「……何だこれは」

「詳細は不明です。我があるじ」

 

 ぼんやりとした視界の中に、あなたと黒の少女がいる。
  あたしは、メアリ・クラリッサ・クリスティは言葉もなくそれを見上げていて。
  うん、そう。言葉。
  声が出ない。

 全身が熱くて、熱くて、言葉を出そうとしても小さな呻きにしかなってくれない。
  思考が澱む。意識が霞む。
  ひどい熱が出ているのがわかる。からだが熱くて、そのくせ際限なく湧き出て下着と服を濡らす汗はひどく冷たくて。

 ──熱い。熱い。熱い。
  ──寒い。寒い。寒い。

 視界から認識できるのは、ここが、暗がりに充ちた部屋の中であるということ。
  あなたと少女がすぐ近くにいるということ。
  あたしの、あたし自身の息がやけに大きく聞こえているということ。

 あの《怪異》にどこか似た鉄人形は少女に破壊された。そこに悲鳴はなくて、あの子の言う通りに、あれは誰かの想いによってかたちを得た《怪異》ではないのだと思う。それでもあたしは聞いた。聞こえた。あの鉄人形のものじゃない、けれど破片を、飛散した飛沫を通じて響く誰かの声。たすけてと、呼びかける声。今も。聞こえる。強く。強く。
  誰の声。わからない。
  この全身に充ちて、張り裂けそうなほどに昂ぶった熱と同じに。

 汗でぐっしょりとなったドロワーズの感触が、冷たくて、気持ち悪い。
  でも、それを告げることもできない。

 飛沫のせい?
  多分、きっとそうなのだと思う。鉄人形を覆っていた“水”のひとつ、飛沫が、あたしの左頸部に付着した瞬間から。この都市に着いてからあたしの感じたあの声、囁き声が、強くはっきりと響いて。
  漠然とした印象でしかなかったそれが、はっきりと、声、言葉となって。

 

『──た──』


『──す──』


『──け──』


『──て──』


 助けて。そう言っている。誰が。何が、助けを求めているの。
  熱は、その瞬間からあたしの体を駆け巡っていた。異常を察してくれた少女の問い掛けに「平気よ」とその時は応えて、でも、あなたに指定された隠れ家らしき場所へ到着した途端、あたしの体は平衡感覚を失って、倒れてしまって。

 体が高熱を発していた。
  血液が沸騰するような、いいえ、血液の中で別の血液が暴れているような錯覚。
  数分遅れて到着したあなたは、眉をひそめて──

「観測した事実を伝えろ。セバス」

「はい。敵性体との戦闘時、“水”の飛沫が彼女の皮膚に付着。皮下に浸透し、身体機能を蝕んでいます。黄金瞳である故の反応かと。現在、飛沫は付着点に留まっていますが、数分で大脳辺縁へ達します」

「摘出しろ」

「できません」

「……」

「敵性体は《結社》の制式戦闘人形“コピー・ファウスト”でした。更に、不明の“水”を纏い、Uモジュールを使用した2級戦闘行動を採らなければ撃退は不可能でした。モジュール使用後、2時間は私の出力が上昇したままです」

「構わん」

「出力調整機能に問題があります。
  私が行えば、彼女の肉体が損傷します」

「……ウニヴェルサーレには程遠いな」

 熱に浮かされていても、わかる。
  もしあなたがあたしたちと同じ体なら、溜息を吐いていただろうということ。
  幻聴か、それとも別の何かか、意識へ届く声に対してうなされるように小さく呻くあたしへとあなたは近づき、無造作に、飛沫の浸透した箇所へと──








 


  ──あなたの顔が近付いて。あたしは避けようとしたけれど、体は動かずに。
  ──首筋に、冷ややかな感触。

「……あ、ぅ……」

 声、ううん、呼吸が漏れた。
  あなたの顔があたしの首筋に近付くのがわかって。瞬間、体中の血管の中でで沸き立っている熱が跳ねたような、そんな錯覚があって。顔を背けて避けようとしたけれど、できずに、あなたの唇が首筋に触れる。冷たい。冷たい。体温のない、溶けた氷の温度。
  蛇の姿を霞む意識で思う。
  低い体温を持つという生き物、多くの地域で“神”とされるそれ。

「……だめ……」

 ──音。声。そう。
  ──今度は、確かに声だった。

「……だ、め……ジェイム、ズ……」

 見ているのに。
  黒の少女の感情のない瞳、空色の。あの子が、あのひとが、見ている。だめ。

 ──だって、あなたは。
  ──あなたは。

「……モラン……」

 その刹那、あたしは何を考えたのだろう。
  わからない。
  あたしは、この胸と全身とに渦巻いて沸き立つものが何かを知らない。
  熱。飛沫のもたらした熱。そう、きっと、そうなのだと思う。
  だって、あたしは。
  あたしは。

 首筋に、あなたの触れたばしょに濡れた感触があった。唾液なのか、あたしの中へと浸透したという飛沫なのかはわからない。ただ、濡れた感触があると認識した瞬間に、体じゅうの熱が跳ねて。
  だめ、だとあたしは思う。
  だめ。これは、あたしを。

 かろうじて動いてくれた左手で、彼の肩を押す。何をしようとしているのか、そう、あの子と会話していた。摘出。飛沫を。熱を、からだの異常の原因を。そうであるはずだと意識できるのに、あたしは、嫌だった。触れられてはだめだと、なぜかそう思って。
  焦っていたと思う。
  本当に、離れて欲しくて、あなたに。

『暴れるな』

 声。言葉ではない、正しく音声ではないそれは。暗がりのシャルノスで聞いた、あなたが呼びかけてくるものと同じ。頭の中、胸の中、どちらかへと響くもの。
  あたしは気付かない。
  瞼を閉じているから。

 あなたの姿が人間ではないものへ変じていることも、
  あなたの顔が蠢く恐ろしいものへ変じていることも、
  気付くことがなくて。

 ただ、あなたの手が、押しのけようとするあたしの右手を掴んで──
  覆い被さったあなたの体がわかる。

 ──だめ。だめ。嫌。
  ──そう、あたしは、どうしても嫌だった。

 覆い被されることが?
  いいえ。

 口付けられることが?
  いいえ。

 ──嫌なのは、自分。
  ──だって、あたしは。あたしは。

『痛むぞ』

 そう告げると、さらに強く、あなたは肌に口付けて。
  ずるりと何かが蠢いて。全身で暴れる熱の中心、首筋、胸元、あちこちへと“蠢き這い寄るもの”が浸透していく。例えようのない違和感。圧倒的な異物感。からだの中に、何かが、首筋を通じて侵入しているのがわかった。血管、骨格、筋繊維、肉体を構成するはずのそういうものとはかけ離れた部分に、それでも確かに自分へ“入る”のがわかる。

 悲鳴は出なかった。
  あたしは、その時──

「……う、あ、あ、あ、あッ……!」

 わからない。
  わからない。

 這い寄るものが首筋にあって、あたしの中の熱を吸い上げて。抜き取って。
  何をされたのか。わからない。薄目を開ける余裕さえなく、あたしは、声を、言葉にできないまま、漏らす。

 急速に体の熱が治まっていく。
  ぼんやりと拡散しかけていた意識が、戻っていく。
  今まで何を考えていたのか、考えかけていたのか、あたしは懸命に振り払う。

 ──それでも。
  ──それでも。

 

 ──助けを求める声は。
  ──飛沫の熱を抜き取られても、尚、消えることがなかった。

 























[Sharnoth of pitch black -what a beautiful tomorrow-] Liar-soft 24th by Hikaru Sakurai / Akira.
TOPPAGE / EXIT(LIAR HP TOP)