──都市セラニアンにおけるファルミ数値の異常観測終結より、暫くの後。
 ──Mの姿は湖畔にあった。

 

 黒色のコートに身を包んだ彼は、都市セラニアンに隣接した湖の畔に立っていた。
  常に彼の傍らにあった黒の少女の姿はなく、黄金瞳の少女も既に此処にはいない。
  彼は、或る人の来訪を待っていた。
  特に約束などは取り付けていない。
  ただ、偽りの手紙で黄金瞳の少女をおびき寄せ、かつて同胞であった一柱を用いて茶番を目論んだ人物へ彼なりの礼を尽くさねばと考えただけのこと。礼。そう、彼は、王たる自分を奇矯な茶番へ招待した者へ贈り物をすべきだと考え、そのために、こうやってひとりで湖畔に佇んでいるのだ。

 機関人間セバスチャン・Mとメアリ・クラリッサについては、問題ない。
  ふたりの連れていた濡れた毛並みを持つ黒い《仔犬》の正体には気付いたが、別段、Mが手を出すことはなかった。興味などない。既に朧の幻にすぎず、人間如きに一度は弑されもした存在など、言葉を掛けるまでもない。小さな《仔犬》の姿でさえおよそ我が物ではあるまい。黄金瞳の影響で顕現しただけの幻。儚き影だ。
  既に、少女ふたりとその1匹は、現在の後援者であり協力者である連中に用意させた小型碩学式飛空艇《クセルクセス》へ乗り込ませてある。今頃は都市の管理空域から離脱している筈だ。
  なぜ一緒に逃げないのかと問う黄金瞳の少女へは、後片付け、とのみ伝えた。
  更に言葉を続けようとする少女を制して、無理矢理に乗せたことを思い出す。彼としてはこのまま帝国を経由してロンドンへ送り返すつもりだったが、万が一にも再会の機会があれば、随分と質問攻めにされるのだろう。
  だが、答えるつもりなどない。
  そも、あの黄金瞳の少女に、メアリ・クラリッサと相対するつもりなどなかった。

 セラニアンに滞在していたのは偶然に過ぎない。
  一時の宿にこの水の都を選んだことも。ここから、1通だけ、中身のない手紙を送ったことも。すべては偶然だ。ウニヴェルサーレがセバスの配送先にここを選んだことも。
  だが、しかし。
  茶番を仕組んだ《結社》はそれすらも計画に組み込むつもりであったのか。

「ヴァイスハウプト。
  人間風情がこの俺を謀ってみせるか」

 Mは笑みを浮かべていた。
  それは、彼が《怪異》を捕食する際のものと同一だった。

 そうすべきかどうか。
  最後の判断を、Mは、迷っていた。
  後顧の憂いを断つべきか。それは容易い。人間は簡単に死ぬ。普段、Mがそれをせずにいるのは、現在の協力者であるウニヴェルサーレの意向もあるが、何よりも、そうする意味がないからだ。殺すことに意味はない。どうせ、人間は瞬きの間に死ぬ。

 だが今はどうだ。
  ただMとだけ名乗る男、ジェイムズ・モリアーティよ。

 この青空の都市で黄金瞳の仔猫と再会してから、彼は、ずっと考えていた。
  今は、逆に、殺さないことへの意味がない。たかが何柱かの《ふるきもの》を御した程度の人間たちなど、小癪なばかりだ。ここで教団をまるごと全滅の憂き目にでも遭わせてやれば、ヴァイスハウプトは《結社》内での主導権を失うだろう──

「……これは、また。ひとり残って囮でも務めるつもりですかな」

「見ない顔だな」

「お初にお目にかかります。わたくし、コンスタンツォと申す者。幻想教団こと《イルミナティ》を統括する、しがない碩学崩れにございます。黒の王、お見知りおきを」

「無理な話だ」

「これは手厳しい。流石、黒の王だ」

 声を掛けてきた男はひとり。
  だが、気配は数十。正確には66。湖畔に立つMの周囲を、総勢66名の人影がぐるりと弧を描いて取り囲んでいた。各々が手に鉄の塊を携えている。緑色の石の破片をあちこちに埋め込んだ、最新型の機関銃。否、あれは違う、蒸気圧縮砲か。個人携行できる兵器の中では最も威力のある、陸上戦車すら破壊可能の代物だ。しかも《緑の石》を埋め込んであるとは念入りなこと。
  成る程、あれが、哀れにも囚われることとなったエーゲ海の“水の精”を弑したものの正体であるらしい。高度な碩学機械であることが見てとれる。確かに、幾分かの想いが込められたものなのだろう。標準的な小型メガコアトル程度には、充分な武装と言える。
  予備戦力として“コピー・ファウスト”数基の気配もある。
  さらに、薄く低く響く機関音は、帝国製機動要塞のものか。
  なるほど、このMという男を、戦術級の機関兵器程度には捉えているという訳だ。

 けれどそれも、彼にとっては、あまりにささやかなものだ。
  黒の王たる彼を弑すには、あまりにも。

 あんなものでは、竜を殺す聖ジョージの剣たりえない。
  あんなものでは、暗がりの腕を反らすことも叶うまい。

「どうです。気付かれましたかな、この、壮観なる殲滅の徒はすべてあなた1柱のためのものだ。66名の殲滅部隊、模造ファウスト5基、カダス北央帝国製機動要塞2基、機関化兵1個中隊、戦闘用影人間540体。神性もどき1柱を弑すに充分な戦力だ」

「成る程」

「我々は、既にあなたのような“大物”を駆逐する装備と戦術さえ整えた。あなたの知らぬうちに。そうです、あなたが異形都市へ単身趣いて以降、道化と共にシャルノス計画を進めるさなか、我々は力を蓄えた! 既に、あなたの感知しえない暗示迷彩を──」

「無様だ。人間」

「……ハ、ハハッ、大きな口を叩いていられるのも!」

「黙れ」

 愚かにも眼前に集結する《イルミナティ》教団の人間たちへと、右手を向ける。
  終わりだ。
  人間を捕食するのは随分と幾万日ぶりだ。

 味わいを思いだそうとして、Mは眉をひそめる。
  そういえば。最後に人間を喰らった時、確か、告げられた言葉があった。
  あれは──

「コンスタンツォと言ったな。ひとつ尋ねる」

「え、ええ。何なりとお答えしましょうとも」

「俺の名を騙り、メアリ・クラリッサ・クリスティを誘き寄せたのは誰だ」

「この私です。黄金瞳に手出し無用との総帥よりの勅は賜りましたが、ご旅行に招待してはならぬとはお聞きしていなかったものでね。彼女はよく動いてくれた、こうして」

「そうか」

「こうしてあなたを燻し出すことにも成功したという訳だよ! 黒の王!」

「もういい。死ね」

 彼を人間のかたちへ押し込めるものを、解き放つべく思考する。
  クルーシュチャ方程式の名で呼ばれる自らへの戒めを大脳で紐解き、あまねく万物を砕き呑み、鏖殺することを許された黒色異形の“腕”を伸ばす、その刹那──

 

 

『…………!』

 

 

 ──何だ。聞こえたものは、音、否、違う。声だ。
  ──それは誰かの声だった。

 何かの音が聞こえていた。
  誰かの声が聞こえていた。
  コンスタンツォ公爵諸共に周囲の人間66名を今まさに鏖殺せんとするMへ、ジェイムズ・モリアーティへ、呼びかける誰かの声を確かに聞いた。Mは我知らず、戦慄していた。この声。かつて、幾億めかの夜の玉座で自分を叱咤したあの声。黄金瞳。そこからこぼれ落ちる雫の美しさ、投げかけられる声の美しさ。忘れるはずがない。例え幾星霜経ようとも、永遠に。

 Mは戦慄していた
  声に。いいや、違う、そうではない。

 数ヶ月ぶりの感覚に、彼は戦慄する。
  わかる。
  明確に。
  自分へ呼びかける黄金瞳の気配。かつて見た、聞いた、あの声、まだ幼かったはずであるのに今も変わらずに響く、あの声が。自然と振り返っていた。空へ。周囲の男たちも気付いてはいない、しかし、Mには声の主がどこにいるかが認識できていた

 ──そして、振り返るMの視界に入るのは。
  ──こちらへと迫る小さな飛空艇と。

 

「……メアリ・クラリッサ、か……」

 

 ──彼の視界に入るのは。小さな飛空艇と。
  ──身を乗り出しながら手を伸ばす、黄金瞳の仔猫の姿だった。

 

 

 























[Sharnoth of pitch black -what a beautiful tomorrow-] Liar-soft 24th by Hikaru Sakurai / Akira.
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