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「面影」

──奇妙な夢を見た。
悪夢を見ること自体は珍しくはない。キャナリーの悲観的な気質が影響しているのか、崩れかけの丸木橋を渡らされたり、怪物に襲われたり、夢の中では散々な目に遭いがちだ。
けれどいつもなら、朝の身支度を済ませるうちに、夢の残滓は跡形もなく消え去る。
夢の中でどれほど脅かされようと、現実に影響することはない。
そして目覚めた後の世界には、より明確で避けがたい脅威が多く存在する。山積みの課題とか、アドラーの叱責とか、進みの悪い学習だとか、重圧だとか。つかの間の幻想劇を引きずる余裕など、どこにもない。
しかしその日に限っては、夢の余韻はいつまでも去らなかった。
誰が出てきたか、どんな内容だったか、何ひとつ思い出せないのに、胸の奥に薄い影がへばりついているかのようだ。形を読み取ろうと目を凝らすほどにわからなくなる、不定形の不安の影が──
キャナリーは煮え切らない気分を引きずったまま、どこか覚束ない足取りで廊下に出る。
すると、寮を出ていこうとするマコーの後ろ姿が目に入った。
「おはよう、マコー」
マコーも振り返って、穏やかな笑みで挨拶を交わす。
「おはよう、キャナリー」
「パヴォーネは? まだ寝ているの?」
それは、キャナリーからすれば当然の問いだった。マコーとパヴォーネは、いつもふたりで1セット。そう思い込んでいるのはキャナリーだけではない。
けれど、マコーにとっては不本意な問いかけだったらしい。伏せられた青い瞳に、チラリと、拗ねたような影が過った。
「昨日の朝、パヴォーネに言ったの。もう明日は起こしに来ないからって」
「え……?」
「パヴォーネも、それでいいって言ったわ。起こされなくても、人はいつか起きるものだからって」
「パヴォーネが?」
「そうよ。だから……邪魔はしないほうがいいでしょう」
話の流れはよくわからないが、マコーはパヴォーネの発言を、「余計な世話を焼かなくていい」と解釈したらしい。
しかし、今までふたりの人となりを見てきたキャナリーには、別の捉え方ができた。
「キャナリーは、どこへ行くの? 座学室」
しかし、言葉に迷ううちに、マコーが話題を変えてしまう。
「いいえ、今からじゃきっと学習装置は使えないし、図書館に行こうと思っていたの」
「一緒に行っていい?」
「もちろん」
ふたりは連れ立って歩き出す。
今日は「礼讃日」だが、礼讃の刻限にはまだ間がある。図書館で、今日の自習に使う参考書を探すには、ちょうどいいくらいの時間だ。
マコーの足取りには、迷いがない。友人を叩き起こして支度させる無為な時間よりも、自らの学習の下準備をする時間のほうが、遥かに有意義ではあるのだろう──しかし。
「マコー、さっきの話だけど」
迷いに迷ったキャナリーが切り出したのは、中庭の前まで歩を進めた時だった。
「パヴォーネが言ってたこと……『起こされなくても、人はいつか起きるもの』って……」
マコーはパヴォーネの名に反応したが、声には出さず、ただ眼鏡の奥で瞳を複雑な色合いに瞬かせただけだった。
「それはたぶん、自分だけでもちゃんと起きられるから大丈夫、って意味じゃないと思うわ」
「……?」
「ほら、ちょうどいい時間に起きられる、とは一言も言っていないでしょう。むしろ『いつか』は起きるって……」
「…………」
そこからしばらく歩いたところで、マコーの足取りが止まった。
「……忘れ物」
独り言のように呟いたかと思うと、気もそぞろな様子で挨拶をして、去っていく。寮の一部屋から伸びた見えない糸が、マコーを強い力で引きずり戻したようだった。
今から取って返せば、礼讃には間に合うだろう。尤もマコーは、パヴォーネの意思を尊重して──もしくは自らの意地と戦って、ギリギリの刻限まで様子を見るかもしれないが。
「…………」
キャナリーの口から、安堵に似た吐息が漏れた。
マコーは、パヴォーネに対していささか過保護な自らを恥じながらも、面倒を見るのが好き。パヴォーネはパヴォーネで、マコーに世話を焼かせて申し訳ないと思いつつも、その好意を喜んでいる。
本人たちにとっては気恥ずかしい間柄なのかもしれないが、キャナリーからすれば、凹凸がぴったりと噛みあうような微笑ましい関係性だ。
寮のほうへ遠ざかっていくマコーの小さな人影を好ましげに目で追ってから、キャナリーは図書館へと歩き出した。
扉を開けるや否や、二重の円を描いて高く聳える書架が目に入った。いつ見ても圧倒的な眺めだ。館内を感嘆とともに見渡したキャナリーの瞳は、次に、風景から浮き上がって燃える赤毛へと吸い寄せられた。
ロビンだ。外辺部の書架用脚立に腰かけ、書籍を読みふけっている。長い脚を放り出した格好は、行儀がいいとはとても言いがたいのに、何故か樹上に憩う獣めいた品を感じさせる。
と──ロビンが呼ばれたように顔を上げ、こちらを見た。
「……!」
煌めく金の瞳に射すくめられ、キャナリーの鼓動が跳ね上がる。それこそ肉食獣と目が合ったかのように、身の裡がぎゅっと引き締まり、呼吸を忘れてしまう。
目が合っていたのは、ほんの一瞬だ。
すぐさま、ロビンは疎ましげに目を細め、視線を引き剥がした。
「…………」
書物に没頭する横顔に目をやったまま、キャナリーは深いため息を吐く。
マコーとパヴォーネの一幕から得た胸中のぬくもりが、急速に冷えていく。露骨な嫌悪と軽蔑──まるで、手のひらに乗せた果実が急速に腐ったかのような反応だ。
何故ロビンに嫌われているのか、キャナリーにはわからない。何故彼女の態度に、いちいち過剰に反応して、傷ついてしまうのかも。
そもそも、根本的に気質が合わないのだろう。賢くて大胆なロビンの目に映るキャナリーは、歯がゆいほどに意気地のない存在に違いない──
──気になるなら、話しかけてみたら?
「え……?」
その瞬間、脳裏に蘇った声に、キャナリーは小さく声をあげた。
──うーん、そうかしら……。あなたたち、なかなか相性がいいようにも思えるけど。
──ほら、マコーとパヴォーネだって、正反対でしょう? 似ていないからこそ噛みあうって、あると思うのよ。パズルのピースみたいに。
「…………」
キャナリーは目を瞠ったまま、呼吸さえ潜めて、頭の中に響く「声」に集中した。
そこで、やっと思い至る。
これは夢の中で聞いた声だ。今朝方、キャナリーの胸にへばりついてなかなか離れなかった、奇妙な夢の残滓。
しかし、夢の内容を思い出しただけ、というほど曖昧な音韻には思えなかった。
瑞々しい生命力に溢れた、可愛らしい少女の声。今まさにキャナリーの目の前に立ち、溌溂と語りかけてきたかのような。
もちろん、キャナリーの前にあるのは、重苦しい書架としかつめらしい背表紙の群れだけだ。いやに生々しくはあるものの、実在する少女の声帯から放たれたものではない。
知らない声だと思った。
一般クラスの顔しか知らないような生徒なら、心当たりがなくてもおかしくはない。しかし、あの親しげな口調から察するに、忘れていることが不自然なくらいの間柄だったのではないか──
奇妙なことに、キャナリーは声の主の実在を疑わなかった。
夢の中で自分が作り出したものではなく、いつかどこかで出会った誰かの声が、夢において再現されたのだと、根拠もなく信じきっていた。
キャナリーは軽い眩暈を覚えて、書架に手をつく。
強烈な懐かしさが胸を絞めつけるのを感じながら、胸中で問いかけた。
(あなたは、誰……?)
しかし、答えなどあろうはずがない。
頭の中にこだましていた弾むような音韻は、問うと同時にぴたりとやんでしまう。
後にはただ、思索を阻む壁のような沈黙だけが、色濃く立ち込めた。
──それは、錆びついていた時計塔の鐘が激しく打ち鳴らされる、少し前の出来事だった。
to be mainstory……
(イラスト:大石竜子 文:海原望)