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<帝都転遷流記・五>
文/禾刀郷

「お待たせしてご免なさいね、美禰子様」
美禰子を迎えた相馬瑞城は、華族然とした鷹揚な微笑を零した。
その頬は朝露に濡れた瑞々しい薔薇の蕾を思わせた。柔らかな花萼(かがく)に透ける花弁の如き仄かな朱色が、日本人離れしたその白皙に薄っすらと浮かんで見える。
彼女の容色は“深窓の令嬢”と云う風情を最早通り越し、精巧に造られた優美なる陶磁人形(ビスク・ドール)とでも喩えるべき趣を湛えてあり、社交界に膾炙する“相馬の瀧夜叉”の印象はその片鱗すら感じさせなかった。
「私こそ、ご公務でお忙しい処へお邪魔してしまって、却って申し訳ありませんわ」
表面でにこやかに応じながらも、美禰子は注意深く彼女の様子に神経を巡らせた。
自分を手招きし廊下を先導する瑞城の、その波打つ金髪が微かに湿り気を帯び、肌から石鹸(シャボン)の香りを棚曳いている事に、美禰子はすぐに気付いた。
「庭園をご覧になってらしたそうですけど、退屈なさらなかったかしら?」
「とんでもない。咲き誇る躑躅(つつじ)の花がそれは見事で。眼福の至りでしたわ」
応接室へ通されるまでの間にひとくさり社交の言辞を交わした後───
「お庭と言えば。先程お帰りの処をお見受けしたのは、志賀直哉先生ですわよね?」
着座と共に、穏やかな水面に一石を投じる様に美禰子は尋ね、相手の反応を窺った。
「あら。ご存じでいらっしゃるの?」
瑞城は朗らかな笑みのまま、柳眉と瞼を僅かに引き上げる事で、驚きの態を露わにした。その仕草に芝居めいた物を感じなくもない。質問されるのを予期していたのだろうか?
(いえ、それは流石に穿ち過ぎかしらね)
人は見たい物を相手の裡に見るものだ。疑念を通して見れば、あらゆる物が疑わしく映って来る。
「それはもう、文壇の重鎮でらっしゃいますもの。不躾ですけど、かの文豪と一体どの様な話を交わされたのか、一愛読者として興味がそそられますわ」
先入観を努めて抑えつつも、美禰子は少しずつ相手の内情へと踏み込んでいく。
「実は志賀家は、直哉氏の祖父の代まで我が家に仕えた一族でしたのよ。今日は旧主家への表敬訪問に参られたのですわ。わたくしのような小娘相手に、さても義理堅い事」
「まあ、そんなご縁がございましたの」
相馬家と志賀家の旧縁は先刻、降市荷十と名乗る新聞記者から知り得たが、初耳の様に大仰に驚いて見せた。直後に自ら発した声音の芝居臭さを省みて、彼女は内心で嘆息した。
ともあれ。表敬訪問───と、瑞城はそう表現した。
公人でもない文人の志賀直哉氏の訪問が、高丸が口にした様な“急な公務”とは、名分としては些か弱い様に思われた。しかし彼女の立場でそれを殊更追求するのも不自然に思われて、その点には敢えて目を瞑った。
代わりに美禰子は感覚を研ぎ澄まして、相対する瑞城の纏う気配を改めて探り始めた。
(やはりこれは……何かの術を行使した後の様ね……)
瑞城が纏う霊力の残滓は、何がしかの大きな術を行使した余韻であると見受けられた。
その霊気の残照と、肌が放つ石鹸の薫りに交じって、別の匂いが微かに漂っている事にも美禰子は気づいた。それが男女の交わりが醸す精臭である事を、彼女は直ちに確信する。
(では、やはり志賀直哉氏と……)
瑞城も身体を清めてから彼女を迎えた筈である。常人ならば気づきようもないが、間諜として長年訓練され、呪術でも拡張された美禰子の鋭敏な感覚は、それを逃さなかった。
(志賀直哉氏の祖父の代まで相馬家の家令を勤めていた───と、なると。志賀家が相馬家から離れたのは、あの一件の頃合いかしら───)
先刻荷十が語らなかった相馬家近史に、もう一つの大きな節目があった。
それは『相馬事件』、又は『相馬スキャンダル』と呼ばれる醜聞である。
相馬中村藩最後の藩主にして初代伯爵である相馬誠胤(ともたね)が、城代家老に祭り上げられ賊軍に廻った幼き嗣子を廃嫡せざるを得なかった事は、荷十記者が前述した通りである。
この一件で相馬家は家督継承の問題を抱える事となったが、幸いにして誠胤もまだ壮健であり、新たな継嗣を望む事はさほど難もないものと思われていた。
だが───そんな中、誠胤が突如として精神を病み、自宅監禁の挙げ句、癲狂院(てんきょういん)へと入院させられるという異常事態が起こった。
俄かに空位となった当主の座は、誠胤の異母弟である相馬順胤(ありたね)が暫定的にその名代として埋める事となったのであるが───
この時、誠胤の家臣であった錦織某という男が、あろう事か順胤を告訴したのである。
誠胤の突然の発狂は、順胤によって財産横領、家督簒奪のために仕組まれた陰謀である───と云うのが、その錦織某の主張であった。
(彼の証言によると、前夜まで健康体であった誠胤は、一夜にして老人の様に窶(やつ)れ果て、狂を発したのだというけれど───)
その証言自体は、確かにその後の誠胤の状況とも符合したようだ。
だが、その不自然な衰弱の原因が、順胤が兄に対し何らかの毒物を盛ったがために相違ない───とする錦織の主張には、根拠も裏付けも全くないものであった。
(その頃の相馬伯爵家は財閥化する前で、勲功華族にこそ疎んじられていたものの、市井に注目される程の存在感はなかったわ───けれど、この一件が起こってしまった)
この訴訟騒ぎにより、世間の好奇の目は一挙に相馬家へと注がれる事となった。
お家乗っ取りに立ち向かう忠臣として錦織が講談の主人公の如く祭り上げられる一方で、訴訟は泥沼化の一途を辿った。そんな最中、当の誠胤が遂に衰弱死を遂げてしまう。
錦織の主張した毒殺説は誠胤の遺体の司法解剖によって否定され、また相馬家の襲爵を宮内庁に正式に認められた順胤は、今度は逆に錦織を誣告罪(ぶこくざい)で訴えた。裁判の末、錦織に重禁錮の刑が下された事で、相馬事件はその幕を閉じたのであったが───
(でも、世間の相馬家へ向けられた嫌疑が、その事で完全に晴らされた訳ではなかった。そう、人は見たい物を相手の裡に見るものですものね)
順胤が金ずくで法曹を抱き込み無罪を勝ち取ったという“憶測”こそが、彼ら無関係な大衆の望む“真実”であった。今に続く相馬家への強い風当たりの中には、この相馬事件による家督簒奪という汚名も、今尚込められているのであった。
美禰子の前に鎮座する相馬瑞城は、その相馬順胤の直系に当たる。
(事件が起こったのは丁度、鐘ヶ淵の紡績所を買収し、この館を建てて間もない頃の筈)
つまりこの屋敷こそが、悪名高い『相馬事件』の舞台となった因縁の地なのである。
その疑惑の場所で、かつてこの家に仕えた臣下の子弟と、簒奪当主とされる者の血を引く娘とが、今再び邂逅し、恐らくは呪術を交えた儀式的性交を行った───そこには果たしてどんな意図が隠されているというのだろうか?
(誠胤の司法解剖では、確かに毒物は検出されなかったというわ。でも、それが毒殺ではなく呪殺だったとしたら? 市井の医師に判断できるものでは到底ない。しかももし、当時の家令であった志賀家が真相の隠匿に関与していたとしたら───?)
美禰子の中で瑞城と現相馬家に対する疑念は、ますます膨らんでいくばかりであった。
庭園を検分した時に感じた屋敷や紡績所を巡る呪力も、全くの無関係ではないだろう。
相馬家で隠然たる権力を揮うこの目の前の少女が、邪教の淫祀を司る巫女なのか否か───それを確と見極めなければならない。
現相馬家が真に簒奪者であり、また邪なる目的で帝都に巣食っているとしたら───それは帝都の、ひいてはこの国の喉元に、危険な短刀が突き立てられている事になる。
それは古くからこの国を護持する彼女の結社が、到底看過し得るものではなかった。
「そんなに凝(じ)っと見られては困惑してしまうわ。先刻から如何なさったのかしら」
瑞城と当り障りのない会話を続けながらも、その裏で様々な思考を巡らせつつ、さり気なく気配を探っていた筈の美禰子だが、瑞城はその気配を鋭敏に察知したようだ。
苦笑する彼女の透徹した碧眼の中に、鋭い輝きが一瞬宿ったのを美禰子は確かに見た。
(警戒されてしまったかしら───いいえ、それは今更な心配ね)
社交界でたまたま近づいて来た京出身の落魄華族の娘。そんな者に心を許して屋敷へと招いてくれた───などという都合の良い解釈は、彼女も端から期待してはいなかった。
恐らく瑞城にしても、急に接近してきた彼女の肚を探っている処なのだろう。
「これは失礼。素敵なお屋敷の雰囲気にすっかり酔いしれてしまった様ですわね」
美禰子は見え透いた世辞でそれに応え、いったん、話題の風向きを変えた。
「地味で退屈な屋敷でしょう? 古いばかりが自慢の手狭なあばら家で、お客様をお招きするのはちょっと躊躇(ためら)われてしまうのだけれど」
「いいえ、こういった古風なお屋敷の方が却って落ち着きますわ。昨今の帝都中枢を占める高層建築は、私には少々奇抜に過ぎて見えますもの」
『御寮衛士』といった最新の防犯装置こそ設置されてはいるものの、この屋敷自体には昨今帝都に乱立する高層建築の様な構造上の外連味はなかった。諸外国に倣う事で精一杯だった頃の日本の職人が精一杯に造り上げた、古き良き初期西洋建築の貴重な遺産であろう。
「全部が全部、あの帝都バビロンの様な物になってもどうかと思いますものね」
美禰子が口にしたのは、彼女が初めて瑞城に接触した夜会が催された、帝國ホテル新館の異称である。それはかの高名な西洋の建築士、フランク・ロイド・ライト氏が心血を注いだ超巨大高層建築物であった。
“帝都に一際荘厳な神話にも匹敵する金字塔を現出させよう”という彼の意欲と情熱は、悪い意味で暴走した。当初予定の数倍の規模へと計画は拡大され、膨大な建築予算を湯水の様に費やしたが為に、それを容認した支配人と銀行の融資担当が解任・起訴され、ライト氏も更迭の上、強制送還されたという。
そこで新館の建設は一端凍結を見たが、その直後、折り悪く旧館が失火によって失われたために、急遽、新館がそのまま運用される事となったのである。
「あれの落成式の事は、わたくしも覚えておりますわ。丁度、あの日の事でしたものね」
未完成のまま落成日を見た空前の高層建築物の姿は、フリューゲルが描いた『バビロンの塔』その物であり、また落成式典の当日に発生した不可解な現象もあって、“帝都バビロン”の不吉かつ不名誉な二つ名を戴く羽目となったのであった。
「あの日───とは、『集団眩暈事件』の事ですわね?」
それは今を遡る事、およそ三年前───大正一二年九月一日、午前十一時五八分三二秒に発生した、謎の集団喪神現象の事であった。
「私も丁度あの時、帝都におりましたので体感しましたわ。何も揺れてはいないのに意識を───いえ、魂が強く揺すぶられる様な、あの異様な感覚を」
当日、帝都や近隣の都市にいた人々のほぼ全員が、足元から這い上がってくるような奇妙な振動感に見舞われた。だが地面も建物も、物理的には一切振動していなかった。
しかし、余りに強い激震感に襲われた為に喪神する者が続出した。それが『集団眩暈事件』という何とも直截な名の由縁だが、原因不明の現象故に、それ変わるより相応しい名称を誰も想起できずに今に至る。
その発生原理を解明できた者は、美禰子たちの属する裏の世界にも未だ現れていない。
「私は丁度、帝國ホテルに着いた処でしたわ。バビロンの上空に奇妙な極光が現れて。ホテルの支配人などは、すわ天罰の雷か、とか慌てふためいておりましたわね」
口許に苦笑を浮かべる瑞城であったが、その眼は決して笑ってはいなかった。
「ええ。私の周りでも、次々と人が倒れてしまって───。下町の方では火の手も上がるし、一時はどうなる事かと思いましたわ」
丁度、昼時で竈の火が延焼したのだろう。帝都内の木造建築が密集した地域の数か所で、火災が発生した。
「でも、丁度、帝都内に配備された放水器が現れて、消し止めてくれたのでしたわね。そう確か、あれは御当家の───」
「ええ、そうですわ。綾部式移動水竜器(ポムプ)『吐龍(とりゅう)』ですわね」
それはどういった原理か不明だが、周囲に火災が発生すると自律的に現場へ移動し、消火を開始する絡繰り機械であった。前もってそんな設備が配置していたが為に、帝都は致命的な焼失を免れたといっても過言ではあるまい。
かつて家督簒奪を謀った上に、今では帝都の富を独占しているとして、帝都の人々に嫉まれる相馬家。
その一方で、彼らの成した事跡によって救われた命も少なくない。今日の帝都の異常とも云える発展も、彼らが寄与した処は大であろう。
(いったいどちらが本当の相馬家の顔なのかしら───)
その時、瑞城の澄んだ瞳に一瞬、悲痛な色が浮かんだのを美禰子は垣間見た。
「天罰───であってたまるものですか。わたくしたちは───」
思いつめた様な瑞城の表情は、邪祀淫蕩に耽る悪女にはとても見えなかった。
(人は見たい物を相手の裡に見るもの、か───)
美禰子は新たに得た幾つかの情報から、疑念に凝り固まっていた己にはたと気付いた。
(頭を冷やしてもう少し慎重に見定めるべきかしらね)
ひとまずは志賀家や他の旧家臣の線を掘り下げてあたってみるとしようか───そう思い始めていた彼女の耳朶を、やにわに硝子窓の外から響いて来た喧騒が叩いた。
「……どうしたのかしら?」
窓から外を見下ろせば、衛視に発見された降市荷十が、這う這うの体で門の外へと逃げ去っていく様が遠目に見えた。
(あらあら……捕まらないで欲しいものだわね)
微かに冷や汗を滲ませる美禰子の背後で、けたたましい音が上がり彼女は振り返った。
「ご歓談中失礼します、瑞城様!」
綾部高丸青年が部屋へと駈け込んで来たのであった。
「何時になっても芸を覚えぬ駄犬ね。打扉(ノック)はどうしたの、高丸」
瑞城は既に普段の輝きと、臣下に対する傲岸さとを取り戻しており、先刻の翳りなど露程にもその顔に残してはいなかった。
「はっ、誠に申し訳なく───」
「良い。早く要件を延べなさい。まったく愚図なのだから」
いつも通りの主従の遣り取りに、美禰子は苦笑を隠せずにはおれなかった。

 こうして相馬の謎を追い図らずも帝都の来し方を辿って来た鷺原美禰子こと麗人M1号は、この後、帝都の行き方を決定づける熾烈なる戦いへと足を踏み込んでいく事となる。
その顛末については、いずれまた、別の機会に語られよう。

<帝都転遷流記・五 了>

───次回、新編(筆者:希)、11/28より「Game-Style」様HPにて連載予定。
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