──黒の少女は水路を進む。
 ──どうしても、あたしは、メアリ・クラリッサは彼女を見つめてしまう。

 

 黒色の彼の命令を受けて、セバスと呼ばれた黒の少女は水路を進む。細い腕で舵を軽々と扱いながら、あたしを乗せた機関艘を操って。無言で。無表情に。一切の言葉を口にせずに、感情の色を表情に乗せて浮かべることもなく少女は艘を高速で進ませる。
  先刻と同じように艘の縁にしがみついて水しぶきを僅かに受けつつ、あたしはその横顔を見つめながら、ああ、やはり、と思う。
  その気配を、あたしは、やはり知っている。
  確信できる。
  似ている。一度思えばもう止まらない。

 瞳もそう、幾分幼くなってはいるけれど横顔もそう。編み込まれた髪の色だって。
  そう思いながら見れば瓜二つとは行かないまでも、すぐに連想できてしまうほど。
  すぐに気付かなかった理由はきっとふたつ。服装と雰囲気が陸軍服とは異なっていることと、それに、あたしがあのひとの“消える”瞬間をはっきりと目にしていたせい。
  もう、会えないと、思っていたせい……。

 あたしは少女の横顔を見つめている。
  セバス。そう、あなたはこの子のことを呼んでいたけれど。

「……モラン?」

 ──自然と唇から名がこぼれていた。
  ──暗がりに消えたあのひと。ジェーンと同じ、誰よりあなたを愛したひと。







 

 もうどこにもいないはずの彼女の気配、ああ、確かに。右瞳がそう告げているのが、今のあたしには理解できた。黒の少女。セバス。いいえ、違う、違うわ、その名前はきっと合っているけれど本当は違うはず。あたしは、あの、静かで落ち着いた、そしてどこか寂しげなあのひとの気配を感じてしまう。
  名を口にしてからは、いっそう強く。強く。

 けれど、黒の少女は感情の薄い表情で、こう言うの。
  不思議そうな響きを声に含めて。

「私は……。
  私はセバス。セバスチャン・M。あるじに仕える、第5世代機関人間です」

「セバスチャン・モラン」

 似ている──
  その名前──

 セバスチャン・M。少女の囁いた名は、あのひとのものにとてもよく似ていて。あたしは呟いてしまう。そうなのでしょう? あなたは、モランなのでしょう? そう、想いを込めながら。別れを告げられた。消えるさなか、二度と会えないということを、確かに自覚したのに。それでも、あたしは呟いていた。
  黒色の玉座で限りない夜を過ごしたあなたを、心から愛したひとり。
  声だって。似ているの。
  そう、確かに思えるから、あたしは呟く。けれど。

「いいえ、はい。
  あなたの告げたモランという名を持つ第4世代機関人間は、機体消失しています。
  行動情報及び経験情報の一部は私の記憶野に複写されていますが、機体も、頭脳部も、基本設計も、タイプ・モランとは異なるものです」

「違うと、あなたは言うの……?」

「はい」

「でも、でも、あなたの横顔はとてもよく似ているわ。
  気配もそう。あたしの黄金瞳は、あなたがモランだと告げている」

「タイプ・モランはヴァイスハウプト博士による設計ですが、
  この私は、ウォーモ・ウニヴェルサーレによって形作られました」

「……でも……」

「はい。メアリ・クラリッサ・クリスティ、あなたにわかりやすく表現するなら」

 紡ぐ言葉を一度切って。
  少女が、それまでずっと視線をこちらへ寄越すことのなかった、セバスと名乗る少女があたしの顔を一瞬だけ見つめる。モランやあなたと同じ色の瞳。静かに、今ではこの清浄の空の色なのだとわかる涼やかな色を湛えた瞳が、あたしを見つめて。
  小さく、けれど、はっきりと少女は口にする。
  小さく、けれど、確信に充ちた気配を湛えて。

 一切の動揺のない平淡な表情で。
  それでも、どこかに、憂いが見えると思えるのはあたしの錯覚──?

「“別人”です」

 淡々と。そう告げる──
  瞬間。船体を衝撃が襲った。体が揺れて、平衡感覚がかき乱されて、視界が不定形のものに覆われる。それが水面に突き立った巨大な水柱なのだと認識できるまで、およそ0.5秒。その時にはもう、あたしの体は宙を舞っていた。何かが、艘を襲った?
  混乱はしなかった。ただ、緊急事態、危機的状況なのだと右瞳が告げていて。
  ピストルの弾でこんなにも大きな水柱はできるのだろうか。ううん、できない。
  ならばこれは、何。

 宙へ飛ばされながらも思考が落ち着いていたのは、セバスと名乗る少女のせい。この子は、あたしよりも小柄であるのに、あたしの体を軽々と抱きかかえて、艘から高々と跳躍していたのだから。
  跳躍高度はおよそ10フィート以上。
  助走もなく、生物としての人間に跳べる高さじゃない。

 ──でも。でも、あたしは知っているの。
  ──あなたが人間だということを。

 覚えている。ウェストエンドの路地裏で目にした、あのひとの体。あたしを庇ったために銃弾を受けて、失われてしまった腕。鋼の体。回路部。人工肢。それでも。
  そんなことはどうでもいいの。
  あたしは知っている、モランが人間だったということ。
  だから、この子だってそう。続けざまに水面へ付き立つ幾つもの水柱の中、それらを生み出した元凶、飛来する“何か”によって粉々に粉砕された艘の破片を蹴りながら跳躍していく黒の少女。セバスと名乗った、少女。この子も、きっと、あのひとと同じに人間であるに違いない。
  ううん。いいえ、あのひと自身に違いない!

「セバス、ううん、モラン……!」

「舌を噛みます。沈黙を。
  敵に捕捉されました。移動法を変更します」

 モランではない。そう断じる黒の少女は、飛翔しながら、平衡感覚の混乱と揺さぶられる内臓の感覚に吐き気を無視しながら言葉を重ねて問おうとするあたしの唇を止めて、ふわりと橋のひとつへ着地した。
  モランの時とは違う、リッツ最上階の窓を破って飛び降りた時とは違う感触。
  あの大きな衝撃はなかった。
  あんなにも高々と跳んで、ふたりぶんの体重がかかりながら着地したというのに、柔らかく曲げた膝が衝撃を吸収している。金属の軋む音すらない。“モラン”の時よりも関節部の機能性が上がっている、それに、小型化も──
  間違いなく何かに襲われている、そんな状況であるのに、あたしの右瞳と思考のひとかけらがそんなことを考えてしまっていて、はっとする。何。何、考えたの、今。

 この子は人間よ。
  モランが、そうであったように。

 それなのに。右瞳が、この数ヶ月というもの何も告げてこなかった瞳が、今は、はっきりと告げている。
  なぜ。なぜ。なぜ?

 冷静に自分で考えてしまった事柄について、あたしは、混乱しかけて。
  呆然となってしまう。あたし、どうしたの。右瞳も。
  何が起きたのか、艘を失ってこれからどうするのかを尋ねるべきであるのに、あたしは何も言えずに。少女に手を引かれるまま路地裏へと入って──

「敵です。メアリ・クラリッサ」

「え……」

「あれらは砲撃です。艘の機関音から推測して撃ったものではありません。暗示迷彩が通じない何者か、不明の敵性体と考えられます。先行してください」

 ──先行してください?
  ──先に、あたしだけ行けということ?

「あなたを置いていけません。あんなのが当たったら、あなた、だって」

「問題なし」

「ないわけが、ないでしょう!」

「いいえ、はい。予備の同型機が在ります。現状ではあなたの安全が最優先と設定されています、メアリ・クラリッサ・クリスティ」

 ──ぱん、と。
  ──小さな音が響いていた。

 それが、あたしの手が少女の頬を張ってしまったためだということに、最初は気付かなかった。何。どうして。何をしてるの、あたし。あたしの体、あたしの右手。
  時間はない。銃弾か大砲だかわからないけれど、それで襲われた。あたしたちは逃げないといけない。余計なことをしている暇なんて、一秒たりともありはしないのに。

 あたしの右手。
  勝手に動いていたのは、ああ──

 そう。……そうね。それは“余計なことではない”から。
  替えの利く、まるで機械のように自分を話す黒の少女、セバスと名乗るこの子の言葉を聞き流すことができなかったから。それを否定することは、あたしにとって、微塵も余計なことではなかったのだから。

 でも。でも、待って、待ちなさい、メアリ。メアリ・クラリッサ。
  あたしはどうなの。
  着地の瞬間。あたしは、あたしの右瞳は、この子のことを、どう、見ていたの?

 ね、メアリ。
  それなのに、あなたはこの子の頬をぶつの?

 ──この空と同じ色の瞳。
  ──少女は僅かも揺るがずにあたしを見つめている。声も、表情も、なく。

「……ごめんなさい。ごめん、こんなこと、あたし、あなたに」

「問題ありません」

「ううん」

「いいえ。問題ありません」

「モラン、あなたなんでしょう。戻ってきた、そう、よね……?
  だって、あなたの瞳は以前と少しも、変わらない」

「待って」

 静かに。それでも明確に、制止の言葉。
  言葉を続けようとしたあたしを、少女が、止めた。唇に指をあてて。

 理由を尋ねる必要はなかった。
  少女がそうするよりも前に、右瞳が、何者かの訪れを告げていたから。

 それは、少なくとも、人間ではなかった。
  背の高い、蠢く“水”を全身にまとわりつかせた鋼の“何か”が、あたしたちの潜む路地裏を覗き込んでいる。落とし物を探すように、迷子になった仔犬や仔猫を探すように、自然な素振りで、生気の一切ない瞳をてらてらと赫く輝かせながら。

 ──それは“人形”だった。
  ──鋼で形成された怪物と呼ぶこともできるだろう。巨怪とも。

 無機質な、笑う人間の顔を模したかのような仮面に覆われた頭部。
  いびつに歪む人影を形成する、無骨な機関機械の四肢。
  機関音響かせる火の心臓を稼働させるクロームの胴部。
  暗がりの中で、全長10フィートを優に超す異形の機械人形がこちらを見つめる。

 赫く輝く瞳で。
  薄く濁る瞳で。

「《怪異》……?」

 こちらを覗き込む巨怪。シルエットはかろうじて人型だが、人間とは違う。違う。
  半年前、ロンドンの暗がりで遭遇した怪物たち、鉄枷ジャックやレッドキャップの姿を思い出してしまう。でも。でも、でも、きっと違う。だって、こちらを覗き込んでくるあの巨怪には、シャルノスの気配を感じないもの。
  黒と赤を感じない。
  水を纏っているのに、そう、ジェーンの気配はどこにもない。
  でも、何か、《怪異》と近いものを感じるのは、確かで……。

 わからない。あれは何。
  鋼の機械、艘を襲った兵器の正体なのかとも思う。
  でも、表面を覆って蠢く水、あれは、機関機械でどうにかしたものじゃない。シャルノスの暗がりであたしを襲った《怪異》たちと同じ異形のもの。そう、右瞳が告げる。

《……発見……》

 ──声。人間のものではない声だった。
  ──機関機械の合成音声に、よく似ている。

 けれど同時に、あたしは別の“音”を聞いていた。
  呼吸が止まる。
  胸の奥から湧き上がる、熱、ざわつき。
  数ヶ月前まで、何度も感じてきたもの。

 そう。これは。
  間違えるはずがない。

 あたしは恐怖を感じていた。
  でも、待って。待って、違う、あたし自身の恐怖。違う、これは、あの巨怪から?

《……目標、発見……》

《……ウニヴェルサーレ式機関人間、及ビ、黄金瞳……》

《……確保行動、開始……》

 金属音を立てて近付いてくる、巨怪。鉄人形。ひどく耳障りなその足音に、機関音が混ざって、かなりの音量が響いているにも関わらず、周囲の建物から誰かが顔を出すことはなかった。無人の裏路地は静かなまま。あたしは直感的に理解する。シャルノス、いいえ違う、ここは確かに都市セラニアンのままであって、ただあれは。
  人に見えず、人に聞こえないだけ。
  右瞳で“視”ればそうだとわかる。

 あれは、暗示迷彩がもたらすものと同じように在るのだと。
  助けはない。まさか人目を気にすることもないのだと思う。
  10フィートの巨体が、ゆっくりと、歩いて来る。歪んだ、先端に砲門の如き暗い穴を備えた鋼の長い肢を石畳に擦らせながら──

 ──水路に水柱を幾つも立てたのは、あれ?
  ──機関艘を粉々に破壊した、飛来するものを射出する兵器?

 息ができない。
  我知らず喘ぐ。
  続けざまに強烈な目眩が視界を歪ませる。
  呼吸困難。目眩。思考が途切れて意識がぼやけてしまう。かつて《怪異》がもたらしていたものが、あたしを襲う。苦しい。わかる、これは、恐怖が、内側から、外側から、際限なく沸きだしてあたしを包む。

 でも、ええ、平気、あたしは平気。思考はできる。
  体は動く。動くはず。
  混乱しそうになる思考の濁流の中で意思の刃を突き立てて、あたりは、唇を噛んで。
  立ち止まれない。

 セバスと名乗るこの子にも、黒色のあなたにも。
  まだ言えていないことがあるから。

 巨怪に邪魔される訳にはいかない。例えこれが新しい《怪異》であろうと、そうでなかったとしても。逃げないと、ここから。走ろう。あたしは、そう意識して少女の手を引こうとする、けれど、既に。あの子が、黒い少女があたしに側から既に離れていたことに気付く。いない。何処──?

 ──視界に。黒い小柄な人影。
  ──あろうことか、少女は、鉄人形のほうへと一歩進んで。

「やめて、モラン、ううん、セバス、逃げないと──」

「あなたの行動には問題があります。メアリ・クラリッサ。
  いいえ。あなたが先行しないため、私は、2級破壊行動を採ることとなります」

「駄目。モラン、《怪異》を傷つけたら」

「いいえ。あれは違います。
  限定的な意味合いでは私の同類です。ただ」

 ──少女の両手に何かがある。
  ──それは、きっとあの子の“武器”なのだろう。

「ただ、私よりも弱い」



  ──驚くほど大きな銃が炎を吹き上げる。
  ──それは、あまりにも容易に。あまりにも呆気なく。巨怪を。砕いた。

 見覚えのある光景だった。
  ひとつ、ふたつ、みっつ。水を纏った怪物の体に大きな穴が穿たれて、瞬時に弾けて、鋼鉄でできているはずの体躯をばらばらにしてしまう。悲鳴はなかった。モランと呼んでしまった、セバスと名乗る少女の言う通り、そうであったのかどうかはわからない。けれど、《怪異》であれば響くはずの悲鳴が、なかった。
  それに。大きく違うのはもうひとつ。

 弾丸に穿たれた巨怪は砕ける。
  暗がりの《怪異》たちは、弾丸では、動きを止めただけだったのに。

 二丁の大きな銃を軽々と扱って、少女は弾丸を撃ち込んでいく。
  断続的に刻まれる銃声は、まるで、楽器のよう。
  全身を覆う“水”の膜も飛沫と消えて、さらに最後の弾丸が機関部らしい鋼鉄の塊に命中すると、巨怪は轟音と共に“爆発”した。炎。衝撃。煙。飛沫。飛沫。飛沫。

「……破壊完了」

 曲を終えたロマの踊り子にも似て、黒の少女はふたつの銃ごと両腕を掲げ──
  背後すぐの爆炎にさえたじろぐことなく、静かに、そう告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




















[Sharnoth of pitch black -what a beautiful tomorrow-] Liar-soft 24th by Hikaru Sakurai / Akira.
TOPPAGE / EXIT(LIAR HP TOP)