諸君も知っての通り、機関都市ロンドンの治安はすこぶる良い部類に入る。犯罪発生率の低さと犯罪検挙率の高さは世界有数であり、《ビッグ・テン》と呼称される世界最大10都市の中でも1、2を争う治安の良さで広く知られている。ただし。これには大都市特有のとある前提条件が必要となる。すなわち“犯罪地域”と俗称される一部地区に困窮した貧困層を押し込め、通常の法とは異なる“地区の法”で以て管理を行っているからに他ならない。即ち、ギャングやマフィアなどの犯罪組織による、貧困地区の支配である。


勿論これは政府が公式に発表するものではないし、スコットランド・ヤードが認めるところでもない。多くの市民諸君も、せいぜいが噂を聞くばかりで実態はご存じないのが大半であろう。我らがロンドンにおける“犯罪地域”であるところのイースト・エンドは、その血塗られた歴史に比べれば穏やかなものではあれど、紛うことなき犯罪者、組織によってある種の管理が行われているのである。1890年の「ウォール街の悲劇」によって衰退した新大陸第2の重機関都市ニューヨークでの活動に意味を失った移住ギャングこそが、その正体だ。


表向きには合法企業として海運業や港湾業(最近では飛行船・飛空艇による空輸業にも手を広げつつあるという)で商活動を行っている彼らは、その非合法活動をイースト・エンドに限定するという条件つきで、かの地区の管理を任されているのだ。無論、公式資料などは存在しない話ではあるが、記者はとある情報源からこの噂が事実であると確信している。情報源との契約、彼(もしくは彼女か。特定できないことをお許し願いたい)の安全を守るために、詳しくは記述できないのがもどかしい。


兎も角も、イースト・エンドはこうして“ある程度”の管理が成され、貧困層や犯罪者の流出が“ある程度”まで抑制され、ロンドンの他地区の犯罪率の低下に一役買っているという訳である。無論、旧ニューヨーク・ギャングたちだけのお陰で我々の安全が守られている訳ではないことは記しておこう。ヤードのたゆまぬ努力、ジャックを二度と見逃しはすまいとする警官たちの献身がこの誇るべき治安の土台を形作ったことは、まぎれもない事実であるのだから。


ジャック。そう、多くを語る必要はないだろう。過去、ロンドンはイースト・エンドに血の惨劇を巻き起こした恐るべき伝説的犯罪者は、かの連続猟奇大量殺人事件から年月を経た現在でもさまざまな影響を残している。エイダ主義が語られるようになっても夜中の女性のひとり歩きは敬遠されるし、幼い子供を躾ける際に「夜ひとりで歩いていたらジャックが来るよ」「良い子にしていないとジャックが来るよ」などのフレーズを使う親は少なくないし、未だにジャックの再研究を謳った書籍や雑誌の特別号は一定以上の売り上げを見せ続けている。


ジャック。やはり、過去に起きたあの無残な事件を思わせる名ではあるが、この名が恐怖の代名詞として英国で使われたのは初めてではない。鉄枷ジャックと呼ばれる、ある種のおとぎ話の登場人物を諸君はご存じだろうか? ヨークシャーに縁の読者であればよく聞いた名だろう。遙か中世の昔、十字路に鎖で繋がれて命を落とした死刑囚が邪悪な妖精と化して、道行く人を(旅人とする説もある)襲うというおとぎ話である。史学を論ずるつもりは毛頭ないが、ジャックの名を冠する恐怖は既に中世から存在していたのである。

ちなみに、この鉄枷ジャックをモチーフとした最新の怪奇小説が発売中だが、それなりの売れ行きを見せているという。名の力であろうか、それとも、鉄枷ジャックそのものの怨念も最早現在では書籍の売り上げを左右する程度のささやかなものであるのか。


これは未確認の情報であるが、ロンドン犯罪史にその名を残す議事堂爆破犯ガイ・フォークスが、ラツダイト運動家として用いていた暗号名が“ジャック”であったという噂もある。現在でも活動が囁かれる、機関打ち壊しと文明回帰を標榜するラツダイト派──暴力を旨とする憎むべき犯罪者たちもまた、それに肖ろうとでもいうのか、暗号名に“ジャック”やそのアナグラムを用いているという。これが事実であるならば、我々にとって“ジャック”という名は、まさしく不吉の象徴であるのかも知れないと言えはしないだろうか。


ロンドン。治安に優れた世界有数の機関都市。紛うことなきこの事実は確かに誇らしくも素晴らしいものではあるが、我々は、時には、呪われた名と共に振り返るべきなのではないだろうか。ジャックそのものの帰還であるとか、その呪われた血族であるとか、ラツダイト派よりも高度な体系で組織されたテロ・ネットワークであるとか、もはや空想の域であるとも言っていいだろう欧州の闇を統べる巨大犯罪組織たる《結社》であるとか、最近勃興している飛行艇港利権の確保のためにギャングとラツダイト派が手を組んだであるとか、ルネサンス主義貴族と一部政治家による宮殿制圧計画であるとか、女王陛下の治世に仇なす犯罪者、犯罪集団の噂は耐えることがない。それらのどれもが一部の都市伝説の専門家(碩学と呼ぶのもおこがましい下卑た連中である)が喜ぶ程度の荒唐無稽なおとぎ話の範疇を出ないものであることは認めざるを得ないが、しかし、我々はただ安寧に身を委ねているだけで良いと考えるのは早計だ。


些末な噂などどうでも良いのだ。しょせんは噂、都市伝説にすぎない。しかし、現在のロンドンには、夜の暗がりで人を襲う現代のジャックこと《怪異》の噂が急速に広まってるという事実がある。先述した噂など目ではない、子供から老人まで、誰もが少なくとも週に1度は耳にするというこの噂については、未確認で不確定な情報ではあるが、被害者という“確かな物証”が存在するという噂までもが出回っている。ヤードは否定しているが、遺体を引き上げる場面を写した篆刻写真(ピントがぼやけて何がなんだかわからないとも言えるが)までもが一部タブロイド誌で取り上げられるというこの事態は、これまでに幾つも浮いては消えた泡沫の如き小さな噂とは比べものにならない。


我らが愛すべきロンドン。世界有数の治安を誇るはずのこの都市で、このような噂が広く出回るという状況は、果たして何を意味しているのだろうか。明確な結論を出せぬままに一端筆を置くこととなるが、記者は、言いようのない不安を拭い切れずにいる──


──では、本記事の最後は、若手記者の中では最もロンドン・イーストエンドに詳しいと我々の界隈で囁かれている某有名大手新聞社の事件記者へのインタビューで締め括らせて頂くこととする。

「あん? 俺にインタビューだぁ? お前、一応は俺とご同業だろうが。機関式録音機なんかこっちに向けたってなんにも答えねえぞ俺は。タダでネタなんか出せるかってんだ。しかも何だ、今時“ジャック”なんざ扱って何になるよ。だいたいありゃあ88年の第1ジャックと89年の第2ジャックをヤードが同一人物として捜査したっていう大間違いを語らずには……って、おい、その手には乗らねーからな! ったく、お前、碩学院の特集記事がどうのって言ってなかったか。ん、何、それとは別? ああもう、お前は本当に最高にデイリー向きの記者だよ!」

〜『The Daily Mail』1905年09月30日号記事より抜粋〜