岸から少し離れたところで僕らはオールを漕ぐ手を止めた。
ボートはその後も惰性で湖面を音もなく滑り続けていく。
わぁ……。
辺りを見回せば、幻想的な風景が僕らを包み込んでいた。
思わず感嘆の声が漏れ出してしまう。
頭上に輝く満天の星空は、湖水に星の欠片を振りまいていた。
水面は宝石を溶かし込んだような色合いにきらめいている。
月が放つ朧な光が湖面に漂う薄もやを浮き上がらせ、
宝石を柔らかく包む純白の薄絹のように仕立てていた。
「この風景だけ見たら、確かに『楽園』なんだけどね」
「本当にね……」
こんな光景を前にしても、ゲルダはどこか気の無い返事だった。
水宝玉(アクアマリン)をはめ込んだような彼女の綺麗な瞳は、
どこか憂鬱そうな色合いに翳っていた。
彼女の足元の船底には、彼女の「聖書」である「雪の女王」の
絵本が、ぞんざいに放り出す様にして置かれている。
「ただの気分転換でボートに乗りに来たわけじゃなさそうだね」
彼女は湖水に視線をたゆたわせたまま、静かな声で語りだした。
「知ってるかしら。
『雪の女王』では、いなくなったカイを探すために
ゲルダが小舟に乗り込むところから、彼女の旅が始まるの」
「ああ……そう言えば、そうだったね」
僕は昔読んだ「雪の女王」のシーンを思い返していた。
確か物語では、ゲルダの乗った舟が川に流されてしまい、
そこから彼女のあてのない長い長い旅が始まるんだった。
「ひょっとして、きみは本当に
『ゲルダ』の役になりきって『カイ』を探すことにしたの?」
今朝、彼女の部屋を訪れた時に打ち明けられた事を思い出していた。
どうやら彼女は本当にそれを実行に移そうとしているようだ。
「『私』は仮初めの『ゲルダ』に過ぎないけれど。
『私』が旅立たなければ『彼』は絶対に救えないんだって──
そう思うと、居ても立ってもいられなくなってしまって……。
気が付けばここまで来ていたの」
ゲルダがかすかに身震いした。
自分の行動が本当に自分自身の意志によるものなのかどうなのか、
確信が持てずに戸惑っている様に僕には思えてならなかった。
「もちろん、全部『誰か』に仕組まれてるって可能性も考えたわ。
でも……あえてその筋書きに乗ることで、相手を油断させることが
できるかもしれないし、ね」
それは勝算というよりは、どこか願望めいて聞こえた。
じっとしていたら「彼」を見失ってしまうのではという焦燥と、
「何者か」の思惑に嵌ってしまうのではという危機感の間で
揺れる天秤の釣り合いを、必死に取ろうとしているのだろう。
「そう……なんだ」
僕はただ頷き返すばかりだった。
彼女が予想している以上の危険を喚起することも、
反対に慰めの言葉で不安を和らげてあげる事も、
どちらも僕にはできなかった。
彼女が一度やろうと決めたことの邪魔をしたくはなかったし、
上辺だけの気休めを言うのも、なんだか無責任な気がする。
それにきっと彼女も、それを僕に求めてはいないと思う。
ただ自分の決意を話しておける相手が必要なんだろう。
それができるのは、この「楽園」には僕しかいないに違いない。
(だからこそ「旅の始まり」には余計な存在のはずの僕を、
彼女はボートにさそったんじゃないかな……)
なんとなく僕はそう感じていた。