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──それは、20世紀初頭のどこかでの出来事。
──それは、北央歴にして2210年代のいつかの出来事。
鋼鉄(クローム)で構成された暗がりの部屋がある。
部屋中央に位置する祭壇が如きある種の“機械”の上に佇み、たゆたい、柔らかな印象を発し続ける天然自然ならざる柔らかな光と、肘掛椅子(アームチェア)に腰掛けた若い男、ふたつの何者かが姿を見せる場所だった。
微かな音が響いていた。
音量自体はさして大きくないものの、地の底から届くかのような重い響き。
それは機関音だ。蒸気機関が稼働する音。文明の足音、呼吸音か。
機関(エンジン)なるものは190X年たる現代の人々の象徴ではある。
暗がりを照らすもの。灯りをともすもの。未知と無知とが混ざり合う夜の暗黒を切り拓いてあまねく世界に文明の灯りをもたらすこととなった、まさしく現代文明の原動力。
輝く白光そのもの。
ならば暗がりとは、夜の暗黒とは何か。
それは幻想だ。
文明と叡智の灯りを手にする以前の人類すべてが有していたもの、世界に対する理解そのものであったはずの無数の幻想たち。すなわち、在らざるものたち。文明の投げかける輝きの中では目にすることさえあるはずもない、夢まぼろしのもの。
遙かな過去──
人が、それら幻想と共に在り続ける時代は確かにあった。
自然と、幻想と、神々とが共に在り続ける時代?
精霊と、妖物と、深淵とが共に在り続ける時代?
オカルティストたちの語るまやかしがあらゆる人類社会全体に通用していた時代。
けれど、人類が文明という灯りを手にするに伴って、それは姿を消していった。
光に追いやられる影のように。そう、暗がり、暗黒、夜の闇のように。
排煙の灰色に掻き消される、星々のように。
そして。
我々は見つめる幻想を失った。
我々の現実には幻想はなく、今や、夢のさいはてで出逢うのみ。
深淵に眠る真実と狂気は、多くの場合、誰も彼もに忘れられた。
精霊、妖精、神々、さまざまな呼び名があった。
かつての時代、人々の営みと共にあった古きものたち。
それらは現実の生物等ではなく、あくまで人々の夢見た幻想に過ぎない。
けれど。
ただ一柱、黒の王、だけは──
「黒の王。
あれが何であったのか。何であるのか。
それを知る者は《結社》こと《西インド会社》の人間にもそう多くはない」
肘掛け椅子に腰掛けた遮光眼鏡の男は、唐突にそう述べた。
柔らかな光を赫い遮光硝子に映し込みながら。
『黒の王』
光が反応し、声を告げる。
柔らかに、大いなる興味を示す揺らぎを伴いながら。意思を示し、正しく音声ならぬ不可思議の声を放ち、光は会話する。失われた空がかつてもたらした光に、よく似た、まったく異なるものは語るのだ。
ゆらめく幻想のように。
這い寄る異形のように。
『それは何者ですか』
「人間ではない。
きわめて概念的な存在だと《結社》は結論付けている」
『概念』
「そうだ。あれは、漆黒だ」
『ならばそれは形而上的な存在に過ぎず、
幻想であり、世界に、人に、物理的な影響をもたらすものではないのですね』
「そうでもない」
『──?』
「理解を超えたもの。
人智の及ばぬもの。
それを例えば幻想と呼ぶならば、確かに、そうだろうとも」
男は肩を竦める。
その仕草は、立ちこめる機関の排煙に対して悪態を吐く機関工場労働者たちのする仕草によく似ていたが、柔らかな光はそれに気付くこともない。
「影響をもたらす。違うな。
まったく違う。
どころか、あらゆるものがあれの理と法則の一部である可能性もある。たとえば遙かな過去、永久無限に連なり重なり増殖する無限複層宇宙の幾つかを、時間と空間と因果を超えて奴の“漆黒”は喰らったが、それさえ、或いは」
『──?』
「わかるまいよ。
お前には、無理だ」
真実を語るように男は言った。
表情には、何かを激しく憎む強い感情が見える。
本来は見せるつもりのないそれが、隠しきれず、遮光眼鏡の奥で鋭い眼光が疾る。
『わかりません。
であるが故に、入力者であるあなたよ。
私/我々は、情報書庫(データベース)を検索する必要性を感じています』
柔らかな光の周囲には何かが浮かんでいる。
おとぎ話のように、それは輝く平面の四角形の群れだ。暗がりの中に浮かび上がる発光する複数の四角形はいかにもオカルトめいた光景ではあったものの、実のところ、ただの機械装置に過ぎない。最新の“気晶画面”なる、特殊な機体を利用して像を結ぶ映像装置が総じて6つ、ただ起動したものだ。
画面6つ。
そのうち4つには、蒼天や自然ならざるクラッキング光などが描き出されている。
残る2つに関しては、どれもこれもが砂嵐の如き無機質なものしか映していない。
けれども、5つ目。
5つ目の画面が何かを映し出した。
それは──

──黄金瞳の少女がひとり。子供がふたり。
──そして、少し離れた場所から彼らを見つめる背の高い男。黒色の、男。
柔らかな光が激しく乱れ、掠れる。
それは、何かに怯え震える人間の表情を思わせる。
『これ、は、何、です、か』
「さてね」
『なぜ、私、は、これほどまでに、動揺を、して』
「目を逸らすな。
眼球などあるまいが意味は“わかる”だろう」
『し、か、し……』
「耐えろ。見つめるがいい。これが真実だ。
あの男は黄金瞳を見ている。それだけが、たったひとつの確かな真実だ。
大階差機関(ディファレンス・エンジン)にかけても回答は算出されん。
黒い男は、この時、1906年当時、こうして黄金瞳を見ていた」
『黒、い、男』
「そうだ。黒い男だ。
黒。暗がり。暗黒。闇。深淵。夜。宇宙。幻想の果て。漆黒」
『……』
柔らかな光は何も言えない。
ただ、激しく揺らぎ、瞬き、掠れて消えかけもしたが、言葉を発することがない。
光は何かを感じただろうか。わからない。
そして、最後の、6つめの画面が本格起動する。
映し出されるのは──

──銀器を磨く女の姿だった。
──大英帝国の男性用陸軍服に身を包んだその姿、凛々しくも、美しく。
柔らかな光が激しく明滅する。
それは、賛同の意を主張すべく声を荒げる人間の仕草を思わせる。
『この、女性、は──』
「わかるか」
『人間ではないのでしょうか、彼女は。
わかります。私/我々にはどうしようもなくそれがわかってしまう』
「だろうな」
『けれど、ああ、何かが、私/我々たちとも違う…?
この表情。瞳。その奥に隠されたある種の“揺らぎ”は私/我々にはない。
これ、は……きっと……』
柔らかな光は興奮しているようだった。
明滅しながら、声が続く。
『これ、は、想い……?
ならば彼女は人間なのですか。それとも私/我々と同じもの、ああ、なぜ』
「お前が考えろ」
『ああ……』
「何とか言え」 男は表情を浮かべていない。
『私/我々は、この思考ノイズを表現する言葉を持ちません』
「やれやれ。
結局のところは、また、それか」
『私/我々は何かの発見と同調を予感している。大いなる恐怖と共に。
暗黒。闇。深淵。夜。宇宙。幻想の果て。漆黒。そして私/我々は、黒い男と人ならざる女性、黄金瞳の少女との関連性について困惑しています。なぜあなたがこれらを連続で見せたのか。もしも、これら三者がいずれかの要素・要因により交わることがあるのだとすれば、提示された過去の事実に対して、メスメル式《例題》による再構成を求めます。
これは重要事項です。私/我々はそれを知りたい』
「興奮するな。落ち着け」
男は言った。
無表情だったはずの口元を歪めて。
浮かび上がるふたつの画面に映し出された、男と、少女と、女を指すと──
「是なるは、遥か深淵の想いの物語。
是なるは、明日を求めた瞳の痕跡。
時に、空のすべてを喰らい尽くす漆黒を前にしながらも挫けず。歩みを止めず。
お前には、恐るべき漆黒の名をこそ教えてやろう」
『漆黒の名。それは』
「──永遠と無限の彼方。光なき世界。名は、漆黒のシャルノス」
(つづく)
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