2件目の暴行事件。その発生を俺達が知ったのは事件から3日後だった。
連続して起きた異常事態は職員達の動揺を招き、そこを突いた非公式ゴシップ誌「ポーラースター・アドバタイザー」が素っ破抜いた号外記事『連続レイプ事件発生……か!?』は学生達を動揺させた。
事態を憂慮した学園側は公式発表を行ない、あくまで暴行事件であると強調したが、一度決壊した堤防の水は止められない。
船内には様々な憶測が溢れ、購買部通りに臨時に作られた防犯グッズ店は大繁盛。
学生達は親しい者同士で互いに連絡を取り合い、それがいつの間にか、お泊りブームにシフトしたりと微妙なズレもみせながら、緊張感は高まった。
ニコルは表向き、その状況を面白がってみせたが、密かに部屋の鍵を増やした。
用心深さは、卒業後、外界で待っている俺とニコルの世界では鎧に等しい。
そうして身を固めたニコルが次にしたのは、仲間の心配だった。

スタッカートの効いたピアノ曲。ヤークトヴルストの香ばしい風味。
存在自体が贅沢なポーラースターの船内にあっても、ニキ・バルトレッティの奏でる音楽に浸りながらの昼食ってのは、極上に相当する。
俺は、ここのところ1日おきにニキの部屋に預けられている。
人との接触を恐れて、孤立している事の多いニキ。色男の俺は当然だが、ニコルは、この気難しい天才音楽家と不思議と馬が合った。
ニコル「ココんところ、運が上向きでさ。ドバっと稼ぎたいんだ。頼むよニキ」
そう早口で言って、昨夜も俺をニキの部屋に放り込んだニコル。実際カジノで時間を潰してんだろうが、こう連日だと身体の調子が心配だ。
ニキの手が止まり、楽譜に何事か書き付けるペンの音が走る。
ニコルはまだ知らないが、この曲は、ニキがニコルのために作っている感謝の曲。
人一倍感性の鋭いニキが、ニコルの配慮に気付かないなんてあるはずもない。
曲を聞かされた時の、ニコの照れっぷりを想像するだけで尻尾が揺れる。
そんな俺を見てニキが微笑む。なんだか、だらしない姿を見せたようで、気恥ずかしく視線をそらすと、ピアノの蓋を閉じたニキが近づいてきて俺を抱きしめた。

抱え上げた俺をずるずると引きずったニキは、部屋の隅に置かれたソファに座り込むと、俺の胸に回した右手でゆっくりとしたリズムを取り始める。
新たな曲の着想を得たのだろうか。小さく歌うニキの声が部屋に溶けていく。
オレは良い音楽は黙って聴く。歌にあわせて吠える奴もいるみたいだが、あれは芸術を理解してない証拠。フィレンツェ育ちのコローネ様は違いのわかるオス犬なのだ。
閉められた外窓。隙間から伸びる光が、部屋に所蔵された楽器を淡く照らす。
ニキは、楽器を眺め、そのパートのメロディを声にした。
バラバラだった音をまとめて一つにする……つっと、その流れが止まった。
わずかに早まったニキの心音。その理由は俺にもわかる。耳に響く軽快な足音。
顔を赤らめて耳を澄ますニキの腕から抜け出し、俺は扉の前で、そいつを待ち構えた。
柔らかいノック。続いて響く能天気な声。
杏里「やあ、ニキ! 庭園喫茶の新作、とびっきりのキルシュトルテを持ってきたよ」
鍵を前脚で解除し、口でくわえてドアを開ける。
扉の向こうに立つ杏里・アンリエットは、満面の笑みで待ち構え、右手に持った包みと、左手のガラス壜を顔の両側にやり、おどけたように言い放つ。
杏里「やあ、コローネ。お茶替わりにミルクを持ってきたから、一緒にどう?」
一緒に? 野暮言うな杏里。俺を馬に蹴らせて殺す気か。
部屋の中から楽譜で散らかった机を慌てて片付ける音がする。
そんなニキの姿を見ずドアをくぐる俺に、杏里が屈んで、まとめたリードを口に咥えさせてくれた。
そのまま杏里は、俺の耳の後ろを撫でて小声で囁く。
杏里「キミのご主人様は庭園のベンチでお昼寝中だよ。早く行ってあげて」
おいおい、出会ったのに素通りかよ。杏里ともあろうものが冷たいもんだ。
ニコルの事は任せときな。じゃあな、杏里。じゃあな、ニキ。

空中庭園では昼食を楽しんだ学生達が、思い思いの方法で午後の講義までの時間を潰していた。
いつもと変わらない風景に見えて、要所に増員配置されたポーラースターセキュリティの制服が目立つ。
庭園を囲む森には遊歩道があり、ベンチが点々と配置されている。
俺は、その目立たぬ一画に隠れるように座る、妙な二人組を見かけた。
クリミア「わたくしを、そんな目で見るなんて……どういうつもり?」
シルビィ「あ、それイライザ様っぽいわ。クリミア」
眼鏡をかけた少女の賞賛に、金髪の少女がぎこちない鷹揚さで応える。
イライザ様……イライザさんの事なのか?
クリミア「次はシルビィの番よ」
シルビィ「えと……紅茶の味が落ちるわ。去りなさい」
やっぱり、イライザさんの事らしい。俺が知らない、昔のイライザさん。
ファーストのクラスで時折囁かれる事もある生きた伝説。
なるほど、イライザさんが言えば決まりそうな台詞だけど、この二人は、どうにもこうにも……
クリミア「やっぱり、威厳が足りないわ……」
あ、自覚してるのか。
シルビィ「気品も足りない。やっぱりイライザ様にはなれないのかしら」
ネコはライオンにはなれない。当然のことだ。
クリミア「……いいえ、挫けないわ。挫けたらイライザ様に叱られちゃう」
シルビィ「叱られ……たい……かも」
クリミア「…………」
二人組は、なにかを思い出すように視線を宙におき、互いの手を握った。
むむ、なんだか妙な雰囲気になってきたぞ。
クリミア「とりあえず、様付けはやめましょう。今日からは呼び捨てよ」
シルビィ「イライザ……。そう呼んだら怒る……かな」
クリミア「怒る……わね……」
二人の顔が紅潮して、目が潤み、見つめ合い、顔が近づいて、少し舌を出した唇が……たまらず俺は駆け出した。
……イライザさん、貴方ってば罪なお人です。

人通りの多いベンチで眠りこけていたニコルの袖を噛んで引っ張る。
ニコル「……コロ。杏里はニキの部屋かい」
知ってるのか。まあ、杏里が声かけないわきゃないか。一緒に来ればイイのによ。
ニコル「お前、今、野暮なこと考えただろ。あたしを馬に蹴らせて殺す気か?」
……ああ、そうだな。ニコ。
大きく伸びをするニコルの目に疲労の色が濃い。普通にニキの部屋に泊り込めばいいものを、天邪鬼にもほどがある。
俺の視線に気付いたニコルが、俺を見やり、鼻をならして立ち上がる。なんでもない。自分の好きでやったことだから意見するな。そういうポーズ。
いいさ、ニコル。部屋に帰って眠ろうぜ。俺が見張っててやるからさ。
ニコル「そんなに引っ張るなよ。わかったよ、戻ればいいんだろ」
のたのた歩くニコルにリードを掴ませてグイグイ引っ張る。
リードに掛かる重さは軽くはなかったが、俺は胸を張って悠然と歩いてみせる。
自分の相棒が誇り高いのを知るってのは、自分がそうあるよりも気分がイイ。
そういうもんだろ?