──時に、西暦1907年半ば。
 ──カダス列強のひとつ王侯連合の首都にて、私は、今宵のパーティから帰宅する。

 侯爵夫人という偽りの身分に与えられた、小さな貴族用邸宅。
 小さいとは言っても。
 民衆にとっては充分に大きいとは言えるでしょうね。
 私にとっても、これは、広すぎる。

 どこにいても落ち着かない。
 もっとも、それは、私があの日、あの時、ルーアンで一度死してからずっと同じように感じてきたこと。私の居場所など地上の何処にもありはしないのよ。偽の赫眼を得て虚ろに蠢く亡者には、安寧の場所など、ないのだから。

 だから私は、今夜も。
 こうしてテラスへと出て空を眺めるの。

 ほら。見えるでしょう。見えるわ。
 我が故郷である欧州と違って、カダス文明圏では、夜になればほんの少しだけ雲の隙間から星を見ることができる。砂漠都市ヴァルーシアでは、阻むもの一切なく眺めることのできた星空が、ここでは、見えない。いいえ、僅かでも、星が見えるだけましね。
 ああ、見える。見えるわ。
 あれは、シリウス?

「おおいぬ座の、シリウス」

 シリウス──
 このカダスの地に星剣をもたらした偉大な星が見える。

 星剣。星と同じ名を有するそれは《時間人間(チクタクマン)》の力さえをも利用して蠢く我ら赫眼の者を滅ぼし得る数少ない刃。事実として、1年ほど前には、砂漠の地で我が同胞シャルル・ヴィクトール・ルクレールを一度は斃しかけた。
 強制的に永遠を与えられた私、いいえ、我々の、忌むべきもの。

 そうだとしても。
 私は、あの星の美しさを疎むことはできそうにないわね。

 声を聞いたあの日。
 私が、まだ生きていた頃の私が、まだ、ジャンヌであった頃の私が、声を聞き、その意味を噛み締めて塔から空を見上げた、あの日の夜。輝いていたのも、同じ星だった。星犬シリウス、星剣シリウス、どちらも今や忌むべきものなれど、私にはできない。

 トートもきっとそれを識っている。
 光輝なりしはアルトタス=トート=ヘルメース。
 至高なりしはアルトタス=トート=ヘルメース。
 恐怖なりしはアザトース=トート=ヘルメース。

 ──我ら結社《西インド会社》総帥にして。
 ──栄光と称号を捨て去りし無謀の王。

 カリオストロ=サンジェルマン。
 光輝のラウダトレス。
 偉大なる三角形。
 GEOMETRY。
 ツァラトゥストラの坊やあたりであれば超人と呼ぶのでしょうね。

 神聖都市で至上命令を下したバルタザール体は、識りながらこの私に問い掛けて。
 砂漠都市で玉音を下賜されたメルキオール体は、識りながらこの私を嗤っていた。
 そして、カスパール体は、今も、見つめ続けているのよ。
 邪悪極まる《時間人間》と共に。
 カダスに浮かぶ、西享のそれよりも遙かに巨大な月(Azathoth)越しにか、それとも、この歪な世界の隙間からか。空の果てか、タタールの門の果ての窮極の門からか。

 その証拠に、
 ほら。今も、こうして背後に。

「失礼いたします。ヒルド・ロメ・ダルク」

「遅いわね。今日は」

「申し訳ありません。第3首都での所用がありまして」

「暗殺?」

「まさか。現在の結社は40年前とは異なり常に穏便な組織でありますとも。
 もっとも、かの《機械卿》閣下には、ご理解叶わなかったようではありますが」

「どの口が」

 背後に控える人影に私は肩を竦めてみせる。
 ああ、今夜も。今宵も、こうして、私の元には組織の遣いが訪れる。
 失態を繰り広げた《三博士》に代わり、緑の石と、結社基幹計画の主導者として再び40年前のように最高幹部へと舞い戻った《黄金王》ローゼンクロイツ卿の配下。総帥トートとかつて死闘を繰り広げたと言われる彼もしくは彼らも、今や、従順にして実直なる結社の“手”のひとつ。ああ、いいえ、むしろ“目”かしら。

 博物学の王たる碩学ダーウィン卿はかつて言った。
 目。眼球。

 これだけは、このように複雑怪奇な機構だけは、彼の唱えた進化の理屈に合わないものであると。けれども現在、数多の生物が有している。目。眼球。

 他者を認識する扉。
 世界のかたちを容易に認識し得る扉。
 それは、窮極の門に属しているのだと言ったのはローゼンクロイツ卿自身。

 私の背後に控える者も。
 彼の有する“目”のひとつ。

「ヒルド・ロメ・ダルク。今宵の首尾は」

「上々よ」

「ならば連合皇帝とは」

「来月には。魔女のわざ(ウィッチクラフト)を仕込めるかは不明だけれど」

「お気を付け下さい。現連合皇帝との接触は過去4度に渡り失敗していますが故に」

「失敗したのはヴァイスハウプトの坊やよ」

「は。これは失礼を」

「バベッジの《35年の罠》が解除されてから4年。
 カダスを掌中に置きたい意向は分からないでもないわ。でも、覚えておきなさい」

「は」

 皮肉を込めて。
 私は、背後のエージェント越しに神ならぬトートへ告げる。

 ああ。残念。
 気付けば、空覆う灰色雲はかたちを変えて、既にシリウスは見えない。
 星のない、月のない、何もない灰色の夜空。

「カダスに遺る《ふるきもの》や《35年の罠》然り。
 両世界に跨る《時間人間》も、そうね。結社は、時には絶対ではない」

「ご冗談を」

「ええ、冗談よ」

 そう言って。
 私は、軽く笑ってみせる。

 次の瞬間には、背後の気配は雲散霧消していた。
 影人間の原理で肉体改造を施された影化人間である彼にとっては、どこにいても、どこにいなくても同じこと。今頃は既に、きっと、このテラスから遠く遠く離れた場所で次の相手と言葉を交わしているか、誰かを殺していることでしょうね。
 姿を見せることもなく。
 ただ、声か、刃だけを滑らせて。

 どうでもいいこと。
 どうでもいい。

 と──

 背後に。私は、彼とは別の気配を感じて。
 誰。識らない気配。いいえ、これは、識っている?

 常人には聞き届けられないほどの微細な機関音、機械音を私は聞き取っていた。これには聞き覚えがあった。そう親しみがある訳ではない、けれども、聞いたことがある。確か以前は西享、欧州、神聖都市で。玉音を賜る知識の間で、そう、あの無表情の仮面を張り付かせた私たちとは異なる、完全に異質な“人間もどき”に付き従っていたあの娘。
 哀れな人形。
 哀れな、あの、人間の娘の機械音。

 完全機関人形(エンジン・ドール)の動作音。
 佇む気配。あれと同じ。

 空色に似た瞳の、あの娘。
 あの人形。

 自らのあるじと同じ色の瞳をした、ああ、そうよ、私と紅茶を飲んだ数少ない結社員のジェーン、あの愚かで愛らしい娘が恋した黒の男と同じ、本当の、青の空色の瞳。
 名は、確か。

 ──モラン。とか。
 ──ええ、そういう名前の機械人形。

 

「……これは、これは」

 



[Valusia of shine white -what a beautiful hopes-] Liar-soft 26th by Hikaru Sakurai / Ryuko Oishi.
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