霧雨が肌を濡らす夜、摩天楼の灯りとハイウェイを行き交う車のテールランプが、窓の外でにじんでいる。コートの襟を立てて歩く街路のすぐ隣で、誰かが泣きくずおれ倒れていても、誰も気にとめやしない。それが都会だ。とびきり濃く炒れたコーヒーと、ラジオから流れ続けるジャズ・ナンバー。俺は両足をデスクの上に投げ出したままで、その二つを心ゆくまで満喫する。どうせ、この時を楽しめるのはわずかな間だけだ。ほら、階段を上ってくる足音が聞こえる。愛に迷った誰かが頼ってきちまうものなのさ。俺みたいな凄腕の交渉人のところにはな――――。
「死んでやるぅ!」
郷愁すらそそるセーラー服をなびかせながらそう叫ぶ少女が立つビルよりもはるかに高く晴れ上がった空の下、俺は暑さにうだりながらもポリシーを貫くためにコートを手放すことができず、結果、朦朧としながら故障したエレベーターを呪いつつ、非常階段を駆け上がっていた。
「それ以上、誰もこないでよ! 来たら、飛び降りてやるんだから!」
元気のいいわめき声が嫌でも耳に入る。これなら、地上27階からのダイブの後でも、生きていられるんじゃないかと思えるほどだ。
「いかん、考え直せ! お前さんはまだわかいんだ!」
「かなり手を焼いているようだな、おやっさん」
半円を描いて少女を取り囲む警官の群の中から、俺は馴染みの顔を見つけだす。この道30年以上、もういいだろうってくらい刑事が染みついている、市警時代の相棒だ。
「おう、お前か」
彼は、俺の方を振り向きそう言うと、ハンカチで汗をぬぐった。殺しだ強盗だと取り扱ってきた彼には、ああいった少女の方がよっぽど手強いのだろう。
「何よ! こんな世の中なんて、なんの未練もないんだから!」
「ご覧の通りだ、手のつけようがなくてな」
叫ぶ少女を見やりながら、彼はなおも汗をぬぐう。黒人の肌に夏の陽射しはよく似合うが、彼の年齢になるとさすがにこたえるようだ。
「ふん……、たいした交渉になりそうにもないが……」
「おお、やってくれるか!」
「ああ、おやっさんには世話になってるからな」
「ありがたい……、お、おい、やめるんだ!」
少女が片足を浮かせて、金網を激しく揺さぶり、警官達を威嚇している。俺はその行為を鼻で笑いながら、愛用の商売道具へと手を伸ばした。
「学校はつまんないし、友達だってうわべばっかよ!? いつまでたっても彼氏はできないし、社会に出たっておもしろそうなことなんて何もないもの!」
「いや、まて、社会にはそれなりにだな……」
「……ふん」
彼は必死になって少女に場当たり的な言葉を返す。良き友人を悪くは言いたくないが、まったくもって見ていられない論理の運び方だ。
「だって、誰が社会をよくしてくれるわけ? おじさんがあたしの彼氏見つけてくれるわけ? シューショク面倒見てくれる?」
「いや、結婚というのはよく考えてだな。それに就職なら、署の人事課に募集要項があるから……」
俺は見ているだけしかできない警官の輪の中から歩み出る。懐からは鈍く光る6連シリンダー。頼れるバディだ。
「保険は? 年金は? 保障は? 手当は? それに、それに……」
「まて、今、問い合わせる!」
「消費税だってもうすぐ10%になっちゃうのよ!?」
少女の前に立つ。夏の風が、俺のコートの裾をなびかせる。
「とりあえずだな……」
なおも続く少女と老刑事の舌戦を前にして、俺は愛用の6連シリンダー付きスピーカーのスイッチを入れ、マイクを握った。「こっちの話を聞けぇ!」
……俺の名は根越栄太。職業は恋愛交渉人(ラブ・ネゴシエイター)。自分で言うのもなんだが、惚れたら火傷じゃすまないタイプってことだ。
《CHARACTER PROFILE 01》
根越 栄太(ねごし・えいた)恋愛に関係する一切の交渉を引き受ける愛の交渉人ラブ・ネゴシエイターにして、本編の主人公。ただ、その特殊な職業はなかなか人にわかってもらえず、枕を涙でぬらすこともしばしば。職業欄には「恋愛交渉人」と得意げに書いては怒鳴られる毎日。それでも、仕事の腕は確かで評判も上々、一番のお得意様は近所の女子中学生で、よく彼女たちの代わりに、意中の男子生徒に告白したりデートの段取りをしたりと、切なくも細かい仕事は舞い込んでくる。問題は、報酬が雀の涙ほどなこと。本人の理想のライフスタイルはフィリップ・マーロウやサム・スペード。そんなハードボイルドな生活へのいちばんの障害は、恋愛交渉人という職業であることに、本人はまだ気づいていない。
「俺はラブネゴシエーター。困ったことがあったら、駅の伝言板に紫のバラを置いてくれ。地球の裏側からでも駆けつけるさ」