「うーん。 「そろそろ僕にも話を聞かせて貰ってもいいかな、ハニー。気付いていないかも知れないけれど、それはもう今日で5度目になる溜息だ。何か困っているのなら、僕で良ければ力になるよ、アーシェリカ。僕の天使」 「うーん。えーっとねー……。うーん……」 「遠慮は要らないよ。僕ときみの仲じゃないか。ほら」 「……碩学院でね。たくさん課題は出るんだけど、いろんな課題が出るんだけど、今日は交通問題と運送事情がどうのっていう課題が出たんだけど、アーシェはほら、数学は大好きだけど歴史とか政治とか社会のナントカとかさーっぱりわかんないんだ。そゆのって、大体、父上や兄貴たちがあーでもないこーでもないって毎晩ガミガミうるさくって、印象悪くって」 「男性はそういう話をするのが好きだからね」 「そなの? ハワードも?」 「僕はきみの嫌がる話なんかしないさ。(ちゃんと聞いてくれてるとわかればね)」 「よかった〜。ハワードがそゆのうるさいひとだったらアーシェ、婚約やめてたよ!」 「な──お、おおっとー!」 「わわわハワードあぶない前、前、馬車あぶなーい!」 「……お、お、お……ハンドルを戻して、車線に戻って、と。ふう。危ない危ない。危うく駅に突っ込むところだったね。チャリングクロス駅にガーニーに乗り付けるといえば絵になるが、突っ込んでしまえば大惨事だ」 「も、もー! 安全に運転してね!」 「ごめんよハニー。しかし無事に済んで何よりだった……。チャリング・クロス駅はサウス・イースタン鉄道のターミナルだからね。あそこに大変なことが起きてしまったら、ケント州へ走る汽車にも影響が出てしまう」 「サウス・イースタン鉄道って、えっと。ハワードが」 「そうだね。僕が仕事で使うことのある鉄道会社だ。ケント州に新設された港へ船をつけて、そこからサウス・イースタンの“弾丸機関列車”を用いてロンドンへ荷を運ぶ。これは勿論さまざまな条件が必要だけれど、沖の外洋船と行き来する形式のロンドン・ドックよりも効率的に、短い日数でロンドンへ荷を届けることができるのさ」 「本当、ハワードは難しい話が大好きね。アーシェは何言ってるのかさっぱり」 「うーん、きみの修めている高等数学こそかなりの難度だと思うのだけどね。しかし、きみがそう言うからには確かにそうだ、僕の説明の仕方もいかにも下手だ。そうだね、じゃあもっと簡単なところから話してみようか」 「ふぇ?」 「課題なんだろう? 交通問題と輸送事情」 「あ、そか。うん、うんうん。論文書きなさいって言われてるの。アーシェ、そんなこと言われても何も知らないし興味ないし講義聞いてないし興味ないしそーゆう本読んでないし、困っちゃってもう。ね、ハワードなら何を書く?」 「そうだね。新大陸から輸入される蒸気機関式自動車(ガーニー)の増加に伴う新たな社会現象“交通事故”と、それに対応した道路交通法の整備問題──」 「(不機嫌な顔)」 「──というのは思慮の浅い男子学生たちが飛びつきそうな流行の問題ではあるし、確かに大きな問題でもある。しかし皆と同じことをやっても面白くないし、良い評価を取るのも難しくなってしまうよね。そこで、そうだな。僕なら、陸運、海運、空運について、現在の英国における状況と、所感をさらりと一文書いておしまいにするね」 「りくうん?」 「すべて、運送、輸送の分類さ。陸運はそうだね、たとえば僕らが乗っているこのガーニーであるとか、鉄道の汽車もそう。地下鉄も。そう、忘れちゃいけない、馬車もそうだ」 「アーシェはお馬が好きよ。可愛いの、長くて! 顔!」 「……ん?」 「ん?」 「うん。馬は可愛いね。でも、新大陸のテキサス地方では馬の扱いが酷くてね。ガーニーで走るには難しい荒れた道が多いから、おのずと陸運の要は馬でね。しかし、テキサスは特に大気の汚れが酷いものだから、馬に呼気覆面(ガスマスク)を被せて走らせるんだ。これが馬にはとても不快らしくてね、すぐに病気になってしまう」 「かわいそ……」 「そうだね。ただ、最近ではオフロード用ガーニーも開発されつつあるから、いずれ、馬を無理に酷使し続けることもなくなるだろう。英国のように、テキサスにもガーニーが増えていくことと思うよ。そう、ここ数年の英国は特に顕著だね。ガーニーは主に新大陸からの輸出によって数を増やしつつあり、鉄道も、“弾丸機関列車”という、きわめて大型で高速の機関車が開発されている。かつてはささやかに走る汽車と無数の馬たちが担っていた世界中の陸運は、今や、発展した機関に代わりつつあるという訳だ。汽車に関しては、進歩しただけという見方もできるけれど、煙突がひとつしかない従来の汽車と、巨大とさえ呼べる姿に幾つもの排煙口を備えた“弾丸機関列車”とでは、まるで系統の違う印象を見る者に与えるからね」 「ガーニー増えるのは便利で速くて嬉しいけど、でも、馬車がすっかりなくなっちゃうとアーシェは寂しいな……」 「そうだね。それに、ガーニーが街を埋め尽くすようになったら、蒸気病も増えてしまうだろう。空もいっそう暗くなる。発展ばかりを喜んではいられないかも知れないね」 「ハワードの故郷はどうなの? ガーニーをたくさん輸出してるんだよね、新大陸って。もう空なんて真っ黒の真っ黒になっちゃってる?」 「いや、まだ大丈夫だよ。先日も、高速蒸気船でサバンナ港へ寄ったけれど、うん。アメリカ大陸は広いからね、それに、人の手の及ばない荒野も多く残っている。今のところ、空の色はロンドンとそう大差ないんじゃないかな。今は廃墟の都となった重機関都市ニューヨークが、あの生き急ぐような発展を続けていたら、どうだったかわからないが」 「いいな〜、お船。ハワードは幾つもお船を持っていて、ずるいよ。アーシェも乗せてくれるって前から言ってるのに乗せてくれないし。ぶぅ」 「ご、ごめんよハニー。なにぶん、船に女性を乗せるのを嫌がってしまう古風な船員が多いもので……。そうだ、今度、ヨットを用意しよう! それならきみも!」 「ヨットじゃやだ。ぶぅ」 「ど、どうして?」 「だって『宝島』ごっこができないわ。りんご樽、おはらい箱、オウム……」 「……う。気持ちはわからないでもないな。でもね、アーシェ、ごめんよ。ああいった、絵本の中に出てくるような大きな帆船はもう殆ど使われていないんだ。特に、貿易では、多層構造式大型蒸気船(メガ・シップ)での運搬が主流だからね」 「ええ〜……そうなんだ……。がっかり……」 「ご、ごめんよ! ええと、しかし、そうだ! 空運──そう、空ならどうだい!?」 「そら?」 「空さ。輝ける20世紀を迎えた我らが蒸気機関文明は、空を人類へもたらした。これこそが現代文明最大の功績であると言っても、僕は過言ではないと思うんだよ。空を渡り、自在に他の土地へと旅する。勿論船でもできるけれど、陸地は移動できないからね。英国では、そうだな、やはりツェペリン式大型飛行船の姿を見ることが多いけれど、僕がきみと乗るならやっぱり飛空艇だね。ドイツやエジプト製の飛空艇も良いけれど、やはり、僕はカダス製のものがいい。僕らのそれよりも遙かに長い歴史を持つ機関文明がゆっくりと育んできた飛空艇建造技術は、シルクロードを渡ってくる数千年の齢を重ねた芸術品の気品を持ちながらも、最新式の碩学機械の持つ勢いと瑞々しい躍動感に充ちて、素晴らしい飛空艇を生み出すんだ」 「飛空艇かぁ。アーシェは、うん、アーシェも好きよ。大好き。乗ったことないけど、見たことあるわ。空を自由に駆けるんだよね、飛空艇。小さいのが好き。鳥みたいで、羽ばたいてどこへでも行けるみたいで」 「そうだね、僕もさ。やっぱり小型がいいね。超小型、という最新鋭のものも存在はしているらしんだけれど、未だに篆刻写真ですらモデルを見たことがないんだ。何とか知人のコネを辿って、写真の1枚でも手に入れようとしているんだけど……」 「写真、もらえたらアーシェにも見せてね?」 「もちろんさ、ハニー。誰よりも早くきみに見せるつもりだよ。そして、英国の、いいや欧州の誰よりも先に購入して、きみにプレゼントするつもりさ。そして、ふたりで空をデート──」 「楽しみ! みんなで、空中散歩だね!」 「みんな──」 「うん。みんな、メアリとシャーリィと、ハワードと、アーシェのみんな。うーん楽しみっ! じゃ、それまで、目で見るまでは交通問題と運送事情については保留ぅッ!」 「いや、課題はやったほうが──アーシェリカ!?」
〜フォード社製オースティン1904型でドライブするカップルの会話より〜
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