2022/03/05
 この度は「カフェ・プエラリウム」へのご来場、誠にありがとうございました!
 以下、「フェアリーテイル・レクイエム」の掌編をお楽しみください。(海原望)

※本編のネタバレが含まれます※




~カフェ・プエラリウム 「フェアリーテイル・レクイエム」書き下ろし掌編~
    おだいじに


「これは、クリームソーダ?」

 深い藍から淡い水色、海のようなグラデーションを、小さな泡が昇っていく。

「いいえ、違うわ。おくすりですって」

 グラス越しの涼しげな世界でも、アリスの瞳は星のように輝いていた。

「トランプの兵士さんたちが、あなたの症状を伝えたら用意してくださったのよ。女王様のご命令もあったでしょうに、ペンキも刷毛も放りだして。おかげさまで、白薔薇にも赤薔薇にもなれない、哀れな一輪が生まれてしまったの」

「そう……」

 症状も何も、僕の不調は「なんだか夢見が悪かった」という程度のものだ。まさかアリスがそんな愚痴に血相を変えて、重病のようにお医者さまに訴えるとは思いもしなかった。
 無為に働かされた「トランプの兵士」さんたちに、申し訳ないという思いもある。同時に、目の前のこれは本当に口にしていいものなのか、という悩みが僕の顔を曇らせた。

 本当に「おくすり」だったら、健康体の僕にとっては、却って害になる恐れがある。
 しかしアリスは、僕の悩みを、明後日のほうに解釈したらしい。何だか必死になって言いつのった。

「でもね、何でもないということは、何にでもなれるということよ。ハイイロペリカンは、白鳥にも鴉にも、孔雀にだってなれるでしょう? 白薔薇をやめて、いいことだってあるわ、きっとそうよ」

 「自分が誰であるかわからない」僕が、白薔薇でも赤薔薇でもなくなった薔薇に自分を重ねて、心を痛めている──そんなふうに思ったのだろうか。

「うん……」

 どう答えていいかわからなくて、僕の口からはただ生返事が漏れる。
 反応には困るけれど、いやな気がしないのは、アリスの気遣いが伝わってくるからだ。
 彼女は、とても優しい女の子だと思う。ただ、人とはだいぶ世界の見え方が違うから、優しさの使い道がずれてしまうのだろう。

 またひとつ、炭酸の泡が小さな海を駆け上って、弾けた。それを見たアリスは、大きな瞳を物憂く潤ませる。

「ああ……おくすりの効果がまたひとつ、弾けて消えてしまったわ。すべてが失われないうちに、どうぞ召し上がって」

 僕は腹をくくって、細いスプーンを握った。
 これが「おくすり」だったとして、「夢見が悪い」程度の症状に処方されたのなら、強い成分なんて入っていないだろう。害はない、はず。
 純粋に、クリームソーダを味わいたいという気持ちもあった。アイスクリームの上には、色とりどりの小さな欠片が散りばめられ、宝石のように光っている。砕かれたキャンディだろうか。

「いただきます」

 僕は欠片が乗るようにひとさじを掬い上げ、口に運んだ。
 自分の舌が、突然の冷たさに驚いた後、圧倒的な甘さにとろけるのがわかった。アイスの濃厚な風味と、ソーダの爽やかさが絡みあって、頬が自然と綻んだ。──けれど。

「……!?」

 次の瞬間、僕は目を見開いた。
 口の中で何かが弾けたのだ。パチパチと、火花のような小さな音を立てて、跳ねている、躍っている。

「どうしたの?」

「何か、弾けてる……」

「まあ! きっとおくすりが効いてる証拠ね。喉に体当たりして、あなたの頭から、悪夢を追い出そうとしてくれているの」

「いや、これは」

 熱を帯びて解説するアリスには悪いけれど、僕はすぐさまその正体に思い当たった。
 確か、こんなふうに口の中で弾けるキャンディがあったはず。相変わらず昔のことは少しも思い出せないけれど、知識だけは引っ張り出すことができた。
 ただ、喉奥までこみあげた「真相」を、アリスに伝えることはやめておくことにする。

「あるいは、お星さまの欠片なのかもしれないわ。あなたの身体のなかで光って、夜の闇を遠ざけてくれるのよ」

 それこそ無数の星を封じこめたように輝くアリスの瞳が、あまりに美しかったから。
 悪い夢を退けるのは、「おくすり」ではなく、むしろ彼女の言葉によって僕の体内に育まれた光に違いないという気さえした。

「ありがとう、アリス」

「いいえ、あたしは何もしてないわ」

 礼を言うと、アリスは、ソーダよりもアイスよりも甘い顔で微笑んだ。



 自室へ戻る帰り道、病棟の廊下にて、僕はゲルダに出くわした。

「あなた、随分と顔色が良くなっているわね。安心したわ」

 僕の顔を見るなり、ゲルダはそんなことを言った。僕は思わず、自分の頬を撫でる。
 自分ではわからないけど、そんなにひどい顔をしていたのだろうか。

「え……そう?」
「ええ。病気じゃないかって心配していたの。でも……」

 ゲルダは声を呑んだが、その続きはたやすく察せられた。
 ──信じられるお医者さまなんか、ここにはいないし。

「せめて身体によさそうな食べ物がないか、キッチンを探してみたんだけど……甘いものしか見つからなかったわ。私たちを虫歯にでもしたいのかしら」

 日々「楽園」への不信をつのらせる彼女からすれば、それだって思い切った行動だっただろう。
 そんなに心配させてしまうだなんて、むしろ全くの健康体であることが、申し訳なく思えてくる。

「ありがとう、ゲルダ。僕は、その……ただ、夢見が悪かっただけなんだ」

 決まり悪く告げると、ゲルダは目を見開いた。

「あなたも?」

 それは、予想と違う切り返しだった。

「ゲルダも? ……そういえば、きみこそ、顔色がよくないような」

「そうかしら。確かに、ここのところ眠りは浅いけれど」

「その……きみにとっては、気の進まないことかもしれないけど」

 僕は迷った挙句、悪夢に対して「おくすり」が処方された顛末を聞かせることにした。

「たぶんあれは、ただのクリームソーダだったんだ。でも、今の僕には必要なものだったって気がする。子どもだけに許された飲み物って先入観があるからかな。何か、特別な感じがして……」

「美味しかったのね。それは良かったわ」

 ゲルダは微笑んで、おそらく心からそう言ってくれた。

「ただのクリームソーダだったとしても、よく効いたんでしょう。あなたの顔色を見ればわかる」

「そうなんだ。だから、もしよかったら、ゲルダも」

「……いいえ、私は遠慮しておくわ。ありがとう」

 目を伏せ、首を左右に振るゲルダの顔色は、雪の精のように白い。今にも溶け消えてしまいそうな儚さに、僕は思わず食い下がってしまう。

「でも」

「ただのクリームソーダだったとしても──私に効いてもらっては困るの」

「それは、どういうこと?」

「悪夢の中にこそ、カイへと続くヒントがある気がするから」

 確信めいた声だった。
 「お伽話症候群」の患者同士であっても、僕と他の子との間には、決定的な違いがある。
 登場人物として、物語を全うしたいという強い願いだ。「何にでもなれる」というよりも「何になったらいいかわからない」ハイイロペリカンたる僕には、無縁なもの。
 カイを思い出したい、カイを探したい──それこそがゲルダの願い。彼女は、この「楽園」を疎んじ、「ゲルダ」と呼ばれることを拒絶しているが、「カイ」を求める心だけはまるきりゲルダそのものなのだ。

「心を和ませることは、誰にとっても必要なんだと思う。でも、私は……甘いものにうつつを抜かしている間に、大事なものを見逃す気がして……怖くて」

「カイは、悪夢の中にいるの?」
「ええ、そんな気がするわ」

 そこに「カイ」の気配を感じるからこそ、ゲルダは悪夢を追い払うことはせず、進んで足を踏み入れるのだろう。

 ゲルダと別れたあと、僕は自分のおなかをそっと押さえた。その奥では、アリスからもらった星のきらめきが、闇を押しのけて輝いているはずだった。




 ──その夜。
 寝支度を終えた僕は、寝る前の薬を飲むために、サイドチェストから薬袋を取り出した。
 ほしのおくすり、にじのおくすり、ゆめのおくすり。
 相変わらず、お菓子にしか見えない見た目のおくすりばかり。味のほうも、薬とは思えないほど飲みやすい──それどころか、明日や明後日の分を温存するのに苦労するくらいだ。

「……え……?」

 何気なく薬袋を裏返して、僕は絶句した。
 薬袋の裏面に、覚えのない文字が書かれていたのだ。


『たすけて』
『ぼくはだれ』
『じぶんがわからない』

 ひどく乱れた筆跡だった。
 文字を片っ端から忘れる頭と戦いながら、かろうじて書き連ねたような。

「これは……僕の字?」

 ──きっとそうなのだろう。

 今朝のことをよくよく思い返せば、悪夢にうなされて伸ばした手が、筆記具を掴んだような覚えがある。
 そして、胸が裂けてしまいそうなほど膨れ上がった、正体のわからない苦しみを、夢中でどこかに書きつけたような──おぼつかない手ごたえも残っている。

 つまりこれは、悪夢の中で掴みとった、僕自身の悲鳴なのだ。

 僕は、こんなにも苦しんでいたのか。
 自分が「何」であるのか、わからないことに。

「…………」

 僕はひどく疲れた気分になって、ベッドに横たわる。
 「お星さま」の柔らかな光に守られて、今夜こそぐっすり眠れると思ったのに。

 ───たすけて───

 つけっぱなしの照明が、瞼の裏を薄明るく照らす。
 そこに、僕自身の歪な文字が浮かび上がり、黒い虫のように蠢く。
 悪夢に苛められた僕がかろうじて持ち帰った、願いの切れ端。それは、「僕は誰か」という問いの答えに繋がっているんじゃないか。
 だからこそ昨晩の僕は、ゲルダのように、自ら悪夢へ飛びこんだんじゃないか。
 だとすると、お星さまの光でそれを払ってしまうのは、果たして本当に良いことなのかどうか──

 僕は、自らの中で鬩ぎ合う光と闇とを持て余しながら、ひしひしと迫る眠りの気配を感じていた。



<了>





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