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<帝都猟奇実録・五>
文/希

 銘仙の袂を二つ巴(どもえ)に尾と曳き舞わせて、駆け寄る、というより白糸の畝(うね)を滑るように渡る守見史緒(もりみ・しお)は、自身が衣装の柄と同じ、蝶であるかのように、美しかった。
 帝都を眼下遙かに見下ろす、摩天楼は建設の中途でいかなる理由か放置せられ、壁も尖端も未完のままの、言わば生まれながらの廃墟という趣を帝都の上空に浮かべてある。吹き曝しの階なのにも関わらず、風が鳴りも吹きもせず、空気は死水(しすい)のように凪いで物音が遠く森閑としてあるのは、何故だ。糸だ。

 床面を覆い尽くして堆(うずたか)い、糸が史緒の駆ける跫音(あしおと)を吸う。では風の音もか? 然り。見よ、瞠(みは)って見よ剥き出しの夜天を、真実そこが遮る物なく空に解放されているのか……月が清(さや)かな晩としては、鉄骨の向こうに覗ける空に、明礬水(どうさ)で目を詰(つ)んだような、細かな霧とも粒子ともつかぬモノが煌めいてはいまいか。眼に脂でも染みたかと幾ら拭ってみても、晴れることはなく細かな煌めきは依然として空に掛かっている。注意深く見つめれば、輝く粒子のあちらこちらに細かな点が散っている。鳥だ。翼ある物達が煌めきの中で静止している、のに非ずして、絡めとられて身動きもならず苦悶している。摩天楼の上階を覆って、宙空に掛かる細密な糸によって、飛ぶ物達は哀れにも絡め取られているのであった。この、離れてしまうと辛うじて空気中の粒子の煌めきと見えるくらいの細糸が、目の細かな網のように摩天楼に被さり、音を遮蔽し風を防いでいるのである。

 何時から───? 知る者は殆ど無いだろう。この糸に覆われたによって、建設に携わる者は現場作業員からも企業上層部からも、摩天楼の完成という心理が脱落したによって。
 何の為に───? 知る者はこの帝都に恐らくは、一人、他にいたとしても精々もう一人くらいのもの。なにしろ妖物の思想心理など、同じ一族郎党くらいしか理解は及ばず、そして帝都には、この糸を架けた妖物の同族は、どうにか一体が、細く千切れかかった生命の糸を繋いでいた程度だったもの。帝都、否、この国の中でも、その妖物の末裔は僅かに彼女達二体だけとなるまで、血統の連なりの末は窶(やつ)れ細っていた。
 ───糸が音を吸う。あらゆる音が消え去った、荘厳にして豊穣な沈黙の中を、振袖の史緒が走る、裾を割って真白く光る脹(ふく)らを蹴出(けだ)し、黒髪を虚空に流麗な書体と曳いて、ただ一人の相手と定めた姉へと、走る、糸を踏む、弾む、歓喜と期待に満ち満ちたあれは、何だ、何だ、人か、鬼か。
 ───糸が色を消す。混擬土(コンクリート)の灰緑も鉄骨の鉄錆も、この上階に散らばっていた全ての色を覆い尽くす、糸は本来は透明なのだろうが、積層されて雪より白く青い、あたかも月の光が積もって凝ったかのような。糸がうねり、複雑な襞を為し、階の中心で束ねられた、青白に青白を重ねて精妙な、大なる球塊の袂に佇む女だけが色を持つ。彼女がまとう、肌に吸いつくように薄く、裸体よりも女体の曲線を官能的に際立てるドレスは、視線を据えれば白と見えて、逸らすと薄く淡く金を発する、淡く軽やかに金を発しながら、女は、南堂曄子(なんどう・あきこ)は待ち受ける。自分の胎に種を宿さんの一念に染まって迫る男を待ち受ける、弟を待ち受ける、女は何だ、何だ、人か、精霊か。

 たたん、と視線が軽妙に人首丸(ひとかべまる)を叩いた。曄子だ。真っ直ぐ向かってくる弟から視線を外さず、なのに曄子は人首丸を見ていた。鬼人は彼だけでなく鈴鹿もいるのに、曄子は人首丸を選んで。暗夜に光の箭を投じたほどにも明白に、曄子が人首丸を見つめる意味や如何───と、居合わせた者がなにも言う間も手出しの間もあらばこそ、史緒は曄子に辿り着き、曄子は史緒を迎え入れていた。

 この上階でお互いを認めて、曄子と史緒が触れ合い、抱き合い、抱擁を密にし、二つ身を一つに絡まり合っていくまでが、たかだか距離にして数十米(メートル)程度を走り抜けただけであるのに、この奇怪な姉弟の生の軌跡を濃縮したような、長い時間を思わせた。人首丸も鈴鹿も、史緒がなにを求めて姉を腕の中に捉えたのか知っていたが、さて銀城秋水(ぎんじょう・しゅうすい)はどうだったろう。少なくとも男は、史緒が姉のドレスを、破りこそはしなかったものの肩紐を抜いて引き下ろし、半球の乳房を剥き出しにし揉みしだいた時も、スカートを捲りあげ美しい塔のような両脚の間に下半身を割りこませていった時も、傍らにあって手出しもなく。

 この、月下に繰り広げられていく、男が女に襲いかかり奪わんとする、ただでさえ凌辱景であるのに、女はそれを不思議にも受け入れていること、というより女と男とは見えず、薄金のドレスの、銘仙の振袖の、裳裾が翻る、袂が跳ね踊る。それぞれ女同士が縺れ合い絡み合う様としか思えず、更には二人、姉と弟なのだという、どこからどこまでどの要素を取っても奇怪にして破戒の眺めは、過ぎるうちに更に奇妙を重ねて展開されていったのだった。

 史緒は姉の背を、傍らの糸の球塊に押しつけて、立ったままで繋がろうとした様子だったけれど、それが何時しか。曄子は弟の狂熱の勢いを、巧みかつ美妙にいなし逸らして、体を入れ替えていた。弟の背後に回りこみ、帯の結びを潰すようにして下腹部を押しつけ、腰に片腕を回してかき抱き、するりと、先に自分がされたように振袖の裾を大きく捲り上げて、剥き身の茹で卵のような臀を剥き出しにした時、もう史緒の運命は半ば以上極まっていたのだろう。弟は、姉と繋がるつもりが向きを逆にされ、身悶えたものの、元が力に乏しい四肢、曄子の手が股座に、流れるように滑りこんで、それでお終いだった。握り、扱く、手の動きは二度三度だったけれど、史緒の色薄い唇から引きずり出されたのは、まぎれもなく甘く蕩けて、そして哀しげで、絶望に満ちた声。死角になって仔細は知れずとも、弟の下肢がすぼめられたかと思うと、びしゃああ!! 姉の爪が刃と変じて腹を裂き、腸(わた)をぶち撒いた、かと見えたほどの夥しさだった。勢いと量だった。ただ色は血ではなく精の白濁。史緒が姉の手によって、吐き出させられ糸の上にぶち撒かれた精、彼の切望していたのは曄子の柔らかな胎の中に植えつける事だったのに。史緒が逃れようと、次こそどうにか本懐を遂げようと、悶えるのだけれど彼は既に捕食者の顎に捉えられた白兎、足掻きは、姉の手が無情にも擦り込む虚しき快楽に封じられて叶わない。

「あー……姉、上、どうして、です。私たちの、運命(さだめ)は、あなたが私の子種で孕んでぇぇ……」

「あ。あ。あ。やめ……いけな……精が……私の……いのち……うああ!」

 哀切に重ねる弟の、哀訴を美しく無視して曄子は更に手を使えば、また、びしゃ、びしゃと、粥でも撒いたかに、足元に散らされていく精の迸り。

「あなたの仔などいらないの。
私が欲しいのは、あなただけ。
私の身の養いになり損ねた、あなただけ」

 曄子が、子守歌でも歌うように、柔らかく優しげに史緒の耳朶に語りかける、けれどもそれはただ眠らせるどころか、弟を、精を吐く度命を削られると知った上で、搾り尽くしていく残忍の調べだ。

「ほうら、あなたの子種など、全て流し尽くしてしまうといい。 虚しく宙に零し尽くしてしまうといい。
種など全部空っぽにしてから、
私があなたを食べてあげてさしあげてよ……」

「あねうえぇ……なぜです……私達の、子がぁ……」

 啜り泣く、声は絶望と快絶とが混ざり合い、聞く者の心を狂気に歪ませていくかの昏さをさえ含んだ。姉と弟が奏でる死と快楽のせめぎ合いに、銀城は目を異様にかぎろわせ、人首丸はこの時点になって更に膨れあがる疑念で目を苦悩に満たし、鈴鹿(すずか)だけがある意味では真っ当に、嫌悪に鼻梁に皺を寄せていた。ただこの妖婦も、男達の心を狂愛で壊した上で、毒の抱擁で殺めていくことをいたく好む女で、その嫌悪は同属を拒むものに近かったろう。
 軽く肩越しに目を寄越した曄子は、陰惨で淫らな行為に文字通り手を染めているにもかかわらず、無邪気で童女のような顔つきで、選んで語りかけたのが人首丸にであった。

「銀城はともかく、そちらの御婦人も、人首丸も、訳が判らないっていうお顔ね。けれど」

「人首丸、あなたは、あなただけが知っているのよ、私達のことを」

「……何のことだ、見当もつかない……とは言えないな。僕も最前まで喉元まで出かかって、なのにはっきりと形にならない。何という焦れったさだこれは───」

「なら教えて差し上げる。先にお部屋で言ったでしょう、私は繭屋(まゆや)のお屋敷で、あなたを見ていたの───繭屋の人たちを殺しに来ただけじゃない。あなたの本当の目的は、あの人達が護り、封じ続けていたモノを、あわよくば奪い去ること。さもなければ、壊して絶やしてしまうこと……違っていて?」

「む───!」

 ごそり、と刺草(いらくさ)の玉が崩れて滑らかに流れるように、人首丸の疑団(ぎだん)が溶けると同時に記憶が蘇っていく───そう。確かに。そうだった。人首丸は繭屋の一族を滅ぼすと共に、彼らが封じ続けてきた或るモノを奪取し、主のための手駒に出来ないかと目論んだのだった。その、モノというのは。この邦の、何時の世から影に潜んでいたのか、最早神代(じんだい)の文字にも記されず、闇の口伝に秘やかに語られるのみ。

 それは───蝶。
 この世のモノならぬ、蝶。妖の蝶、。蝶。

 雌は人の心と認識を欺き、雄は妖でありながらも破邪顕正の目を具える、妖の中でも特異な一族。
 神代からの血統もとうに絶えたと伝えられていたけれど、人首丸は繭屋の一族を追ううちに、彼らの秘儀を暴いた。それは繭屋の名の由来。絶えたとされる妖蝶の、繭を秘かに護り伝えるという。破邪、退魔の血筋が妖の末裔を護り続けるというのも奇妙な話だが、雄の妖蝶が具えるという破邪顕正の瞳力を一族の血に混ぜ合わせるつもりだったのかも知らん。

 だが人首丸が一族を鏖殺した後、妖蝶を求め屋敷の最奥、開かずの間の中の五重構造の隠し蔵に踏みこんで、目の当たりにしたその繭は。いずれも歳月に蝕まれ、死滅して、風化して殆ど塵と変わらぬ有り様の、時の流れに勝てるもの無しという真理を更に補強した。その筈だった。

「だがあの繭は、全てが死滅していた。そんな物にこだわっても意味がないと捨て置いた……」

「けれども、本当は生き残っているモノがあったとしたなら? そして『蝶』はよく心を欺き、認識を狂わせるの。神代からの妖の蝶は、鬼の心さえも惑わすと、そう言ったなら?」

 滑らかに言葉を紡ぐ曄子と裏腹に、史緒は。
 もう既に。精を全て吐き出し尽くして、足元を血混じりの粘液で汚して、姉の腕の中で───絶えていて。曄子は掌をべっとり汚した弟の精の名残、冷たく気持ち悪く冷えたそれを、彼の振袖で丁寧に拭ってから、帯を解いて、着物を、襦袢(じゅばん)を、腰巻きを全て取り去り裸にしてから、自分もドレスを脱いで裸形を露わにし、まだ温もりは残っているけれど、後はもう冷たくなるばかりの、凄まじい絶望と苦悶に曳き歪んだ顔の史緒を、改めて、ようやく、愛おしげに抱きしめるがそれは、得難い食物を貴ぶ事も愛おしげと呼ぶならば、なので。
 すると観るがいい。史緒の死したる肌と、曄子の絖(ぬめ)の肌が、触れ合ったその部分から、お互いの境界を無くして溶け合い、弟の身体は、姉の中にずぶずぶと沈みこんでいく、その異様な眺めの、異妖さと言ったらなく。

「その生き残った繭の中にはね、二つの蛹(さなぎ)があったの。雌雄の。
けれど一つ繭の中の二つ蛹というのは、いずれ一方は一方に溶けてしまって、吸い尽くされる定めだった」

「なのにそうはならなかったのはね、そこの銀城が、繭を暴いて私達を分けたからだったのよ───なぜ? さあ、知るもんですか。その時の私は、目覚めたばかりで訳も判らず、ただ銀城が指図するままに、あなたの目と心を惑わして、弟を連れて、逃げ出した───弟を、なぜ途中で捨てたのだったかしら、銀城?」

「私には、男色の趣味はなかったからですな。それだけです。
 引き換え曄子、あなたは尽きせぬ泉だった───」

「と、言うわけ。まあなんて下らないお話よね。あなたってば、私を犯しているつもりでいて、本当は私に吸い尽くされていったことに、結局気づかずじまいで。
でもいいわ。銀城、あなたがくれた、曄子という名前だけはそれなりに気に入っていたし、史緒ともこうして会えて、遅くはあったけれど私のものにできた。史緒は自分が指図したことと思っていたようだけれど、ほんとは私が……まあいいわ」

 弟の身体を溶かし、呑みこんでいく女という不気味な眺めを眼前にしているのに、ただ瞳を光らせるばかりで、問いに答える他は無言のままの銀城の様子は、異常だった。少なくとも人首丸の知るこの男としては、あるまじき自失の態なのだったが、人首丸は今にして覚る。銀城の、優秀な企業人としての貌は、或いはもしかしたら妖蝶が擦り込んだ仮面ではなかったか、と。

 糸の球塊に背を預けたまま、弟の身体の殆どを取りこんだ曄子は、物憂げに銀城を差し招けば、逆らう風もなく進み出た、男の眼鏡を取って捨てると、右目に人差し指を突き立て脳まで抉った、それで致命傷だった。どうと倒れた銀城には最早目もくれず、曄子は気怠げな、まさに満腹した雌の貌そのもので、人首丸と鈴鹿に、順々に小首を傾げて見せて、何かを待つような仕草で。

「さて、人首丸と、そちらの……鈴鹿って仰有った、あなた。あなた達と私、これからどうしましょうねえ」

「鬼と冥界の蝶、帝都で仲良くやっていけるかしら。
私はさしあたって、一人ではどうにも気塞ぎなものだから、 同族を増やすことにしたの」

「この繭の中にはね、私だけから産まれた、私と同じような蝶の女達が、目覚めを待っている。仲良くしてもらえて?」

 蠱惑(こわく)的に、笑み崩れた曄子に、柳眉(りゅうび)逆立て掴みかからんとしたのは鈴鹿で、この妖婦は一つの都市に鬼と妖蝶の二派が共存することなど有り得ぬと、本能的に覚っていたのだろう。

「こ、こ、この女ッ、臆面(おくめん)もなくっ、なにが仲良く、よ、
羽虫が、気色悪い───あなたとそっくりなのが、沢山だなんて───それこそ虫酸が走るっていうもの! ふざけないで、そんな帝都はまっぴらごめんよ!」

「鈴鹿! 挑発はよすんだ、彼女達の力を侮る、な───?」

 人首丸が鈴鹿を抑えようとした、その時だった。
曄子の背に、不定形の、形無き色彩としか言いようのないモノが展開されていったのは。それはまるで羽根のように広がっていく、と気づいて人首丸は咄嗟に知覚を遮断しようとしたのだが、時既に遅きに逸して、目が、吸いつけられたように離せず、隣の妖婦もまた、掌に作りだした毒液を浴びせることもなく、腕を垂らして、床に零す。鈴鹿も人首丸と同じく、妖蝶に心を引き攫われていく、その時だった。

 宙空を灼きつつ、鬼人二人の背後から撃ちこまれた鉄塊があった。全く意想外の新手の出現に、反応さえ出来ず、曄子の乳房の中央を貫き、弾き飛ばし、背後の繭に深々縫いつけて、ようやく止まって、けれどまだ余韻凄まじく震動を帯びたそれは、分厚い、刃物というよりは棍棒をさえ思わせる巨大な剣の、刀身に北斗七星に埋めこまれた珠が赤く光った。

「これ……破軍(はぐん)……悪路(あくじ)様!!」

 弾かれたように振り向く鈴鹿の視線の先に、クナリ童子が引いたぞんざいな『扉』の前に傲然と立つ、長大な姿。
髑髏のような、人の形をした兇猛な獣のような、禍々しく濃密な障気の塊のような、それら全てである、その者、悪鬼、鬼人達の首魁、まつろわぬ者達の王、大獄堂悪路(たいごくどう・あくじ)───

「悪路様、お体の方は……」

 まだ復活を遂げて間もない肉体を、案じて駆け寄る鈴鹿を、心配が過ぎると言わんばかりに鷹揚(おうよう)に押しのけて、繭に縫いとめた曄子にと歩み寄る。

「おう。俺の知らぬところで、楽しいことをしてるようだ。
ずいぶんと連れないことだな、人首丸、鈴鹿。
しかしまたこれは……冥界の蝶か。
踊りと目眩(めくら)ましが巧いくらいで、大人しい連中だったが。
……うっかり力が余ったな……もうくたばっている」

 ……覗きこめば、曄子は既に死していた。
神代から、事によったらそれよりも過去から、生き残ってきた妖蝶の最後の一人は、かくして最期の言葉を残す暇もなく、冥界にと帰っていったのである───

<帝都猟奇実録・五 了>

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