──美しき湖岸都市セラニアン。
 ──本当に。其処は、その名の通りの場所だった。

 

 視界一面に広がる“それ”に、あたしは、メアリ・クラリッサは戸惑ってしまう。
  とても綺麗で。
  とても荘厳で。
  とても涼やかで、とても清々しくて。
  なのに、どうしてか現実感が乏しく感じられて。
  目に見えているものが何であるのか、はっきりと認識できない。不思議な感覚。
  母の伝手を使って乗り込んだ1級都市発の飛行船特別便での旅の最中、一般客は窓を開けることは禁じられていた。だから、恐る恐るタラップを降りてからずっと目に入ってくる、この色、何よりも“美しく”澄み渡った空の色が信じられなくて。

「青……。
  これが、本当の、空の色……?」

 いいえ、とも。はい、とも返答はない。
  子供たちやご老人たちが“隙間”から見えるものだと囁くけれど、少なくとも、あたしの住む英国では今ではもうおとぎ話の中と、一部の人々の意識だけにあったはずの、本当の天空。在ったはずの空。自然と、ヴァイオラのことをあたしは思い出す。いつか、跡公園であのひとは言っていたっけ。ずっと以前の新大陸西部で本当の空を見たって。
  同時に、なぜか、一度しか会ったことのない人物の横顔も脳裏に浮かぶ。
  名前。覚えてる。確かそう、ミスター・チャーチル。そう名乗っていた。
  ふたりのことを、重ねて、あたしは思い出していた。

 どうして。
  どうして。
  こんな風に、胸の奥が、痛むの──

 タラップを降りて。セラニアンの飛行場に敷き詰められた舗装道路を踏みしめて。
  あたしは、空に充ちる美しさに囲まれて、まるで“酔う”ような圧迫感と違和感とを感じながら、胸の奥の不思議な痛みを抱えながら、思う。ひとつのことを。

 本当に──

 本当に、この都市のどこかにあなたはいるの?
  だって、あの暗がりの街と比べて、ここは、あまりに。あまりに……。
  想像できない。彼は、一体どんな顔をしてこの都市にいるの。絶え間ない圧迫感と違和感のためか、まるで夢の中にいるようで、飛行船の中でまだ眠っているのではないかとさえあたしは思う。ううん。違う。踏みしめた靴底から返ってくる感触は、確かなもの。

 あたしは空を見上げる。美しい空を。
  綺麗なその“色”を見つめながら、自然と眉を顰めていた。綺麗な空。こんなにも美しいものが世界に在っただなんて。本当に、心の底からそう思う。でも、少しも現実感を伴わないのは、どうして。どうして。何故。あたしがここに、ひとりでいるから?
  だから、夢と区別がつかないだなんて、僅かでも思うの?

 それなら、もしも、横に誰かいてくれたら。
  あたしはどう感じるのかな。

 シャーリィ。アーシェ。
  もしくは、ここに、いるはずの。彼が、もしもこのカダスに──

「カダス」

 言葉が唇をついて出る。
  そう、ここは、想像の場所でしかなかったカダスそのもの。正しくは、その異境。
  現実感はどうしても薄いけれど、そうなのだから。

 英国海域は北海の彼方に存在する“門”を通じて往くことのできる異境、カダス。
  そこは本来、英国よりも遙かに暗いとされる灰色雲に充ちた、機関の世界、機関革命の中心地として名高い高度蒸気文明世界とされている。それなのに、ここは。このセラニアンだけは、違う。出発前にミスタ・ハワードから多少は聴いてはいたけれど、あたしは初めてのひとり旅で緊張していたせいか、それとも他の理由で緊張していたせいか、きちんと話を聞けていなかったのだと思う。
  ううん。いいえ、聞いていたわ。きちんと認識できていない、だけ。
  人類未到の“大辺境”のただ中にあって、中世より存在する北央帝国の“飛び地”。

 ──本当にミスタ・ハワードの言った通り。
  ──機関帝国とさえ呼ばれる国、唯一の、飛び地。遠方の、異境の独立都市。

 ここに、灰色雲は存在していない。空に在るのは燦然と輝くもの──
  たったひとつで奇跡のように大地へと光をもたらす、あれが、ロンドンの空よりも遙かに目映くきらめく“太陽”だというの。
  あんなにも、激しく輝いて。
  あんなにも、ああ、燃えさかる白の光。これが本物の“陽差し”というなら。
  空全体を美しさに覆われながら、ここは、あの白光に守られているのね、と──

 これではあなたは、到底、身を置いていられないのではないかしらとさえ。
  思ってしまう。思いかけてしまう。
  でも。でも。
  確かに『2通目の手紙』はこの都市からあたしの元へと届いたのだもの。

「……………」

 呆然と。呆然と。あたしは空の美しさに気圧されながら、目を奪われながらも、係員の指示をなんとか聞き取って、歩いて。空港施設で入管で事務手続きを済ませて、1週間ぶんの滞在許可を貰って。事前に調べていた、ううん、ミスタ・ハワードに調べて貰っていた通り、空港を外に出るともうすぐにセラニアンの町並みが広がっていた。
  ロンドンと違い、空港はそれほど郊外部には位置していない。公園跡を使っている、とミスタは言っていた──気がする。ううん、しっかりなさい、メアリ。

 町並みを歩く。歩く。
  空の美しさに気圧されながら、目を奪われながら。

 町並みは、欧州の穏やかな田舎の都市のよう。煉瓦造りの建築物群。あまり背の高い建物も多くはなくて、絵画に残されたドイツ帝国の町に似た印象を受ける。あれよりも随分と大きいし、よく見ればちらほらと機関煙突が見受けられるけれど。
  ひときわ目を引くのは高い高い尖塔。透明度のあまりに高い、空の色を映し込む綺麗な湖の岸に面したあたりに聳えるあれは、確か、ここがまだひとりの領主に治められていた頃の旧公邸の建造物だという話。
  道行く人影はあまり多くない。歩き始めて10分ほどしても、すれ違ったのはせいぜい数人といったところ。静かな、静かな街だった。

 この街にいる。どこかに、あなたがいる。
  こんなにも美しくて、こんなにも目映い都市のどこかに、あなたが。
  娘ひとりで見知らぬ街で誰かを捜して歩くだなんて、危ない上にできるはずがないと、きっとシャーリィなら諫めると思う。でも、いざとなったらそうしようという覚悟を、あたしは、していた。いざとなったら。うん。いざとなったら。
  でもまずは、母の知己や、ミスター・ハワードのお知り合いに連絡を取らないと。都市に住んでいる人に彼の風体を伝えて、可能であれば、調べていただいて。
  そのためにも、超々遠距離電信で事前に予約を入れておいたホテルへ──

「あ……」

 ああ。もう、しっかりしなさい、メアリ。
  チェックインするはずのホテルへ向かって歩いて“いない”ことに気付いたのは、少し後のことだった。考え事をしながら、呆然と美しさに圧倒されながら歩いていただけで、目的地のホテルへの道順のことをすっかり忘れていただなんて。何してるの。もう!
  あたふたと、慌てて、鞄から地図を取り出そうと──


『──た──』

『──す──』

『──け──』

『──て──』


 ──何。今の、音、ううん、わかる。違う。
  ──それは誰かの。声?

 何かの音を聞いた気がして。
  誰かの声を聞いた気がして。
  地図を取り出そうとするあたしへ、メアリ・クラリッサへ、小さく小さく呼びかける誰かの声を聞いたような気がして。あたしは戦慄していた。誰の声。聞こえた、それが聞こえたの、本当に? いいえ、わからない。それはあまりにか細くて、弱々しくて、風の流れと本物の“陽差し”に溶かされて消えてしまいそうな、小さな音。声。本当に聞こえたのかさえ自信がない。ない、のに。

 あたしは戦慄していた。
  声に。ううん違う、違うの。そうじゃない。

 数ヶ月ぶりの感覚にあたしは戦慄する。
  わかる。
  はっきりと。
  自分を追う“何者か”の気配。聞こえたはずの小さな声のもの“ではない”という直感がなぜかあった。気のせい。錯覚。そう自答しつつも、あたし自身驚いてしまうくらいに体は自然と動いていた。足音も立てずに移動する。素早く。
  路地裏、建物と建物の隙間の陰に身を隠す。
  みるみるうちに響いてくる靴音たちの群れ。

(あたしを、追ってきている、の?)

 そう、なのだろうか。急いて走り寄る男たちの靴音。音の重さからそう判断する。
  コーカソイドの成人男性が数名。専門に勉強した訳ではないのに、すっかり●卿の人体犯罪学が身についてしまった。革靴。物盗りの類にしては、随分と拵えの良い靴音。何にせよ尋常な気配ではない。あたしは息を整え、2秒だけ目を閉じて意を決すると、建物の陰から駆け出した。
  走る。走る。走る!

 人通りの多い場所か、警官のいる場所、もしくは目的地のホテルまで。
  ともかく、捕まらずに、逃げなくてはいけない。

 数ヶ月ぶりの逃走劇だった。
  あたしは、全力で、息せききって走る。脚にはすっかり自信がついていた。人間なんかにそう簡単に捕まりはしないもの。今だって、日課のトレーニングは欠かしていない。テムズのほとりの早朝ジョギングは、もう、メアリ・クラリッサの生活の一部ですもの。

(……しつこいッ!)

 5分は走り続けた、と、思う。入り組んだ路地へ運良く飛び込み、それなりに引き離しもしたはず。それなのに、追い縋る気配が消えてくれない。直感で理解する。相手はこの街路を事前に把握しているのだと。地の利は、あたしには、ないのだと。
  瞬間。意識に浮かんだのはジェーンの横顔。
  色濃く漂う水の匂い。排煙の溶かし込まれた廃液に澱んだテムズのものとは違う、澄んだ水の匂いがして、あたしはその方向へと走る。背後の靴音が一瞬だけ戸惑うのがわかった。なるほど、うん、こっちに行かれるとまずい、ということ。そうだと確信する。

 見えた。水路。
  町並みのちょうど裏側、表通りの裏を走るように延々と続く水路がそこにあった。

 ヴェネツィアほとではないけれど、ああ、この街は。
  水路の雰囲気はイタリアの“水の都”とよく似ていた。移動用のものに違いない。
  向こう岸へと架かった小さな橋をあたしは──

 ──瞬間。
  ──ひどく乾いた音が、足下で“炸裂”した。

 音が空気を弾くこの音。
  聞き覚えがあった。あれは、背の高いあのひとに守られながら逃げた時のこと。あたしと彼女を襲った彼らが手にしていた、管楽器にも似た奇妙な武器。あれから放たれたものが生み出す乾いた音。銃弾。そう、あたしの足下に、それが撃ち込まれた、のだ。
  意図はわかる。
  “動くな”、もしくは、”殺す”ということ。

 背後の追跡者たちへ、銃を撃ち放ったのであろう彼らへ振り返るべきかどうか、あたしは僅かだけ迷ってしまった。焦ってしまった。考えていたから。銃。銃を持っている。乾いた音にあたしが立ち止まってしまったのは、橋のちょうど中央。ここから水路へ飛び込んだとして。銃を撃たれれば、どうなってしまうか。水は銃弾を防げただろうか。この布の多い服で、あたしは、泳げるの。水泳の授業は、あまり、得意じゃないのに。
  あたしは考える。
  観念したかのように振り返る、その演技の最中も。
  何か、何かあるはず、あの恐ろしい《怪異》たちからも逃げられたんだから。
  ただの不審な男たちなんかに、人間なんかに、あたしは捕まったりしないわ──

『やはり』

 ──何。今の。
  ──声。誰の。

『大した逃げ足だ、仔猫』

 ──声。あなたは誰。
  ──あなたは、前にもあたしを呼んだ。

 声がする。聞き覚えのある、男性の声。追跡者たちのものではないと明らかにわかるそれは、すぐ“下”から響いていた。音ではない言葉。耳ではなく、別のどこかへと響いているのだと思わされる、ああ、それは、確かに、あなたの声。
  どこから。
  意識が“下”を示す。あたしが立ち尽くす小さな橋の“下”だと、そう、わかる。

 視線を向けるよりも前、既にあなたの姿がわかっていた。
  この目映い都市には不似合いな、
  この美しい大空には不似合いな、
  誰よりも漆黒の似合っているあなた。
  水路を進む小型の機関艘(エンジン・ボート)にすらりと立つ、あの、黒い人影。

『飛び降りろ』

 ──なぜ。なぜ?
  ──問いかけることは、幾らでもあるはずなのに。

 あたしは迷わず。
  銃弾さえ恐れることなく、橋を、飛び降りていた。


 

「大した跳躍だ。仔猫」

「…………」

「何だ」

「……な、何を言うか、ま、困った……のよ……」

 ──勢いよく飛び降りて。
  ──落ちた。

 橋から。落ちた、下に。
  激突と間違えそうなほどの重い──けれど痛みは僅かもない──衝撃に視界が揺らいだかと思った瞬間、轟く音と共に体が、いいえ、機関艘が水路を猛烈な速度で移動を始めたのが認識できた。耳をつんざくような、凄い、機関音。追跡者たちが幾つかの銃弾を撃ち放つけれど、届かない。当たらない。

 風を引き裂いて、飛沫をあげて。
  機関艘が水路を走る。
  たなびく髪が、黒い姿へ僅かに触れる。

「……M……」

 自分自身の重みを感じる。受け止める黒い両腕が、ことさらに強く意識されて。
  あたしの体はあなたに抱き留められていた。
  衝撃にも、高速移動でかかる運動エネルギーにも揺るがない腕。あたしのものよりも長くて太い指先。ズロース越しに感じられるそれは、生気のない冷ややかさ。
  あたしの右瞳は、彼の薄い空色を見つめて。

 ──ああ、この冷たさで、この沈む薄い空色の瞳で。
  ──はっきりと思う。


 ──あたしは、再び、あなたに会ったのだと。

 






















[Sharnoth of pitch black -what a beautiful tomorrow-] Liar-soft 24th by Hikaru Sakurai / Akira.
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