困る。刀が大小二本だけじゃあと男谷殿から手渡されたものだが、今は、ただただ重く、困るだけであった。
 ││そうこうしながら。
 ││りんが唖であると気付くのは、少し後のこと。

      ◆        ◆        ◆

 天竜川。
 尾張藩名古屋城下へと通じる東海道は必ず此を渡る必要がある。
 流石に、名だたる天竜川、橋の類は掛かっていない。英国式の機関技術によって鋼鉄の大橋を掛ける計画が尾張藩では持ち上がっているとは聞くものの、何時のことやら。少なくとも伊庭とりんが目にする天竜川は、前日までの雨模様も相俟って水嵩が増して、果たして橋などあっても流されてしまうのではないかと案じるほどの勢いで。
 「こりゃ川が落ち着くまで待つしかねえですぜ、お侍さん」
 渡し守の多くはそう云って渡河を断ったが、漸く、四度目に訪ねたいかにも無頼と思しき筋骨逞しい片目の渡し守に快諾を貰い、ふたりは天竜川の渡河に挑むのだった。
 とは云え実際に伊庭やりんが何をすることもない。
 水嵩が増して荒れる川に挑むのは逞しい渡し守であって、伊庭はそれを見守ることしかできない。りんは編み笠を外してその様子を見たがったが、流石に、人目に付くところで異人の姿を晒すのは気が引ける。如何にも刺客に襲ってくれと云うようなもの。
 しかし、最早、自分の顔は割れているだろう。であればこうして形ばかり編み笠など被って意味などあるものだろうか。気休めであっても何もしないよりはましか。気休め。果たして誰の気休めか。
 「そうだな」
 息を吐いて伊庭はりんの編み笠を外してやる。
 中から現れたのは、輝くような、りんのはにかむ笑顔であった。
 時が止まる。もしも懐中時計を開いていたなら、秒針がぴたりと止まるのを目にできたかも知れない。無論、止まったのは、伊庭ただひとりの時であるのだけれど。
 「……」
 笑顔のまま、りんは頷いた。
 有り難うとでも云うつもりか。きらきらと水面に照り返す灰色雲越しの陽光などよりも遙かに眩く、金色の髪を輝かせて、りんは、溢れんばかりの天竜川とそこに漂う小舟のさまを見つめて喜ぶ。声こそないが喜んでいるのは明らかだった。
 笑顔であるからだ。
 このように笑う顔は近頃はついぞ見たことがなかった。幼い頃であれば近所馴染みの悪たれたちと遊ぶ中で、こんな顔をよく見たように思うものの、伊庭の父が当主を務める心形刀流の男たちが集う道場では見掛けることのできない顔だった。
 「随分いい顔で笑うんだな、お前さんは」
 「……?」
 「否。何でもない」
 伊庭の胸に僅かな痛みが在った。
 訳は考えずとも分かる。自分は公儀の命で、この娘を。
 ││物思いに耽るのはそこまでだった。
 ││刹那、天竜川の水面を割って四つの影が襲い来る。

 確かに││
 刀は三本用意しておいて良かった。
 銘はないが佳いものであると日頃より思っていた刀の一本は、川から飛び魚の如く跳び上がって小舟の伊庭とりんへ襲い掛かった連中の、奇想溢れる戯作本やら馬琴の本やらから抜け出てきたかの如きいかにもな絡繰の鎧を断ち割った時に、ふたつに折れこそしなかったものの、見事に刃こぼれをしていた。
 『刀が大小二本だけじゃあいざという時に困る』
 腕の未熟を思いつつも、男谷の言葉が的中したことに感嘆しつつ。
 あまり長くはそれを考えることもなかった。
 気になることは他にも幾つか。りんが何者で、何故に『積み荷』と公儀が扱うのか、という最大の懸念は兎も角も。如何にも奇天烈な風貌の刺客どもは何処かの忍であるに違いない。思いつつ、否、思う一切を止めて、伊庭は襲い掛かる刺客の一人目を横薙ぎの抜合で打ち据える。剣術とは本来、地面に立ち会って相対した敵を想定したものだが、空を舞い襲い来る刺客ひとりを伊庭は見事に撃ち落とした。相手の顔面を狙って抜き放つ一撃の型は絡繰鎧を叩き割る。抜いた刃が肉を穿つ感触こそあったが、臓腑や骨を断った感触はない。殺し切れてはいまい。一人目の刺客はあえなく川へと叩き落とされる。
 二人目の刺客へは抜刀した勢いで跳ね上がる刀に左手を添え、膂力と遠心力(欧州の碩学書で伊庭はこの名を知った)を込めて一撃。これも水面へ叩き返す。三人目には刀ではなく柔の業で撃退せしめた。即ち、蹴りだ。既に船へと降り、木製の絡繰鎧の手甲から伸びた剣呑な黒い滴でぬめる三本の鉄爪で襲い掛かる三人目の懐へ潜り込む勢いで伊庭は姿勢を低くして突進し、肩で相手の胸を突いて爪振るう腕の勢いを削ぎ、蹴り込んで、これもまた川へ。
 最後の四人目が背後から襲い掛かってくるのは了承済みだった。顔を僅かに横へ向け、すぐさまに鋭く半眼の目付を行って刺客の姿をぼんやりと捉える。正伝香取神道の流れを汲む流派に多いこの半眼、目付、視界の端であろうと、中央であろうと、相手をただぼんやりと捉える。是により敵のあらゆる動作を感知し対応するといった術理だが、伊庭は見事、左腕の鉄爪を振り上げた四人目の刺客の像を捉え、半ば意識の外ながら、幾万を越す型稽古の末に身に染みついた通りに右手の刀で自らの左脇腹をするりと刀の峯でなぞり、背後へと突き立てる。
 くぐもった息と鈍い手応え。確かに刺し貫いた。
 こうして伊庭は刺客四名を撃退し、ただひとり小舟へと落ちて醜態を晒した四人目へと、静かにとどめを刺そうとしたのだけれど、心形刀流の源流のひとつといえる一刀流の教える通りに刀の切っ先を相手の心の臓へと潜り込ませようとした手は止められてしまった。
 「……」ふるる、と。首を振る少女に。
 りんは、伊庭の袖を強く引いて手を止めたのだった。
 ││何故?
 成る程、確かに一名のみであるなら事の裏を訊ねるためにも生かしておく必要がある、と伊庭は事実として初めての実戦に猛り昂ぶる心を抑えながら刹那に感心しかけたものの、あろうことか、りんはそのまま、当然の顔をして││果たしてそう捉えてよいものか伊庭には断言しかねるものの││捕らえた刺客を逃がしてしまった。
 逃げろ、という仕草か。
 それともただ「あっちへ行って」といったものなのか。
 どちらかは分かる筈もない。
 りんは唖だ。
 言葉を話さない。
 伊庭は、ぽかん、としてしまった。
 是はどういうことなのだろうか。
 つまり、りんは刺客の側に立つ者であるということか。ならば公儀は無理矢理に何処からかりんを奪ったということなのだろうか、と、やはり刹那に伊庭は思いかけたものの、りんは次には目元に涙の雫さえ浮かべながら「怪我はなかったか」といった素振りで伊庭へと駆け寄るのだ。これには、伊庭も、訳がわからない。
 ほんの刹那のことだったが、如何にも不可解極まることではあった。

 そうして││
 りんの伊庭に対する心配の素振りは只今現在へ至るも続き、刺客の襲撃にあっても顔色ひとつ変えずにいた渡し守の小舟で何とか無事に水嵩増した天竜川を渡りきり、尾張藩一の街と名高い名古屋城下へと至り、それなりに値の張る旅籠の一室へと入った今でさえ続いている。ぴったりとくっついて、何をしようとするにも、首をふるると振って「無理をするのはよくない」とばかりに伊庭を押し止めて自分で何かをする。
 やれ、旅装を解くにしても。
 やれ、茶のひとつを淹れるにしても。
 やれ、刀を壁に立て掛けるにしても。
 伊庭は別段怪我をした訳でもない、突進からの蹴りを二人目の刺客へ放った折に左足の筋を些かひねった程度。
 まあ、都合が良くは、ある。
 川での襲撃以来、ずっと何者かの視線を感じている。
 それは、そうだろう。特に策もなく街道を進んでいるだけだ。山野を自在にかき分けて進むすべを得ている訳でもない伊庭にとっては、他に、どうのしようもない。一度追いつかれてしまえば、後は、剣で以て応じ続けるしかないところ。
 斯様な事態であるからには都合が良かった。相変わらずこうしてぴったりくっついて離れない、どころか以前より離れなくなったりんは、都合が。良い。
 都合が。
 良い。
 の、だが││

 「と言っても限度があるだろう!」
 「……?」りんが首を傾げる。
 ぽとり、と綺麗な金糸の髪から幾らかの雫が畳に落ちる。
 「な、なぜ、脱いでいる!」
 「……」障子向こうを指さし。
 りんの指さすその先は、嗚呼。
 名古屋城下の大きな街であるのだしと伊庭が金を積んで旅籠の一番佳い部屋を取ったものだから、小さな湯殿が、部屋の脇にくっついているのだ。障子の向こうにそれは在る。ああ、そうか。風呂か。なるほど風呂であったか。風呂なら仕方ない。それは分かる。だからこそりんの体はしとどに濡れている。
 そうだ。きらきらと、輝くように。
 「ま、まさか齢が三つや四つで風呂の入り方が分からん訳でもあるまい、あ、いや、そうか、異人では分からんか」
 「……?」
 「と、ととともかく何か羽織るものをだな」
 面倒がらずにきちんと教えておけば良かったのだ。
 今更ながらに伊庭は後悔する。身振り手振りで「ひとりで入れ」と風呂を示して、こくりと素直に頷いたりんに、一抹の不安をも覚えることはなかったのだ。しかし、成る程、今となっては。あれやこれやの風呂の道具の使い道などりんには分かるまい。だからこそ、こうして戻ってきてしまったのだろう。
 「い、いいか、こちらに来るな。ああ、だ、だが風邪を引く、何か羽織れもしくは風呂へ戻れ。りん、こちらへは来るなよ」
 「……」
 寂しげな顔。
 ひとりでは寂しいですと碧の瞳が告げている。
 否。否。そんなはずがない。伊庭は視線を逸らして言葉をひとつ。
 「そ、そんな、顔を、するな」
 己でも可笑しなほどに赤面しているのが伊庭には分かる。うぶにもほどがあるではないかと心根に活を入れようとしても、できないものはできないのだから仕様がない。これでも心形刀流当主の倅、元服を過ぎた江戸の男として所謂女のことをまるで識らぬ伊庭でもないが、吉原に数度ほどは顔を出した、と云うよりも兄弟子や男谷殿の付き合いで不承不承ついて行ってそれなりのことをいたした程度の身だが、それでも、根からのうぶとは訳が違う。
 であるのに。何故、こんなにも。
 顔が火照ってしまうのか。
 輝く裸身を一目見ただけで、濡れた、白い肌。膨らみかけたささやかな胸。金の髪。どうして驚いているのと云わんばかりの碧色の瞳。ああ、無垢で清らかなものがこちらを見て首を傾げている。
 「……?」
 「近付くな!」
 「?」
 「うわあ肌白い」息と共に要らぬものまで流れ出そうな声で「い、いや、濡れたまま畳に上がるな!近付くな!」

 ││ちなみに。
 ││着付けも、りんは、自分ではできなかった。

 三・《夜明け》との対峙

 ││流石は四大流派、心形刀流の御曹司。お見事。
 ││私も北辰一刀流を囓ってましてね。
 ││ああ、そうだ。
 ││あれはいただきますよ。
 ││何です。ああ、何故、前もって伝えたか?
 ││そりゃあ。ね。
 ││喧嘩を売ってるに決まっているじゃあないですか。

 それは、名古屋城下の旅籠にて一夜を過ごした折、厠の前で出会った見知らぬ長身の男が投げ掛けてきた言葉だった。黒ずくめの風貌の如何にも無頼と云った体で、総髪に似て非なる髪が特徴だった。ざんぎりとでも云うのが早いか、碩学書で目にした遠く阿弗利加に於ける『百獣の王』を思わせる縮れた髪にはある種の魅力として伊庭に目に映った。
 言葉は明らかに敵意あることを示してはいたが、ある種の清々しさを覚えたのも事実で、腰に差した長脇差でその場で男を切り捨てるという考えはついぞ伊庭の脳裏には浮かばなかった。
 それも男は分かっていたのだろう。口元に涼やかな笑みを浮かべながらすれ違うと、後ろ手にひらひらと振って去っていったのだ。
 果たして、伊庭は男と再会することになる。
 東海道を更に進んで尾張名古屋を抜けた先、美濃路へと入り、垂井を越えて関ヶ原へと至ってから暫くの後。思い返してみれば、名古屋へと入ってからはずっと雨が降っていた。しんしんと静かな雨の降り注ぐ中、なんとはなしにりんへ「あれが尾張城」
 ここからが美濃地」などと独り言まじりに説明をするのが伊庭の慣習になりつつあったものだから、当然、関ヶ原はどういう場所なのかを説明しようとした。
 その時。まさかの出来事があった。
 「いくさは人の世の常だ。長い間この國にはなかったが、いずれ」「……」
 裾を掴み、手を引かれた。
 まさかの表情がりんに浮かんでいた。
 伊庭の初めて見る顔だった。
 眉根を寄せて、伊庭を見つめながらふるると首を振って。
 「りん?」
 「……」
 嫌がった、のだ。そういえばこの娘が何かを拒むさまを目にしただろうか。否。ない。
 旅を始めてから数日。初めてのことだった。
 かつて、およそ二五〇年前に、多くの侍が鎬を削り命を落とした『いくさ』があったのだ、と、伊庭が口にしはじめてから、みるみるうちにりんの表情は曇り、ああ、この顔になったのだ。
 悪趣味きわまる鉄の箱の中で瞼を開けて、江川邸の庭園のくすんだ緑色をした木々の葉の隙間から見える灰色の空を見上げ、見つめた時と同じ、あの、涙浮かべた時と同じ顔。そう伊庭には思えてならない。
 りんは哀しい顔をしていた。
 そうして、明確な意思を伴う仕草で、やめて、と示した。
 言葉はない。話そうとした伊庭の口を、両手で覆った。
 「……」ふるる、と、りんは首を振る。
 「いくさの話は、嫌いか」
 「……」
 何も言わず動きもせず。ただ眉根寄せて、流さずとも涙を浮かべて。
 嗚呼、そうか。この娘は。
 伊庭は何かをひとつ腑に落とす。

 ││そして、その時だ。
 ││あの男が再び姿を見せたのは。
 「そういうものだよ。人間とは、どの時代でもそういう風にしか生きられないのだ」
 長身の男。総髪に似たざんぎりの頭。
 男は、酷薄としか云い得ぬ笑顔を浮かべていた。
 「極東の果てであれば或いはとでも思ったかい。残念だが、そういう奇跡の類は起こり得ない。分かるね。リィナ」
 背後には、雨を受ける、絡繰を纏った刺客十余名。
 更には、ああ。何だ、あれは。身の丈十尺を優に越す、異形きわまる蜘蛛の化け物が男の傍らに立ち尽くしていた。初めて目にする者であれば物の怪か化生の類かと目を見開き震え怯え尿を漏らし我を失っているだろう。けれど、伊庭には分かる。あれは、あの異形なるものは、確かに化け物ではあるが物の怪の類ではない。きつい排煙の匂いとそこへ混じる濃い鉄の匂い。たちまちに激しくなってゆく蒸気機関の駆動音。機械だ。恐らくは英国、大英帝国式の最新式の蒸気機械、けれども、あんな異形のものなど聞いたこともない││
 「屠れ、鋼鉄のスマウグ」
 男の声が疾る。
 異形の鋼鉄蜘蛛はたちまち伊庭に襲い掛かった。
 伊庭の修めた剣技と術理は人を斬るためのものであって、人ならぬものと相対するためのものではない。それでも、半眼の目付で動作のすべてを把握せんとする伊庭は、しかし、動きが把握しきれない。鉄蜘蛛の動作に半歩遅れて応じるが、後の先で通じる相手か否か。りんを咄嗟に抱えながら伊庭は跳ぶが、重い鉄爪の一撃目を、躱しきれない。雨でやや重くなった編み笠が吹き飛ぶ。袴が裂ける。血が落ちる。
 「……っ」
 りんが息を呑む音が聞こえた。
 なるほど、もしも声を聞くことがあればと伊庭は思う。
 そう思わせるほどに、息を呑むだけの音でも耳に心地良かった。何を考えているのだと胸中の片隅で想うものの、何、構うまい。例えば、こう云う時はそれぐらいのほうが佳いこともある。先手を打たれた怒りや後の先を取り切れぬ未熟さに震えるよりは、余程、ましだ。
 鉄蜘蛛を睨みながら、伊庭はゆっくりとおちついて姿勢を正してゆく。
 天竜川で刃こぼれした大刀では無理だろう。
 ならば長脇差。これは、あの怪物を制した後の十余名のために取っておく必要がある。ならば。男谷より受け取った背負いの古刀を抜き放つ。伊勢の神や八幡や権現などのさまざまな札が貼り付けられた仰々しい鞘から、それを、伊庭は抜いた。一息に抜ききってしまう。呆れるほどに重く、長く、どうせ抜合(居合)のできぬ得物ではあるのだ。鞘に納めていて扱えるものでもない。
 かつては騎馬を馬ごと断ち切ったとさえ云われる古刀、太刀の類。
 けれども、この関ヶ原の場には何よりも相応しくあろう。
 「……随分とまあ賑やかな北辰一刀だ」
 「よく云われる」
 「ならばここで最後としよう」
 「云いますね。伊庭八郎」男は薄く笑う。鮫の笑みだ。
 「名乗らぬ程度の相手であれば、そう云いもする」
 伊庭は古刀を構える。重すぎる。二尺数寸の大刀等とは比べものにならないほどの重みであったが、辛うじて均衡が保たれているのは、折角の古刀に対して恐らくは男谷殿が取り付けたのであろう柄の金属塊のせいだ。感触からすれば柄そのものも鋼鉄と思しい。呆れた奇天烈刀だ。こんなに重いものを取り回す流派など、江戸はおろか、この國の何処を探してもありはしないだろう。
 「南無八幡」
 大菩薩。胸の裡で続きを呟く。

 りんは、いるだろうか。
 涙の顔を思う。もしや、自分とは離れてどこかへ行ったろうか。それならそれで構わない。むしろそのほうが彼女の安全のためには佳いだろう。公儀の側にいるのがりんのためとは、必ずしも、思えない。
 けれど、りんはいた。
 肌の熱さが伝わるほどにぴたりと寄り添って。
 何故感じなかった?こうも、寄り添われて?
 嗚呼、成る程。丁度切り裂かれた左太腿。左脚。その代わりに、りんが伊庭を支えていた。それを気付かせないほどの自然さで。
 「すまん」
 返答はない。
 代わりに、異形の蜘蛛の向こうであの男が言った。
 「諦めろ。伊庭八郎。どうせ、是よりは夜明け(Crack of Dawn)だ」

 ││伊庭は古刀の鉄柄を強く握り込む。
 ││刹那、激しい雷鳴と光芒が関ヶ原を蹂躙した。

 四・空

 「戦闘用の碩学機械一基を投入致しました」
 長崎異人街。英国式の人造石造り製法で形作られた冷ややかな邸宅のテラスにて、夜の黒色に昏くたゆたう長崎機関港を望みながら、その人物は特殊な通信機械を口元に当てて微笑んでいた。
 この時代、未だ音声による電信通信技術は確立されていない。電信士が最も華やかであった頃だ。
 けれどもそれを可能とする機械は存在する。碩学。そう称される発展的にして驚異的な頭脳を有する学究の徒たちは時代の平均的科学技術を遥かに超える機械や技術を生み出すことがある。その天才的奇想や独創性ゆえに量産性には著しく欠けるものの、碩学の製する機械すなわち碩学機械には同じ重さの黄金よりも価値あるものとされている。欧州では既にそう扱われているし、いずれこの國でも遠からずそうなるだろう。
 ただ、これらの碩学機械を指して、兵器、兵装、武力のように呼び慣わす国家はない。故に、この微笑む男の属す先は国家ではない。
 西方碩学協会。もしくは《結社》とのみ呼ばれる秘密結社こそが彼の崇める対象であり属する処であるのだった。
 「ええ。はい。勿論。滞りなく」人物は笑う。
 確かに人間の表情ではあるのにどこか無機質を思わせるのは何故か。
 鮫の笑みである故だ。笑うはずのないものが、そうしている。世界の歪みを感じさせる表情ではあった。
 「雷電兵装を所有したサムライがひとり。ええ。何とも皮肉なことに《緑の石》と《鍵》を有した対象Rに同行しているようでして。ああ、それは勿論。そうでしょうとも」
 肩を竦めて人物は続ける。
 屋敷付きのハウスメイドに明日の朝食はどうなさいますかと尋ねられた時にも同じ素振りをしていたが、つまり、その程度のことだった。
 「この程度で対象Rに死なれては困る」

      ◆        ◆        ◆

 まさか││
 まさか、あの冗談じみた古刀にあんな仕掛けが為されていようとは、思う筈もなかった。驚きはしたが、同時に、可笑しくも思う。笑えるだけましだ。生きているということでもある。辛くも勝ちを収めたということでもある。
 かくして、伊庭は関ヶ原における再度の襲撃を躱した。
 青眼に構えた古刀から放たれたのは光芒、雷鳴、それらを纏う刀身そのものであって、撃ち込まれた四尺の鉄塊は鉄蜘蛛を完膚無きまでに砕き尽くしたのだった。超電磁式射出刀なる雷電兵装であることを伊庭が識るのはずっと後のことであって、この時、ただただ伊庭は八幡神とは雷電の神であったかと驚嘆するのみで、この古刀がある種の機械装置であるのかと理解し膝を打ったのは鉄蜘蛛を失った刺客たちが影に消えて退いてから暫く、懐中時計で示されるところの十分ほどの後であった。
 そして、りんに尚もぴたりと寄り添われて支えられながら、山を越えて鳥井本宿に差し掛かろうかという頃。
 漸く見えた。
 琵琶湖。初めて目にすれば海かと見紛う人もいるだろう。
 りんがどう思っているかは、未だ一言も放つことのないあれが、実際のところ、どう感じ、どう思っているかは分からない。だからこそ伊庭は想い、考える。付きまとう疑問の類は今や巨大なまでに伊庭の胸の裡に広がっていた。
 この先も分かることはないのかも知れない。否、そうだ。分かるはずもない。遠く、湖越しにはもう京の都の姿が見える。あすこへ辿り着けば己の役目は終わる。公儀やあのざんぎりの男たちにとって何かしらの価値がある少女、りんが、一介の幕臣もどきであるところの自分と再び関わることなど有り得ようもない。機関幕府とは巨大な組織だ。ひとりの疑念や執着を満たそうなどと考えるはずもない。
 けれど。
 (それで良いのか。伊庭八郎)
 恩がある。命を拾ったのは、りんの支えがあればこそではないか?
 それだけか。
 恩だけか?
 それだけではないだろう。
 (さてね)
 さて。たとえば、この身が││

 ││ !

 何だ。何かが聞こえた。
 伊庭は顔を上げる。気付かぬうちに俯いていたらしい。うむと顔を上げて、分かったことが幾つかあった。まず、ひとつは雨。長く続いてふたりに降り注いでいた雨は既に上がっていた。暗く澱んだ雨雲が晴れて、ああ、そして次なるものが目に入る。

 それは空だ。
 過去には常にそれが空であったものだ。
 もうずっと昔のことのように思えるけれど、こうして目にすると、何か、感慨のようなものはある。空の色。あの時と同じ色だ。人の温かみといったものの一切を感じさせることのない、椋鳥たちを引き連れて空を往く鋼鉄、優雅さと美しさを備えた黒色の試作式カダス型機動要塞の向こうに確かに広がっていた、伊庭が、かつて夢まぼろしを見るようにぼんやりと見つめていたあの時と同じ色の空。
 澄み渡る青色の空。
 それが、京のちょうど真上に広がっているのが見える。
 そして。
 「ほら、みて、ハチロウ。そら、が……!」

 ││鈴の音のような声だった。
 ││青空を指して、あの、輝くような笑みと共に。

      ◆        ◆        ◆

 それほど昔のことのようには思わない。
 夜明けを名乗ったあの男との三度に渡る対峙、あれより直ぐに入った京の都で出逢った『誠』の一文字を背負った数多の剣士たちの横顔と強き想いの数々、痛みと共に永遠に失われた右手、既知の何処の大国とも異なる機関の群れを引き連れた勇壮なりし大西郷、あえなく散りゆく白虎隊の少年たち、函館の空を埋め尽くす試作型機動要塞群。翠玉の首飾りと機械鍵。そして、赫い瞳を輝かせて哄笑する榎本武揚。
 すべてを昨日のことのように私は思い返すことができる。私の瞳は今もさに、抗いがたい優美さを持つ金色の眩さに据えられている││私が思いも付かない理由によってかたちを得るに至った何か。その美しさに先立って、小さな光の蝶たちが今も彼女の周囲を舞っている。
 私は思い返すことができる。
 私とリィナ、否、りんとの日々のことを。

 過去に瞬いた旭日の如き、鋼の女王の眩さを││

(瞬旭のティルヒア壱・了)

 まてよ君迷途も友と思ひしにしばし遅るる身こそつらけれ││